小グループで聖書を学ぶ
61 神と人の前に良心を保ち(使徒24:10〜21)

「心の門を開いて」

 「人は苦境に立たされている時こそ真価が問われる」と言われます。ある人は、苦境に立たされて、自暴自棄になるでしょう。苛立って乱暴な発言や行動に出ようとします。また、苦境に立たされたときこそ、心を引き締めて物事に当たる人もいます。苦境の時イエス様と共に問題を解決するのが、イエス様を知らない人々との違いだと言われます。パウロの裁判の場での姿を通して学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 フェリクス総督の法廷において、ユダヤの権力者に雇われた弁護士が、レトリックを駆使してパウロを偽りと悪口で告訴しました。群衆も「その通りだ」と叫びました。そのような中で一人パウロは、どのように弁明していますか。レトリックを悪用した弁護士テルティロと比べてみましょう。
・10〜14節/
・使徒24:5〜6,9/

2 パウロは、自分に対して嘘偽り、誹謗中傷を言うテルティロ弁護士やそう言わせているエルサレムの権力者に対して、批判や怒りをぶつけたり、ののしり返したりしていません。人は、責められたり、悪口を言われたりする時、感情的になり、通常ならば言わないことを言い、言うべきでないことまで発してしまうでしょう。パウロは、どうしてそのようにならなかったと思いますか。
・Tペテロ2:19,22〜23/(参考)
・エペソ4:29/(参考)

3 責められたり、悪口を言われたりする時、感情的になり、通常ならば言わないことまで言ってしまうでしょうか。それとも、心傷付いて、落ち込んで、的確な応答ができなくなるでしょうか。聖書は、私たちにどういう備えが必要だと教えていますか。
・Tペテロ3:15〜16/
・ルカ12:11〜12/

4 問題が起こった時、苦境に立たされた時、私たちの真価が問われます。どのような信仰で生きているのかが明らかになるからです。そういうパウロの信仰が、この裁判の弁明の時にも現れています。それは、どんなものですか。
・14〜15,21節/
・ヨハネ5:24,29/

5 パウロの証ししていることは、正しい者も正しくない者も復活するが、イエス様を信じて救われた者は、裁きに会うことがなく、永遠の命をいただいているということです。どう生きたかに応じて報いを受けるのですから、どう生きるかが大切なのです。神の恵みによって救われた者は、救われた後、どのようにされて行くのですか。
・コロサイ3:10/
・Tヨハネ3:2/

6 イエス様の十字架を信じて救われた者は、新しくされ、造り変えられ、イエス様に似た者とされて行きます。天国に召されるまで新しくされ続け、霊的に造り変えられる過程を歩んでいるのです。この聖化の歩みについて、パウロはどのような姿勢で歩んでいると証ししていますか。それは、どんな内容ですか。あなたの言葉で説明してみてください。
・16節/


7 「この男は宮さえも汚そうとしました」(6節)という告訴に対するパウロの弁明はどうですか。内容を偽りの告訴と比べてください。
・17~18節, 使徒21:28〜29/
・使徒20:4,ローマ15:26 /

8 パウロは、彼らの言うことは偽りだ、訴えは根拠のないことだと弁明しました。証拠がなければ、無罪放免されるべきであり、裁判を続けるべきではありませんが、釈放されず、裁判は続きます。それでも、パウロは、絶望せず、神様を信頼し続けました。あなたは、問題が起こった時、苦境に立たされた時、どんな思いになりましたか。どんな言葉が口から出てきましたか。
・19〜20節/


9 私たちも、どうしてこんな状況になったのかと嘆く時があります。行き詰まって、絶望することがあります。そのような時、私たちの信仰が明らかになります。しかし、問題が起こった時、苦境に立たされた時こそ、パウロにとって神様と交わる時となり、イエス様とともに取り組む時となりました。神の前にも人の前にも良心を保つように努めていたからです。あなたには、パウロのように心に覚えている信仰の姿勢や思いがありますか。ちょっとしたことでもよいので、分かち合ってみましょう。
・16節/

「命の実を刈り取ろう」

 問題が起こった時、苦境に立たされた時、私たち自身が、イエス様と共に生きているのか、神様を信頼しているのか、御言葉を食べて生きているのかが現れます。苦境に立たされた時、神様に対して文句や不満をぶつけるのでなく、主に期待して信頼してみましょう。「どうしてこんな状況にしているのか」ではなく、「これからどうされようとしているのですか」と聞いてみましょう。今日の学びで受けた導きや適用を分かち合い、互いにために祈りましょう。16節。

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