2012年1月1日「私たちはどう生きるのか」イザヤ9:18-10:4

序−新しい年を迎えて思うことは、この年がどのような年になるかを願い、この年をどう生きようか考えることです。しかしながら、人は、たった一度の人生を罪に流され、欲心によって空しく生きてしまいます。人生は、何も考えなければ、世に流されて生きてしまいます。間違った生き方をしていた民の姿を通して、神の民としての生き方を確認しましょう。

T−悪い火種は広がる−18-19
 北イスラエルは、神の民であったのに、どうして滅びに向うようになったのでしょうか。火事の譬えで説明しています。18節。「いばらとおどろ」とは、やぶのことです。藪というものは、いったん火がつくと、たちまち燃え広がって、林の茂み全体が燃えてしまうものです。この火種に譬えられているのが北イスラエルの悪行です。19節。藪に火がついて燃え広がるように、イスラエル全体がを悪くなってしまうことを譬えています。
 どうして、小さい悪行が北イスラエル全体を滅ぼすようになるのでしょうか。人は、罪のために欲心を持っています。誰か卑劣な行ないをしているのを見ても、他の人々の目を気にして、真似をすることはしません。しかし、社会全体が悪くなれば、悪い行ないは火のように広がり、他の人々も汚染されて行くということです。社会全体に不正は広がり、腐敗が進んでいたのです。
 悪行が広がるかどうかというのは、人が神様を恐れるか恐れないかということにかかっています。神様を恐れるならば、人がどんなに不正な手段で益を得ようとも、それに従うことはできません。神様が見ておられるためです。人が罪に駆られると、噂話に飲み込まれて、それを広げますが、霊的に成熟した聖徒たちは、良くない噂が広がらないようにするものです。そのような行為が、どれほどサタンのうごめく所となって、火が燃えるようなるかを知っているからです。
 悪行が広がるようになったこの社会の大きな問題は、でたらめな礼拝にありました。勝手に思うままに礼拝儀式をしていました。ですから、そこで人々の罪が指摘されたり、治療されたりする礼拝ではありませんでした。偽預言者たちは、神の御言葉を伝えるのではなく、民の耳に聞こえのよいことしか言いませんでした。
 礼拝で罪がきよめられ、解決されて行くのでないなら、道徳性は崩れ、誰かが不正な手段で利益を得れば、罪の性質がそれに流されるようになります。社会が堕落して、混乱するなら、賄賂は横行します。しかし、神様の聖い性質が注がれるなら、そのようなことを嫌うようになります。誰かが不正や不品行をしていても、正しいことを言うのを聞けば、良心が刺されて、それ以上罪の拡散はしなくなるのです。罪の火種は鎮火するわけです。価値観の衰退した世に生きる私たちは、御言葉を聞いて、従うことが私たち自身にとってばかりでなく、周りや社会にとっても大切です。
 神様が民に求められたのは、完全さではありません。誰であろうと、まず罪を悟って、恵みを受けて、罪を罪と感じて、生き方が変わって来ることです。ですから、自己満足でない、真実な礼拝が大切です。この年も、礼拝によって、NLSやセルによって、私たち自身が霊的に整えられ、癒やされて、そして、私たちから良い火種が私たちの周りに、この地に広がって行くことを願います。

