2012年1月8日「神の道具と人の高慢」イザヤ10:5-19

序−神の民であったイスラエルは、神様の統治を知りながら、神様の統治に逆らい、自分勝手に歩んでいました。そのような状況で、当時最も悪い強国であったアッシリヤによって攻められ、滅ぼされることになります。どうして、神様がこんな国を用いられるのか、このような国がどうされるのかを学び、私たちへの適用を受けます。

T−己の分限をわきまえない道具−5-11 
 アッシリヤという国は、それまでの戦争の概念を覆した国でした。それまでの戦いは、武力を見せ付け、服属させて、朝貢させるためです。しかし、アッシリヤは、一つの国を攻めると、その国を完全に破壊し、殺戮し、残りは連行したのです。このような国が、神様が用いられる杖、鞭だというのです。5節。神様が強国アッシリヤをイスラエルに送り、イスラエルを懲らしめる道具として用いられました。6節。イスラエルを攻めさせ、略奪させました。エレミヤ51:20。
 ところが、当のアッシリヤは、そのように考えませんでした。7節。彼らは、この機に乗じて多くの国々を攻め滅ぼすことを考えたのです。8-11節。アッシリヤは腐敗したイスラエルを滅ぼすために遣わされた、という分限をわきまえていません。この機会に多くの国々を攻め、もっと強大なアッシリヤになろうとしたのです。国々の偶像を奪い取って、もっと強い国になろうとしたのです。
 アッシリヤと神様の計画には、ずれがあります。神様は、ただイスラエルだけをアッシリヤに渡されたのに、それを越えて、アッシリヤは、ユダとエルサレムまでも滅ぼそうとしたのです。私たちの計画と神様のご計画にずれはないでしょうか。私たちは、己の分限をわきまえているでしょうか。何のためにその立場と力を与えられているのかを忘れて、己の思いに走っていないでしょうか。
 神様がイスラエルを滅ぼすようにされたのは、腐った部分を切り取るためでした。しかし、アッシリヤは、ユダとエルサレムも略奪して、倒してしまおうと考えていました。これが悪者の特徴です。11節。己の分をわきまえない、わきまえようとしないので、用いられていることに気付かないのです。道具として用いられることを拒み、認めません。自分がしたいことをするという罪の性質の典型がアッシリヤ王でした。
 神の主権、紙の国論という重要な神学が教えられています。どんな強大な国であっても、神様の統治の中にあるということです。残忍で凶暴なアッシリヤ王は、思ったことを実行せずにはいられない者でした。しかし、ユダとエルサレムを滅ぼすことはできません。神様が、そこまで許されなかったからです。神様がユダを見捨てられなかったからです。
 アッシリヤを送ったは、このような悪の勢力を通して、神の民を聖めるためでした。腐った部分を切り取るためでした。もし、癌をそのままにしておけば、体全体に及び、命まで危うくなります。腐った部分だけ切り取れば、大丈夫です。イスラエルの偽の信仰は、癌のようでした。放っておけばユダまでも腐らせてしまうので、切り取られたのです。
 神様がこの道具であったアッシリヤを責められたのは、イスラエルとユダは違うのだということを知らせるためです。ユダは触れさせないぞ、と知らせたのです。なぜなら、まったく違う信仰であったためでした。イスラエルは形だけの自分勝手な礼拝でしたが、ユダは真実な礼拝をささげ、支配層も信仰を堅持していました。私たちも真実の礼拝をしなければ、と引き締められます。私たちは、あきる台BCの信仰は他と違うぞ、と見てもらえるようにしなければなりません。

