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4 主の御名によって立ちなさい(使徒3:1〜26)

「心の門を開いて」

 目は口ほどにものを言うと言われますが、人の視線を最新の機器で記録し、分析することで犯罪捜査やマーケティングに利用できるそうです。それは、視線がその人の関心や注意の対象に向けられるからです。今日の箇所においても、登場人物の視線を追うことでメッセージを知ることができます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 この箇所は、使徒ペテロとヨハネが祈りのためにエルサレム神殿に行った時の出来事です。宮の美しの門でどんな人が何をしていましたか。この人の視線は、どこに向けられていたことが分かりますか。
・1〜4節/


2 この人は、ペテロとヨハネが入ってくるのを見て、施しを求めたとありますが、2人に「私たちを見なさい」と言われています。つまり、この人は、2人の顔を見ていないで、下を向いたまま施しを求めており、視線はお金の入れ物に向けられていたということです。生まれつき足の萎えたこの人は、宮の門まで運んでもらい、物乞いをしていました。こんな状況にあったこの人の心情は、どうだったと思いますか。



3 この人の視線は、そのような場にいながら、神様に向いていません。宮で行われる礼拝や祈りにも、そこに入る人々にも関心がありません。視線は下を向きながら、己の不遇を嘆き、貧しく不自由な暮らしを憂い、萎えた心で物乞いをしていたのです。今、あなたの関心は何にありますか。心の視線はどこを向いているのですか。



4 この人の前に立っている使徒ペテロも、多くの失敗をし、心が萎える歩みをして来ました。そんなペテロが、復活の主に出会い、聖霊を受けてから主だけを見る視点に変わりました。聖霊に導かれたペテロが、物乞いをする人を見つめて「私たちを見なさい」と言いました。この時ペテロは、どんな視線をこの人に向けたのでしょう。この人は、どんな視線をペテロに向けたのでしょう。それぞれの心情は、どうですか。
・4〜5節/


5 物乞いを見るペテロの視線は、他の人と違って見えたでしょう。この人は、大いに期待しました。ところが、ペテロの発した言葉は、どうですか。この人は憤慨しましたか。どう受け止めましたか。この後の出来事から考えてみましょう。
・6〜8節/
・16節/

6 今まで心が萎えていたこの人は、イエス様の御名を信じて立ち上がり、イエス様の御名によって歩き出しました。人は、問題や事件によって衝撃を受けるならば、心が萎えて、立っていることもできなくなり、病んでしまいます。社会で多くの人々が、お金だけを目的に生きています。今、私たちに対しても、「イエス様の御名によって立ち上がってみなさい」と御言葉は語りかけています。あなたは、どう聞きますか。どう反応しますか。



7 宮の中で、美しの門で物乞いをしていた男が、歩いて賛美しているのを見た人々は、どのように反応しましたか。彼らの視線は、どこに向けられましたか。それは、彼らはどういうことを思ったからですか。
・9〜11節/
・12節/

8 集まった人々は、ペテロとヨハネがあの男を癒したのかと視線を2人に向けましたが、ペテロは、どこに彼らの視線を向けさせようとしましたか。そのために、人々に何を語り始めましたか。
・13〜16節/


9 ペテロは、この人を癒されたのは、あなたがたが総督に引渡し、十字架につけろと要求して、殺してしまったイエス・キリストなのですと話しました。ペテロの話を聞きながら、人々の視線は、誰にどういうことに向けられて行ったと思われますか。そのことについて、ペテロの勧めから、どういうことを知ることができますか。
・17〜19節 /

「命の実を刈り取ろう」

 この物乞いの人のような境遇だったら、人々は、自分は被害者だという思いで、社会を憎み、親を恨み、自分の人生を悲観し、悔い改めることなどしないでしょう。人は、問題や事件で心が萎える時、被害者意識でいっぱいになります。今社会は、被害者意識が覆っていて、みな被害者意識を抱き、不満と怒りを募らせているそうです。何でも他人のせいにする総他責社会になりつつあると言われます。神の前に自分の心を見てみれば、罪を知り、悔い改めに導かれざるを得ません。そうして、被害者意識から立ち上がることができ、新しい歩みが始まります。この物乞いの人のように、喜び踊りながら賛美するようになることを願います。気付きや決心を分かち合い、祈りましょう。ヨハネ20:31。

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