小グループで聖書を学ぶ
1 蝗害 (ヨエル1:1〜14)

「心の門を開いて」

 社会では、多くの災害や事件が起こっています。職場や家庭、学校においても様々な問題や事件があります。私たちも、試練や患難に出会います。きょうの個所では、未曾有の災害に出会うと人はどうなるのか、どうしたらそこから回復できるのかを私たちに教えてくれます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 預言者ヨエルとは、南王国ユダのヨシヤ王の時代に活動した人です。ヨエルの伝えたのは、前代未聞の災害です。どんな災害ですか。その特徴は、どんなことですか。
・2,4,7節/


2 前代未聞のいなごの害です。2,4節。蝗害(こうがい)とは、バッタが大量に発生して、空を覆い尽すような大群が襲って来て、すべてを食い尽くすというものです。植物はなくなり、人も家畜も飢えてしまいます。とにかく一度にすべてのものを無くしてしまい、すべてのものを駄目にしてしまう災害や事件、問題や患難をあらわすようです。あなたにとって、人生の中で蝗害のようなことがありましたか。どういうことがそれにあたりますか。その時、どう思いましたか。



3 いなごの甚大な害に出会った人々がどうなるかについて記されています。まず、いなごがすべてを食いつくし、依存していたものがなくなり、目覚めて、泣くようになる人々が描写されています。彼らは、何に依存して生きていた人々ですか。災害は、人々の生活を点検させるようになります。あなたにとって、彼らのように依存していたものは、何ですか。なぜ、そのことに気付かされましたか。
・5節/
・エペソ5:18/

4 災害の中で、許婚の夫を亡くした乙女の悲しみが記されています。幸せを前にした者のそれを失った大きな悲しみをあらわしています。災害や事件の結果、家族のことで悲しみと絶望にうちひしがれることがあります。災害は、家族の大切さを改めて覚えさせます。そのような経験がありますか。
・8節/


5 いなごの害でささげるものがなくなり、礼拝ができなくなって、祭司たちは喪に服する人のようになってしまいました。礼拝を自由にささげられる時は、その恵みが分かりません。もし、礼拝に集うことができなくなり、説教を聞くことも、賛美をささげることもできず、主の臨在の中にいることができなくなったら、どうなりますか。どんな思いになりますか。
・9節/
・アモス8:11/

6 農夫たちは、苦労して育てた野菜や果物がすべて駄目になり、泣きわめくだけでなく、作物を守れなかった農夫としてのプライドも地に落ちてしまいました。災害や問題でそれまでの仕事の成果が失われる時、どんなにがっかりするでしょうか。でも、そうなった時、それまでの自分の仕事がうまく行くようにということばかりに向いていた心は、どこに向くようになるでしょうか。
・11節/
・U歴代30:9/

7 未曾有の災害を通して、放蕩していたことに目を覚まし、事がうまく行くことばかり考えていた思いが変えられ、形式的な信仰生活をしていた者は真実にイエス様を愛するようになります。これらのことは、何に依存して生きているのかという問いを私たちになげかけています。どんな災害や患難でもなくならないものがあります。私たちからそれを引き離すものはありません。それは、なんですか。
・ローマ8:35〜37,39/


8 蝗害に出会った人々に対して、預言者ヨエルは、何をするように呼びかけていますか。何を回復するようにと言っていますか。
・13〜14節/
・マタイ11:21/

9 聖徒たちがどんな災害や患難に直面するにせよ、主の前に立ち返り、主の臨在を求めてささげる礼拝こそが、災害によって悲しみや苦しみ、絶望や空しさに覆われていた心が生き返る道です。人生には、災害や患難があります。嵐が吹き荒れることがあり、経験したことがない問題や事件も起こります。そのような時、あなたはどうするつもりですか。
・節/

「命の実を刈り取ろう」

 問題や失敗、病気や試練、色々な苦しい出来事の中で私たちの心は試みを受け、神様から心が離れ、否定的悲観的な思いへと誘われます。失意や不安や恐れが心に広がります。そのような中で、私たちがするべきことは、何よりも神様との関係を回復し、患難や問題の中でも神様の守りと導きがあることを悟り、主に信頼し続けることです。礼拝を聖会としなさいと主は言われます。礼拝は、私たちの恵みの泉です。災害や患難、様々な問題と試みの中にある私たちは、共に主に立ち返り、主の臨在の中で悔い改め、心から神様に祈り、賛美し、真実の礼拝をささげましょう。申命記30:2〜3。

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