小グループで聖書を学ぶ
3 心を刺され(使徒2:22〜47)

「心の門を開いて」

 心を痛めると聞くと、人はあのことであの人によって傷付いたということを思います。しかし、もう一つ、自分が人に対してしたこと言ったことで、自分の心が痛むということもあります。きょうの箇所は、人々が福音を聞いて人々が変化して、初代教会が始まったところですが、その鍵は、人々の心が痛み、心刺されたことにあります。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 当時エルサレムに集まっていた人々は、みなイエス様が殺された事件を知っていたでしょう。でも、事件を知っていただけです。その意味は知りません。使徒ペテロは、人々に対してどんなことについて話していますか。
・22〜24節/
・31〜32節/

2 ペテロは、イエス様の十字架と復活の意味について話し、このイエス様の苦難と復活が旧約聖書の預言の成就であることを教えています。イエス様は、すべての人々の罪を十字架に負われました。彼らの中には、イエス様の十字架を目撃した者もいたでしょう。彼らに対して、ペテロの話を聞く前に、誰が十字架にかけたのかと質問したら、誰のせいだ、誰の責任だと答えるでしょうか。
・ヨハネ19:16,23/
・マタイ27:1,20,3,22/

3 人々は、許可をだしたピラト総督、刑を執行した兵士たち、銀貨30枚で売ったユダ、画策した祭司長たち、十字架につけろと叫んだ群衆などと答えるでしょう。十字架の責任は、みな他の誰かです。自分はただの傍観者と思っています。でも、本当に無関係なのですか。ペテロは、何と繰り返し宣言していますか。
・イザヤ53:4〜6/
・23,36節/

4 イエス様を十字架にかけたのは、他の誰かだと思っていたのに、「あなたがたがイエス様を十字架にかけた」と言われました。人々は、どう反応しましたか。この反応は、人々がどう受け止めたことを意味していますか。
・37節/
・Uサムエル12:5〜7,13/

5 「心を刺され」るとは、心がチクッとするという程度ではありません。この原語の意味は、激しく突き刺して、深く痛むという意味です。聞いた人々は、自分がイエス様を十字架につけたと分かり、衝撃を受けたのです。人々は、誰かによって、何かの問題によって自分の心が痛むことには敏感なのですが、自分の言動が人の心を痛めることについてはどうでしょう。私たちは、イエス様の十字架を学んで知っていますが、あなたの心はどうですか。御言葉によって、自分の罪や肉の思いを認識させられることがないですか。
・ヘブル4:12/


6 人々の反応は、心刺されるに留まりませんでした。自分たちがイエス様を十字架につけた張本人だと自覚した彼らは、「私たちはどうしたらよいでしょうか」(37節)と弟子たちに尋ねないではいられませんでした。ここから霊的変化が始まるからです。それに対するペテロの答えは、どうですか。2つの勧めと2つの約束を見つけてください。
・38節/


7 悔い改めとバプテスマを受けることによって、罪の赦しと賜物としての聖霊を受けると約束されていますが、罪の赦しと聖霊について、御言葉はどのように教えていますか。あなたの言葉で説明してみましょう。
・エペソ1:7 /
・ヨハネ14:16〜17/

8 罪とは究極的には、神様から離れて、神様と関係なしに生きることです。罪赦されると、神様との関係が回復します。もう一人の助けぬし、イエス様そのものである聖霊が、自分の内に住んで、共に歩んでくださるなんて、どれほどの恵み、喜び、平安でしょうか。信じて救われた初代教会の聖徒たちは、どのような姿に変えられましたか。特に、印象深いところを挙げてみましょう。
・42〜47節/


9 教会の基本、教会の本質がここにあります。本当に天国の前味を味わっているような姿ですね。その姿は、喜びと楽しさに満ちています。何も問題なさそうに見えます。でも、状況は、イエス様が捕らえられて十字架にかけられ、弟子たちは恐れて隠れていました。迫害のただ中にいました。なぜ、このように喜びと楽しさにあふれていたと思いますか。


「命の実を刈り取ろう」

 イエス様にあって心を一つにすることで、御霊に導かれて、恐れや迫害の中でも、喜びと楽しさのある信仰生活をしていたようです。私たちの教会が、初代教会のような健康で活発な信仰共同体となることを願います。その始まりは、まず私たち自身が心を刺されることからです。今日の学びで与えられた、気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。U歴代34:27。

戻る