2012年1月15日「残りの者は立ち返る」イザヤ10:20-34
序−今ユダの民に近づく災難を告げてしています。アッシリヤがユダに攻めて来て、ユダの地を蹂躪し、廃墟と化します。しかし、同時に残される民がいて、神様の恵みで生き残る者がいると教えています。神様は、多くの人々が生き方を変えて、信仰に生き残ることを願っておられます。
T−残り者−20-23
北イスラエルとアラムがユダを攻めて来たので、ユダはアッシリヤを引き入れて、頼みとしました。しかし、アッシリヤは、北イスラエルなどを攻め滅ぼすだけなく、ユダまで攻めて来ました。ほとんどが焦土化するほどでした。しかし、確かな励ましと希望を与える印象的な預言が与えられています。20節。「残りの者が神に立ち返る」と言っています。ここで言うイスラエルもヤコブも、神の民の総称として使われています。神の民全体を指しています。つまり、残りの者は、アッシリヤを頼みとするのでなく、神様に拠り頼む者となったということです。ホセア14:2-3。
神の民が気を付けなければならないことは、世の価値観や見方が信仰の価値観や見方と違うということです。信仰の観点からすると、何か事が生じた時、神様の御前に自分が不足してこのようになったと考え、神様に拠り頼んで解決していただくのです。しかし、世的な方法は、悩んだり恐れたりしないで、手っ取り早い方法を取ります。ユダは、攻められた時、アッシリヤを頼みとして、引き入れてしまいました。信仰の目で見れば、北イスラエルとアラムの連合軍は、ユダを悔い改めに導き、神様に立ち返らせるものです。ですから、神様が解決してくださるまで待つことが必要です。しかし、世的に見れば、アッシリヤを引き入れることは、正当でとてもうまい手です。私たちが、手っ取り早く世的な方法を取る時、それが危険な場合があります。
アッシリヤを引き入れて、この苦境を早く抜け出したいと考えたのですが、その考えは、現実的ではあったけれども、短絡的でした。アッシリヤを引き入れることは、猛獣を家の中に入れるようなものでした。アッシリヤは、アラムや北イスラエルなどの国々を攻め滅ぼすだけでなく、ユダまで攻め、焦土化させました。確かに、ユダはアッシリヤを引き入れることで、一時は平安になりました。しかし、それは、実際には自らに災いを招くこととなりました。不信仰と浅薄な考えのために、私たちもこのような間違いをしてしまうのではないでしょうか。私たちにとって、アッシリヤとは何でしょうか。
しかし、その廃墟の中から、悟る人々が次々と立ち上がるようになります。これらのことは、自分たちの罪が原因であり、神様に立ち返るための出来事だったと悟ったのです。このような彼らが、「残りの者」です。「残りの者」とは、運良く生き残ったということではありません。「残りの者」とは、このように世がひどい中でも、神様の恵みの中で生きて行くようになった人という意味です。彼らも、心の中では人々のように世的に生きたいと思ったけれども、不思議にもそのようにすることはできなかったのです。彼らが世的に生きないように、神様がすべての道を閉ざし、どうすることもできないように、信仰に「残された」のです。これが祝福でした。
はじめは、自分だけが運がないと考えるでしょうが、このような人が神様の御手につかまれているのです。22-23節。名目上の民の民は海辺の砂のように多いけれども、それを神の民とは見ないということです。北イスラエルの民のように、儀式としての礼拝はしても、御言葉に聞き従うことなく、偶像に頼り、肉の思いに汲々とする民を、神の民とは見られなかったのです。神様に拠り頼むとは、自分の人生において神様以外に拠り頼む道はないと認めることです。神様が助けてくださらなければ、生きることができないということです。世的に見れば、どんなに愚かな人に見えることでしょうか。
しかし、神様を体験した人は、神様が良くて、他の何かに拠り頼む必要がなくなるからです。神様の御前に生き残る方法は、神様の御心のままに生きることだけです。神様がくださる範囲の中で、力強く生きるのです。イエス様の十字架以外に救いはありません。イエス様こそ、救いへの道であり、真理であり、命なのです。ヨハネ14:6。
U−神様の救いは反復される−24-27
今イスラエルは、アッシリヤを間違って引き入れてしまったために、大変な災難を受けています。危機と絶望の中にいます。しかし、神様は、猛獣のようなアッシリヤを恐れるなと言われるのです。24節。どうしてそう言えるのでしょう。残りの民はどういう者かということです。「シオンに住む神様の民」だからです。彼らがたっている所はシオン、神様のおられるところです。ですから、滅亡することがありません。
もう神様が自分を悪の勢力に渡されたように感じる時、心は絶望的になり、外面的にはとても耐えることができないと思われる時があります。これは、イエス様が体験されたことです。イエス様は十字架を前にして祈られ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた時、暗黒と絶望の極致となりました。マタイ27:46。信じる者にとってもっとも大きな痛みとは、明日が見えないことです。あれも駄目これもだめと言う時、私たちの心は憂うつで重苦しくなります。しかし、イエス様がすべてを負って、それも体験してくださいました
時が来れば、状況は突然変わります。25-26節。必ず苦難には終わりがあります。生きる見込みがない絶望の中でも、ある時急に状況が変わり始めるのです。神様が出エジプト時エジプトを打ったように、アッシリヤも打たれる、エジプトの奴隷状態から救い出されたように、苦難の中から引き出されると言われたのです。エジプトから出てきた民を軍隊が追いかけて来ました。前には紅海です。民はどれほど絶望し、恐れたことでしょう。その時、モーセが杖を海へ差し伸ばすと、海は分かれて、渉ることができました。出エジプト14:21-22。ローマ8:31-32。