U−神様の御心−
 神様の関心は、ただ神の民にありました。ここで神様が見せておられることは、神の民がイスラエルのように世に流されるなら滅んでしまうということです。イスラエルの人々は、世のようにすれば栄える、と考えたのですが、歴史を司る神様の御手という巨視的な視点、信仰がありませんでした。神様のなさることは、世界史の流れの中で、神の民の心を取り扱うことでした。
 アッシリヤは、ユダまで攻撃し、滅亡一歩手前まで迫ります。神様は、そのような過程を通して、ユダを悔い改めに導かれたのです。不思議なことに、私たちは、平安になると罪を棄てないのです。うまく行っている間は、悔い改めない、間違った習慣や歩み方をやめないのです。しかし、困難や攻撃に会う時、悔い改めて神様に助けを求めるのです。悪は、そのように用いられるのです。神様は、民を杖や鞭で打って、整えようとされるのです。しかし、間接的なことでは、中々悟ることができなくて、直接アッシリヤの軍隊がユダを攻める時、悲痛な心で神様の御前に跪き、叫び声をあげるのです。私たちに悪者や困難が来るのは、この意味があります。それなら、神様から離れることは、自分に悪者や問題を呼び込むことにならないでしょうか。
 結局、神様は、用いられた分際なのに驕り高ぶる者を裁かれます。12-14節。アッシリヤ王の言葉は、まんざら嘘ではないようです。確かに、国々を滅ぼして国境を取り除き、帝国を拡大しました。それらの国々の財宝も略奪しました。そして、国々の支配者たちの権力を奪い、おとしめました。しかし、王はそれらすべてのことを自分の力と知恵でやったと豪語したのです。それらのことはすべて、神様がイスラエルを裁くためにされたことです。アッシリヤは、神様に用いられた道具に過ぎません。
 今日の政治家や経営者たちは、すべて自分の力でしたと傲慢になります。そのくせ、責任を取ろうとしません。これほど危険なことはありません。それらの権力や権威は、神様が貸してあげたもので、神様は必ずその責任を問います。現代社会に不正や破綻が増加するのも、持てる者が権力を振り回し、私欲のために乱用し、責任を果たさないためです。俺がやった、私がみなしたことだ、と言って傲慢になっていないでしょうか。
 すべてのことは、神様が私たちに貸してくださったものです。その代わり、責任を持って用いることを求められます。神様は、使用料を請求しません。神様の御心に沿うように用いなければなりません。いつか神様は、貸していたものを回収されて、各自が行なったことに応じて裁かれます。マタイ25:14以下。多く与えられている者は、祝福でなく災いとなるかもしれません。欲心で生き、傲慢になるなら、「アッシリヤ」が起こされるでしょう。アッシリヤを通して、人が己の分をわきまえない時、どこまで酷くなるかを見せておられます。私たちは、わきまえのある者でしょうか。

V−傲慢な、わきまえのない者への裁き−15-19
 次に、アッシリヤと神様の関係が、幾つかの比喩を用いて表現されています。15-16節。どんなに斧が鋭くて強くても、それを持っている人に勝てるでしょうか。のこぎりは、大きな木を切るけれども、それで切っている人の手の中にあります。人が棒を振り回しても、棒が人を振り回すことはできません。アッシリヤは、どこまでも神様に用いられた道具に過ぎず、エルサレムを攻撃することは、斧が持ち主を切ろうと同じです。
 神様は、アッシリヤの栄華を終わらせます。17-19節。比喩の意味は、表面上は栄えているように見えるのですが、その内部では栄華が消えかかっているということです。ここでのイスラエルとは、神の民の総称です。神の民は火です。消えかかっているようで、火種があれば、再び燃えるようになります。しかし、アッシリヤは、間もなく巨体が衰弱するように、徹底的に滅ぶようになります。
 火種のある神の民は、苦難を受けても再び生き返ります。困難の中で祈りを始め、心を整えられ、正しい信仰に立ち返ろうとするからです。神の民の信仰に再び火がつけば、もうアッシリヤは必要ありません。悪の勢力は、内部矛盾のせいで自ら倒れて行くのです。患難や挫折を通して、神の民は、神に用いられる器として造り変えられます。エレミヤ18:6。
 私たちが、このアッシリヤの戦いを通して知ることは何でしょう。国々も単純に凶作や戦争によって滅びるのではなく、悪行や堕落という霊的なことで滅ぶのだということです。アッシリヤは、イスラエルの懲らしめのために斧として用いられましたが、そのアッシリヤも傲慢と腐敗のために自ら滅亡の道を辿って行くのです。私たちも国も省みなければなりません。堕落と傲慢は、私たちを滅びに導くのです。
 私たちは、「神の御怒りを受けるべき器」でしたが、イエス様の十字架によって救われた「あわれみの器」となりました。ローマ9:20-23。良い目的のために用いられる尊い道具となりました。Uテモテ2:21。主権は神にあります。私たちにすべてを貸し与え、委ねられました。私たちは、本当に神様の良い道具となって用いられることが期待されています。そのためには、自分の分をわきまえて、神様を恐れて、責任感をもって、精一杯用いられたいのです。ローマ9:20-23。



イザヤ
10:5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。
10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
10:7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
10:8 なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。
10:9 カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。
10:10 エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、
10:11 サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。
10:12 主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。
10:13 それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。
10:14 私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
10:15 斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。
10:16 それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。
10:17 イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。
10:18 主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。
10:19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。



エレミヤ51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。

ローマ9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

Uテモテ2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

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