小グループで聖書を学ぶ

49 走るべき道のりを走り尽くし(使徒20:17〜27)

「心の門を開いて」

 この時期、多くの駅伝やマラソンが行われます。聖書も、賞を得るように信仰の生涯を走りなさいと教えています。使徒パウロも、信仰の生涯を、走ることに例えています。パウロの訣別説教とか遺言とか言われている箇所を通して、信仰の生涯をどのように生きるのか学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 パウロは、エペソの南にあるミレトスまで来ました。エペソの長老たちをミレトスに呼び寄せました。もう会うことができないと覚悟して、別れを告げ、遺言のような内容を言っています。まず、どんなことを言っていますか。いつ、どこでのことですか。
・17〜21節/


2 パウロは、エペソにいた間、数々の試練の中で主に仕え、人々に御言葉を教え、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を証ししました。特に「涙とともに主に仕えて」来たと言っています。この涙とは、苦難と試練による涙です。パウロは、エペソで働いている間に多くの涙を流しました。それでも仕えたのは、なぜでしょうか。どんな思いがあったのでしょうか。
・Tコリント9:16〜17/


3 18節のパウロの語り出しは、原文では「ご存じのように」で始まっています。パウロがどのように主に仕え、聖徒たちを愛し、福音を伝えたかよく知っていたことを強調しています。それを思い出させている理由は何ですか。
・ピリピ3:17/
・Tコリント11:1/

4 パウロは、これから、聖霊に示されたように、エルサレムへ行きます。そこで自分にどんなことが起こるのか分からないと言っていますが、鎖と苦しみが私を待っているということは知っています。分からないと言ったのは、鎖と苦しみに対するパウロの覚悟でしょう。どうして、覚悟ができたのですか。
・22〜23節/
・24節/

5 覚悟ができたのは、人生をかけて走るべき道のりを走り尽くし、イエス様から受けた神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思わないからでした。パウロは、いつどのようにしてその使命、召しを受けたのですか。
・使徒9:2〜6/
・使徒9:15,26:17〜18/

6 パウロは、イエス様に出会った時、イエス様がすでに自分を知っておられ、自分のための偉大な計画をもっておられることを知りました。使命を受けたので考えが変わり、人生が変わりました。偉大な人生を生きるようになりました。人がイエス様を信じて救われたのなら、走るべき道のりと使命があります。私たちの使命は何でしょうか。自分の走るべき道のりとは何でしょう。思うところを分かち合ってみましょう。
・Uテサロニケ1:11/


7 人は、主からの使命、神からの召しなどあまり考えないかもしれません。それどころか、自分の望みや願いを神様が叶えてくれることばかり考えるでしょうか。そこに信仰生活の問題があります。パウロは、自分の使命を覚えて、それを果たすべく、走るべき道のりを走り続けました。自分の肉の思いよりも素晴らしい主からの召し、聖霊の導きを意識すると、どのように信仰の人生を走るようになりますか。
・Tコリント9:24〜25/
・ヘブル12:1〜2/

8 パウロは、エペソでの自分の走るべき道のりを走り尽くしたという思いについて、何と言っていますか。それは、旧約聖書のどんな例えから言っていることですか。
・26〜27節/
・エゼキエル33:2〜6/

9 私たちも主から立てられた聖なる見張り人の意識をもって、自分に与えられている使命を全うしたく願います。人は、誰でも人生において困難な道があり、苦しい道を行く時があります。パウロの走るべき道のりは、苦しみの連続でした。パウロがそんな道を走り尽くすことができたのは、イエス様との出会いと主から与えられた使命観があったからです。やがて、パウロは地上の生涯が終わろうとしていた時、何と告白していますか。そのように告白したパウロの思いを想像してみましょう。
・Uテモテ4:7〜8/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、不安や恐れの思いにおおわれてしまうことがあります。自分には何もない、自分はだめだと落ち込むこともあります。しかし、自分自身に問うてみましょう。「私は、果たして自分の人生を、最善を尽くして走って来ただろうか」。私たちも、走るべき道のりがあります。そのためには、日々私たちの人生に臨むイエス様を覚えましょう。イエス様との出会いを経験しましょう。今日の学びで与えられた気付きや決心を分かち合い、互いのために祈りましょう。Uテモテ4:7〜8

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