U−自分に返って来る欲心−20-21
 この国が滅んで行くのは、結局神様がくださることで満足できない彼らの欲心のせいでした。欲心は、自分に返って来るからです。20節。右の家左の家と、隣の人々のものをかすめ取ることです。強い者が弱い者を虐げ、奪い取るということが横行したようです。しかし、そのようなことは、何かの時に自分を助けてくれる人々がいなくなり、結局自分自身を滅ぼすようになる、自分の腕を食べるようなものだと強調しているのです。
 このようなことをブーメラン効果と言います。経済学や心理学でも用いられる表現です。自分の仕業は、結局に自分に返って来るのです。私たちは、心に覚えておかなければなりません。北イスラエルの民が行なった悪行は、結局自分たちに返って来たのです。悪いことが戻って来るより、良いことが戻って来るようにした方がよいではありませんか。人々を助け、人々に仕えて行くならば、自分が助けられ、自分の仕えてもらうことになるのです。情けは人のためならず、と言われる通りです。イエス様ご自身が言う世に来た目的も、仕えるためといわれました。そして、私たちに勧めておられます。マタイ20::26-28。
 悪事は結局自分に返って来る、それは、まるで自分の腕を食べるようだというわけです。強烈な説得力ある譬えですね。ボランティアや宣教も、人々のためであるようで、自分のためでもあります。神様の原理は、他の人を生かすようにすれば、自分の生きるようになるということです。イエス様を信じた者は、もう自分のために生きる者ではなく、主のために生きる者となりました。ローマ14:7-8。
 結局、同胞ユダを滅ぼうと攻撃していた北イスラエルは、自分たちに滅びを招いたのです。21節。マナセとエフライムは、北イスラエルの中心的な部族で、相続地も他の部族よりもはるかに広いものでした。しかし、彼らの欲心は、それでも足りないと、もっと広い領地を求めて同胞を攻めたのでした。世界の歴史を見ても、そうです。
 しかし、彼等が虐げ、かすめていた人たちこそ、彼らが困難に陥った時、頼ることのできる隣人でした。しかし、彼らが隣人をかすめ奪っていたのでは、隣人をすべてなくしてしまいました。弱い人がいて、強い人がいます。貧しい人がいて、富める人がいます。強い人や富める人が、後には弱い人や貧しい人たちの助けを受ける時が来ます。しかし、イスラエルは、周囲の弱い人貧しい人を失ってしまいました。
 両方の人々が共に生きることが重要です。社会学博物学で言う共存の原理です。近年、競争原理ではなく共存の原理が着目されています。人は一人で生きることはできません。協力してある結果を得ることが良いのです。自分が助けるばかり、仕えるばかりと思うのは、傲慢です。イエス様は、労苦して人を助ける方が幸いだと言われました。使徒20:35。

V−哀れまれる神様−1-4
 イスラエルが滅ぶもっとも大きな理由は、信仰の関係を破ったことです。10章1-2節。神様がイスラエルの民に要求されたことは、兄弟姉妹関係です。彼等は、元々エジプトから何も持たないで出て来ました。彼らが持つことができたものは、みな神様がくださるものでした。互いにをあわれみ合うはずでした。しかし、彼等は、富める者権力のある者に有利な法を作り、貧しい人々、弱い立場にある人々には、不利益を被らせていました。
 しかし、神様は兄弟愛を持って、生きることを願われました。人を助けることができることで満足し、助けを必要としている者を助けることができることを感謝するのです。神様の御前で恵みを受ける根拠は、何でしょう。困難にある人々を少しでもあわれみを持つことです。人が困難にある時あわれみを持つ人は、神様からあわれみを受けるからです。しかし、あわれみを持たず、顔を背けてしまうなら、神様もあわれみをくださず、御顔を背けられるのです。ルカ16:19-25。
 イエス様が、不正な富で人を助けるように言われた譬え話があります。ルカ16:1-9。失業しそうになった使用人は、主人のお金で人を助けたことが褒められています。失業した後で、助けてあげた人々から助けてもらえるからです。大事なことは、彼が未来のために生き方を変えたということです。イエス様がこの譬え話をされた理由は、神の民は神様から御言葉をいただき、特別な恵みを多くいただきました。それなのに、彼らはその恵みを自分の中に囲って乱費しながら、人々のために用いませんでした。そのために、彼らからそれらを取り上げてしまうと言われたのです。
 人生の嵐が吹く時、彼らはどうするのでしょうか。避け所があるのでしょうか。3-4節。裁きの日に神様のあわれみを受けようとするなら、人々に対してあわれみを持たなければなりません。他の人のために、執り成しの祈りをしなければなりません。そうすれば、神様が自分の祈りを聞いてくださり、困難から助けてくださいます。私たち自身も、人の助けで困難から抜け出すことができた者たちです。神様に感謝しているでしょうか。神様は、感謝する者を助け、守ってくださいます。
 私たちは、神の民としてどう生きるのか、私たちの避け所はイエス様です。私たちの栄光は、自分の欲をまっとうすることではなく、人々を助け、人々に仕えることです。そのように生きる者には、神様は助ける者を起こしてくださいます。人をあわれみ、人のために生きることが、イエス様に救われた者として神様の栄光をあらわすことになります。どのような立場であれ、そのようにして神様の栄光をあらわす事が私たちの生きる道です。人を助け、人に仕えることで私たちが世に生きた証しとなります。新しい年、新たな思いをもって、神の民として生きたいと願います。



イザヤ
9:18 悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。
9:19 万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。
9:20 右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。
9:21 マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
10:1 ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。
10:2 彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。
10:3 刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。
10:4 ただ、捕われ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。



マタイ20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

ローマ14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

ルカ16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

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