小グループで聖書を学ぶ
64 神の前に生きてきました(使徒25:13〜27)

「心の門を開いて」

 道徳的で、謙遜で、仕事も真面目にする世の人々を見て、クリスチャンと何が違うのですかという人がいます。イエス様を信じているといない違いだけでなく、生き方にも大きな違いあります。今日の箇所に登場する人々の姿から学ぶことにしましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 前回登場した総督フェストゥスは、真面目で誠実に対応する賢い役人という観でした。しかし、パウロの裁判についてアグリッパ王に話す内容を見ると、興味深いことが分かって来ます。アグリッパ王は、ユダヤのうちガリラヤとベレヤ地方の統治をローマ帝国から任されていた領主です。前回の箇所と比較すると、実際と報告にどんな違いがありますか。なぜ違っているのでしょうか。フェストゥスのどんな思惑が感じられますか。
・13〜16節/
・使徒25:3〜5/

2 ユダヤ人がパウロを罪に定めるように求めて来たが、それはローマ法に違反するから毅然として拒否したと言っています。しかし、実際とは違います。自分を格好良く飾り、自分を立派な総督、よく仕事をやっていると見せています。裁判が始まるところでも、そうです。報告での裁判開始の印象と実際の開始を比較してみましょう。
・17節/
・使徒25:6/

3 17節ではすぐ翌日に裁判したかのようですが、事実はエルサレムに8〜10日ほど滞在した後カイサリアに帰り裁判を開いています。迅速に裁判を進める勤勉な役人のように自分を飾っています。こんな細かいことまでと思いますか。でも、自分は頑張っていると細かいことまでアピールしているのです。認めてもらえなかったら憤慨し、誉めてくれなかったら面白くないでしょう。何か思い当たることがありませんか。



4 裁判の内容についても、自分の有能さをアピールしています。パウロがカエサルへ上訴したことについては、王への報告ではどのように表現していますか。ここまで来ると、脚色です。人が自分に関して話す時、なぜフェストゥスのように嘘や脚色が入るようになると思いますか。
・21節/
・使徒25:11/

5 自分を飾り立ててばかりのフェストゥスですが、謙遜な姿も見せています。自分の有能さを自慢していたフェストゥスが、「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と言っています。その狙いは何でしょうか。人のどんな性質に訴えているのでしょうか。
・20,26節/
・ルカ11:43/(参考)

6 アグリッパ王の前で自信がないように装い、いかにも助けてほしいような素振りをしています。これも、アグリッパ王を持ち上げて、好感を持たれたいための演技です。アグリッパ王が囚人のパウロを尋問するために来た時の姿やそこに列席した人々、その場所はどうですか。どんな情景のようですか。そこに引き出されたパウロの姿と比べてみてください。また、それぞれの心はどうですか。想像してみてください。
・23〜24節/
・マタイ23:25,詩篇51:10 /(参考)

7 人は、他人の目、他人の評価を気にします。そうすれば、どうしても外見を飾るようになり、自分をよく見せようとします。私たちも気にして、時にはそれに振り回されてしまうでしょう。何か忘れていないでしょうか。イエス様に出会って救われたパウロは、どのように生きていた人ですか。引用聖句の印象はどうですか。
・使徒23:1/
・使徒24:16/

8 パウロが素晴らしい信仰の歩みができたのは、神の前に生きてきたからです。信仰者として生きることは、神の前に生きるということなのです。人の目だけを気にして生きれば、外見を飾り、評価を得ようと懸命になるでしょう。偽りや不誠実も入り込んで来ます。人の目ではなく、神の目を気にすれば、どうなりますか。
・Tサムエル16:7/
・ヘブル4:13/

9 着飾って列席する高位高官たちとパウロの姿のコントラストを想像してみてください。不正と腐敗と不倫の中で生きていた彼らの心の中に平安はなく、不安や恐れもあったでしょう。一方パウロは、監禁されていても、福音の力によって平安で感謝をもって生きていました。私たちは、どのように生きていますか。「神の前に」という意識がありますか。


「命の実を刈り取ろう」

 他人に認められる、評価されるのは良いことでしょう。しかし、それだけを気にしていたら、フェストゥスのようにならざるを得ません。私たちは、霊の導きを求めて、御言葉に聞かなければなりません。他人のことを考えながら、主の御心にふさわしく生きようとしているでしょうか。私たちは、神の前に生きようとすることを願います。学びを通して導かれた気づきや適用を分ち合い、互いのために祈りましょう。使徒23:1。

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