小グループで聖書を学ぶ
37 偶像でいっぱいなのを見て(使徒17:16〜21)

「心の門を開いて」

 観光地で漫然と建物や風景を見るのとその歴史や由来を知って見るのとでは、感じることは大きく違うものです。物事をどう見るかで、受け止め方も対処の仕方も変わります。ギリシヤ文明の地アテネに行ったパウロは、そこで何を見て、何を感じて、どうしたのでしょうか。その様子から、私たちへの適用を学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 パウロは、ベレアでの迫害を逃れてアテネに来ました。アテネは、ギリシヤ文明の栄光が残っており、アテネ人はそれを誇りとしていました。パウロが育ったタルソもギリシヤ文化の中にありました。ギリシヤ文化に触れた人々にとっては、アテネは憧れの的でした。アテネを観光する人は、美しい彫刻と素晴らしい建築群を見て、圧倒されますが、パウロはそこで何を見たのですか。パウロの目には、何が飛び込んで来たのですか。
・15〜16節/


2 アテネを観光する人は、美しい彫刻と素晴らしい建築群を見て圧倒されるのでしょうが、パウロの目に飛び込んで来たのは、アテネに満ちていた偶像でした。偶像が溢れていたアテネを見たパウロは、そこに住むアテネ人をどのように見たのでしょうか。
・ローマ1:21〜23,25/


3 町が偶像でいっぱいというのは、人々の心が偶像で覆われている、偶像に支配されているということです。パウロには、高度な文化と哲学を誇りにしていた町の人々が、偶像と迷信に支配されていると見えたのでした。現代人は、高度に発達し、物質あふれる社会を誇り、生活を楽しんでいるように見えます。私たちの目には、この社会や人々の姿がどのように見えているのでしょうか。どのように見るのでしょうか。
・ローマ7:15,19〜20,24〜25/(参考)
・エペソ2:1〜3/(参考)

4 偶像に溢れていたアテネを見たパウロは、「心に憤りを覚えた」というのです。憤りを覚えたという原語の意味は、心が刺激された、感情をかきたてられたということです。怒ったというよりも、高度な文化と学問がありながら、偶像と迷信に支配され、かき回されている人々を見て、辛くて、苦しさを覚えたのです。残念でならないという憤りを覚えたのです。イエス様も、憤られましたが、どんな時どんな人々の様子を見て憤られましたか。
・ヨハネ11:33,38/

5 私たちは、人の罪の姿に接した時に、怒りや憤慨を覚えるでしょう。しかし、罪に囚われ、その人の罪がしたくない悪を行わせています。私たちの目には、時には他人が羨ましく見え、妬みさえ覚えることがあるでしょう。しかし、好き勝手にできても、どんなに富や学問があっても、誰でも罪に支配され、偶像と迷信に囚われています。聖書は、そのような人々の姿を見て、私たちがどのような思いを抱くことを勧めていますか。
・Tペテロ3:15〜16/
・Uコリント11:29/

6 偶像だらけのアテネの姿に心痛め、聖なる憤りを覚えたパウロは、どう行動したのでしょうか。いつものようにユダヤ人の会堂に行って福音を伝え、論じ合うだけではありませんでした。どうしていますか。どんな人々と会って、福音を伝え、論じ合っていますか。
・17〜18節/


7 パウロは、広場でエピクロス派とストア派の哲学者たちと会いました。さぞかし哲学の知識を駆使して、哲学論議をしなければならなかったのではと思われるかもしれません。しかし、パウロはどのようなことを話していましたか。これは、私たちにどんな示唆を与えていることになりますか。
・18節,使徒17:3/
・Tコリント2:4〜5,1:21/

8 パウロは、どこでも誰に対しても、イエス様の十字架と復活、イエス様が救い主であることを伝えていました。人が自分より教養があり、社会的立場があると思うと気後れしたり、福音を伝えるのに困難を覚えたりする必要はありません。謙遜に情熱をもって伝えるパウロに対して、哲学者たちの反応はどうでしたか。
・19〜20節/


9 哲学者は、パウロをアレオパゴスという会議場に連れて行って、もっと詳しく聞きたいということになりました。当時のアテネ人はみな、どういうことをしていたのですか。これは、彼らの心がどういう状態だったということをあらわしていると思われますか。
・21節/
・マタイ5:6/

「命の実を刈り取ろう」

 神の御子が犠牲になる救いや復活という概念は、彼らの哲学にもありませんでした。興味本位でもいいのです。聞いてもらえる機会があれば、その人の心のニーズに触れ、救いを求める思いが起こされればいいのです。そのためには、私たちが人々をどのように見ているかということが必要です。人や物事を霊的に見ることができる眼を与えられ、いつでも弁明できる用意をしておきたいと願います。気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。Tペテロ3:15。

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