小グループで聖書を学ぶ
7 さばきの日か救いの日か (ヨエル3:9〜21)

「心の門を開いて」

 脳の働きの中には、必要でない情報と必要な情報を振り分けているフィルターシステムがあります。その基準は、「自分が重要だと判断した事」です。そのために勘違いや錯覚が起こります。見えているのに見えない、知らされているのに気付かないのです。人は、裁きについても、思い違いをしています。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ヨエル書は、3章しかない短い書の中に「主の日」という表現が繰り返し出てきます。人々が主の日は来ないと思い違いをしていたからです。裁きなんてあるはずがない、裁きがないほうが都合がいいという自己中心の思いが、裁きは来ないと思い違いをさせたのです。それで、民は、神から離れて自分勝手に生き、罪を犯し、悪を行うようになりました。主の日について、今日の箇所では、何をしなさいと命じていますか。
・9〜12節/


2 世界の国々に対して、武装してヨシャパテの谷に集まれと言っていますが、ヨシャパテの谷とは、具体的な谷というのではありません。何がなされる所だと言っていますか。13節の言う収穫の様子は、何を表していますか。
・14節/
・13節, 黙示録14:18〜19/

3 裁きについて知らされていたのに、ユダの民は考えていませんでした。ロダンの「考える人」という有名な彫刻があります。実は、この作品は、元は地獄の門という大作の一部です。考える人が考えていたのは、裁きのことだと言えるでしょう。「私はどのように生きて来たのか」、「神は果たしてどんな判決を下されるのか」、「私はどう生きればよいのだろうか」このようなことを考えていたのでしょうか。あなたは、裁きについてどんなことを考えますか。
・ヘブル9:27〜28/


4 主の日はさばきの日と言っていますが、同時に救いの日でもあります。「だが」という言葉が、強調されています。イエス・キリストを信じる人々は、神の救いの恵みを受けます。イエス様を信じて救われた人は、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったので、どういうことを受けていますか。
・16〜18,20節/
・ヨハネ5:24/

5 パウロの説教は、ヨシャパテの谷の裁きが新約的には何なのかを示しています。どんなことを教えていますか。
・使徒17:30〜31/
・使徒14:15〜17/

6 さばきの谷は、判決の谷です。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになります。神の裁きの座の前に立って、尋問を受けることを想像したら、しどろもどろになってしまうでしょうか。判決を恐れるしかないのでしょうか。
・ローマ14:10/
・Tヨハネ2:1/

7 私たちが勘違いしているのは、この神の判決、判定を忘れて、人や自分の判定や判断に揺れ動いていることです。私たちが人生を生きて行くのに難しいことの一つが、判断されることです。私たちは、信仰生活をしながらも、人々の判断によって傷を受けます。人の判断には、2種類の判定、判決があります。どんな判決、判定ですか。
・Tコリント4:3/


8 職場での上司や同僚の評価や判断を受けたり、周辺の人々から批判されたり、プライドを傷つけられたりして、傷を負います。他人が自分のことを勝手に判断するのは多いです。それなのに、あたかも決定的な判定のように受け止め、判決を受けたかのようにずたずたにされてしまうのです。しかし、自分で自分を裁いて自虐するのは、その害はもっと大きいのです。自分をよく知っているがゆえに、自分で自分を打ち叩くことになるからです。あなた自身にとってそのような例がありますか。



9 使徒パウロは、この2つの判断について何と言っていますか。それは、人の批判を聞かず、自己反省もしないで厚顔無恥を決め込むということですか。2つの判断についてそのように言っている理由は、何ですか。
・Tコリント4:3/
・Tコリント4:4/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、「私をさばく方は主です」という最終的な判定者である主に委ねます。自分に関しても、他人に関しても主に判断を仰ぎ、主に判定を問うのです。そうすれば、謙遜に批判を聞けるし、健全に自分を受け入れ、健康な心で前進して行けます。人からの判定で受けた傷の上に自分で裁いて自分に傷を与えないようにしましょう。救い主イエス様の十字架の血が私たちを救います。私たちが救われ、裁きを免れる道は他にありません。私たちがイエス様を信じるならば、主の日は裁きの日ではなく、救いの日となります。今日の学びで発見したこと、決心したなどを分かち合いましょう。Uコリント6:2。    

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