小グループで聖書を学ぶ

42 気遣いと謙遜をもって(使徒18:24〜28)

「心の門を開いて」

 エジプトにあるアレキサンドリアは、ローマ帝国4大都市の1つであり、世界中のあらゆる蔵書70万冊を集めた世界最大の大図書館があり、多くの学者たちが集っていました。ここで旧約聖書のギリシヤ語聖書70人訳が作られました。ここの出身であるアポロたちの姿から、信仰によって整えられる聖徒としての姿を学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 アレキサンドリアは、その昔マケドニヤのアレキサンダー大王によって建設され、プトレマイオス朝の首都として栄えた都市です。学問で有名な町でした。その町の生まれで、アポロという名のユダヤ人がエペソに来ました。何をしていますか。どんな人ですか。
・24〜25節/


2 アポロは、アレキサンドリアで高い学識を身に付けて育ち、旧約聖書に精通したユダヤ人で、雄弁家でもありました。情緒もよく、人に好かれたようです。しかし、こんなアポロにも、足りないところがありました。それは、何ですか。
・25節/
・ルカ3:3〜4/

3 アポロは、ヨハネのような人としてイエス様を伝えていたようです。アポロは、ヨハネの悔い改めだけで、イエス様の十字架の意味を知らず、福音を語っていなかったのです。残念な姿です。私たちは、どうでしょうか。イエス様のことを学びながら、個人的な救いの体験をしているでしょうか。イエス様は、私の救い主だと確信しているでしょうか。
・マルコ8:29/


4 アポロがエペソのユダヤ人の会堂で堂々とプライドをもって語って聖書を教えていました。しかし、そこにプリスキラとアキラ夫婦がいました。バプテスマのヨハネのような悔い改めを勧めるだけで、イエス様が救い主、キリストであることを説いていないことに気付いた二人は、どうしましたか。その行動にどんな意味がありますか。
・26節/
・ガラテヤ6:1/

5 「わきに呼んで」というのは、人々の前ではなくそっと個人的にアポロに教えてあげたということです。もし人が人々の面前で、自分の足りないところ、間違ったことを指摘されたなら、どうでしょうか。プライドがズタズタになるでしょう。怒りすら生じるかもしれません。むしろ自分を守ろうと攻撃することもあるでしょう。あなたは、指摘を受けた時、どんな思いになりましたか。



6 肉のプライドは、過ちや足りなさを指摘される時、反応します。癒されていない過去の傷があれば、大きく反応します。相手にも攻撃的になります。アポロの心情に配慮したこの時の二人の慎重な姿勢、この気遣いに目がとまります。 イエス様の十字架は、二人が気遣った人のような挫折感や羞恥心、劣等感や自己嫌悪、憂いや心の傷をどうしてくださいますか。
・ヘブル4:15/
・Tペテロ2:24,/

7 プリスキラとアキラ夫婦は、人のそのような姿を知っているからこそ、慎重にアポロの心を気遣ったのです。人を助けよう、人に仕えようとするならば、二人のように人の心を大事にする気遣いが必要です。二人の気遣いを受けたアポロの反応は、どうですか。この後の様子を見ると、分かります。
・27〜28節/


8 アポロは、学者であり知識人です。雄弁家です。人々の評判も得ています。しかし、アポロは、二人の心遣いに感謝して、二人のアドバイスを素直に受け入れました。霊的には、二人が優っていると認めたのです。アポロのすばらしさは、このような謙虚さ、素直さにこそあります。誰かの心遣いや配慮によって、失敗や間違い、足りない所の指摘を素直に受け入れられた例を分かち合ってください。



9 指摘やアドバイスを謙遜に受け入れ、失敗や間違いを素直に認め、謝り、直すことのできる人でありたいものです。それを妨げるものが肉のプライドであり、癒されていない心の傷です。ですから、プリスキラとアキラ夫婦のような心遣いや配慮が重要になって来ます。イエス様は、私たちのためにどのようになられましたか。
・ピリピ2:6〜8/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様は、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われました。私たちは、このイエス様に救われたのですから、互いに自己中心や虚栄心からすることなく、他の人のことも顧みて、気遣い、受け入れ、仕える者となりたく願います。学びを通して与えられた気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。ピリピ2:3〜5。

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