時が来れば、必ず神様は、私たちの肩から重荷を下ろしてくださり、くびきを取り外してくださり、苦境から解放してくださいます。27節。どんなに嬉しいことでしょう。朝の来ない夜はなく、状況は必ず変わります。
V−今は患難の時です−28-34
しかし、今はアッシリヤの攻撃を受けています。平安の道に出るには、苦難の藪を抜けなければなりません。28-29節。ここに出て来る地名は、エルサレム北方の小さな町々の名前です。その地域の地理からすると、渓谷を進み、峠を越え、川を渡り、怒涛のごとくエルサレムに押し寄せて来たということを示しています。凶暴なアッシリヤが近くに攻めて来れば、どんなに恐ろしいことでしょう。29-31節。わななき、叫び、逃げ去ります。敵の接近に準備ができないほど、アッシリヤ軍は、凄まじい速さで押し寄せて来たのです。もちろん、彼らの目標はエルサレムです。他の国々を攻めた時には、たどり着いた所で略奪をしながらゆっくり進軍したのですが、この時は、ただ神の都エルサレムを目標に進軍して来たのです。神の民の都を攻めようと、すなわち神様に挑戦して来たのです。
その結果どうなりましたか。33-34節。切られてしまう高い木とは、高慢なアッシリヤのことです。結局神様に敵対した、高慢なアッシリヤも、神様によって切り倒されてしまいます。
私たちがここから悟ることは、神様を無視することは、本当に愚かなことだということです。神様は、高慢な者の仕業をそのまま放置される方ではありません。悪者の罪を裁かないでおかれません。私たちも愚かな者です。罪を犯してしまう者です。私たちのすべきことは、神様の御前に立ち返り、悔い改め、御手に委ねることです。誤り多く足りない愚かな者であっても、ただ神様の御言葉に聞き従って生きる外に道はありません。
神様が「残される者」は、はじめから信仰が良い者というわけではありません。神様に拠り頼んで行くために、世的に生きることができなくて、信仰で生きるしかない者たちなのです。しかし、結果的には彼らが幸いな者たちなのです。どうしなければならないでしょう。神様を知らなければなりません。神様がどれほど尊い高貴なお方であるか知らなければなりません。神様を知らないなら、神様に頼ることができません。神様を知らないから、離れ、さまようのです。神様がこの世のものより素晴らしいことが分かるなら、神様に拠り頼み、信仰で生きることができるのです。
このようにして、この後エルサレムに進軍して来るアッシリヤ軍の進路を詳細に話されたのは、どんな理由からでしょうか。自動的に信仰が良くなる人は誰もいません。神の民は、恐れや不安、悲しみと苦しみの中を通りながら、信仰の真理を一つずつ学ぶようになっているのです。私たちが、人生において出会う苦難、不安や恐れ、その中を通りながら、私たちは信仰の恵み、深さ、確かさを味わい、歩んで行くのです。イエス様の十字架の救いに拠り頼むことが力となります。神様の御前に謙遜に生きることが祝福となります。ローマ9:27。
イザヤ
10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
10:23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。
10:24 それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。
10:25 もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。
10:26 オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。
10:27 その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」
10:28 彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。
10:29 彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。
10:30 ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。
10:31 マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。
10:32 その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。
10:33 見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。
10:34 主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。
ホセア14:2 あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。
14:3 アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」
ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
出エジプト14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ローマ9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
| 戻る |