2012年1月22日「切株から新芽が生え」イザヤ11:1-9

序−樹木の切株や倒木の根元から生えてくる若芽のことを蘖(ひこばえ)と言います。切り株からの蘖によって新たな森林ができるようになります。かつての里山は、このようにして再生されていました。ユダの復興、救い主の到来の預言を通して、私たちの人生も、信仰によって、そのように新たにされるということを学びます。

T−切株から新芽が生える−
 栄枯盛衰、歴史の流れを見れば、数多くの国が勃興しては衰退して消えて行きました。反対に、衰退し滅んだような国が再び隆盛となるというのは聞きません。しかし、ほとんど衰退して消滅しそうになっても、なくならないで復興した例があります。ダビデ・ソロモン王朝という栄華の後、三代目で南北に分裂して、12部族の内わずか2部族だけとなった南ユダ王国です。そして、今やアッシリヤによって蹂躙され、風前の灯です。
 もうユダは、朽ちた倒木の根元や切り倒された切株のようになっています。10:33-34。人の目から見れば、もうなくなってしまった、終わってしまったということです。しかし、神様は、その根や切株から新しい芽を生えさせると言われるのです。1節。驚くべきことです。「エッサイの根株」とは、ただの羊飼いであったエッサイからダビデが生まれたように、切株から新芽が出るように復興するということです。
 私たちの生活も、人生の激しい嵐によって倒されたり、サタンの試みによって切られたり、罪や欲のために朽ちてしまうかもしれません。長い人生においては、失恋や失業、落第や不合格の憂き目を味わい、地位や財産を失ったり、病気や人との別れを経験したりするでしょう。そのような時、もう私の人生はおしまいだ、私には何も残っていない、再起不能だと人は言うでしょう。でも、朽ちても根が残っています。切られても切株は残っています。
 でも、果たして、切株から新芽が生えて来るのでしょうか。切株のままではないでしょうか。どうして、新しい人生が始まるのでしょうか。南ユダは復興すると言われていますが、分かれた北イスラエルは、すでに滅びてしまいました。何が、この二つの国の運命を分けたのでしょう。それは、信仰です。どちらも神の民でしたが、北イスラエルは、分裂した時から信仰を失っていました。しかし、南ユダは、どんなに小さな国になろうとも、アッシリヤ帝国に蹂躪されされようとも、信仰を失うことはありませんでした。周りの国の感化を受けて罪に染まり、神様に背を向けることがあっても、事ある毎に神様の御前に立ち返って来ました。腐っても、根が残っていたのです。切り倒されても、切株が残っていたのです。
 ですから、私たちに信仰があれば、人生がどのようになろうと、切株や根から新芽が生え、復興するのです。終わりではありません。神様が私たちの救いのために人となって世に来られ、私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。このイエス様の十字架を信じて、救いに与るならば、誰でも新しい人生が始まるのです。そもそも、この1節は、イエス様の預言なのです。「エッサイの根株から新芽が」とは、救い主の到来の預言です。ローマ15:7-13。クリスマスの賛美歌96にも、このフレーズがあります。イエス様は、ダビデの末として世に来られました。マタイ1:1。人の最大の悲劇は、罪のために神様の恵みと祝福から遮断されていることです。私たちに真に必要なことは、世にあって多くの力やお金を持つことではありません。私たちに最も必要なことは、イエス様の信仰です。
 イエス様が来られた時、イスラエルもユダという国もありません。ローマ帝国の一属州でした。ローマ帝国に切り倒されて、神の民は絶望的な状態でした。しかし、救い主イエス様が来られ、ここから新しい神の民が芽生え、クリスチャンが増え広がり、全世界に生い茂って行き、日本にまで芽生えています。今日本も、倒れたような状態です。東北大地震、原発事故、経済の衰退、政治社会の混乱の中にあります。でも、根が残っています。切株は残されています。私たちという信仰の芽生えがあります。

U−御霊によって新しい命に生きる−2-5,9
 では、信仰がある国が、どうして復興するのでしょう。信仰ある者は、なぜ再起できるのでしょうか。2-5節。イエス様を信じると、このような朽ちてしまう肉の者に、主の聖霊が注がれるからです。テトス3:6。聖霊なる神様が心の内に住んでくださるからです。ローマ8:9,。2節には、聖霊の働きが幾つも記されています。今まで、ユダの人々が経験したことは、人が持っている知恵と力では、駄目だということです。その知恵と判断力は、アッシリヤを引き入れ、悲惨と荒廃をユダに招いてしまいました。知恵と力を誇った傲慢な現代人は、多くの過ちを犯し、危険なものまで作り出し、環境を悪化させ、社会に混乱と荒廃を招いています。
 御霊の与える「知恵」とは、物事をさばき、判断するために必要な知恵です。「悟り」は、物事の真実を見抜く分別力です。罪と欲によって曇りがちな私たちに、何が真実で、何をなすべきことかを分からせてくれます。実際の行動や意志決定に関わる時、「はかりごと」が必要となって来ます。9:6の「助言者」に近い言葉です。御言葉の助言をいただかなければなりません。人は罪と欲によって判断するから危ないのです。御言葉に信頼するなら、その御言葉は大きな「力」となります。
 しかし、クリスチャンがそのような知恵を身に着け、御言葉による分別力を持って信仰に生きるには、「主を知ることと主を恐れること」が必要です。なぜ神の民でありながら、イスラエルは滅んで行ったのか。それは、己の知恵に拠り頼み、神様を知ろうとせず、神様を恐れないで、傲慢に罪と欲中心に生きたからです。なぜユダは危ない状況に至ったのか。主より己の判断を是としたからです。箴言には、主を恐れることが知恵の始めであり、主を知ることが悟りにつながると繰り返し教えています。箴言9:10。本当に神様を恐れていますか。畏敬の念を持って、聞き従おうとしていますか。それとも、欲と罪によって己の知恵と力で生きようとしていますか。それは、争いと混乱を身に招くことになるでしょう。
 この神様のくださる御霊の知恵と力をその身にあらわし、用いられたのが、イエス様です。3-5節。イエス様こそ、私たちの手本です。私たちの目指すところは、イエス様に似る者となることです。イエス様は、どんなことでも、主なる神様を恐れて、聞き従われました。神様をよく知っておられるからです。私たちが本当に御言葉を学び、神様について知って行くなら、イエス様のように神様だけを恐れて、聞き従う者となるはずです。ホセア76:2-3。御言葉を知識としただけで、己の知恵と力を中心として、驕り高ぶるなら、イスラエルやパリサイ人の轍を踏むことになります。
 今日、公平性が失われ、格差社会となっているのを見るにつけ、聖書の示す生き方だどれほど大切かが、わかります。イエス様の人に仕え、人を愛し、人を助ける姿を私たちも見習いたいのです。わがままに人々を困らせ、己の欲が中心となり、自分の肉の判断に走りのでしょうか。

V−キリストにある平和を実現する−6-8
 人々がイエス様に救われて、イエス様のように生きようとしたならば、どんなに世に平和が訪れることでしょうか。6-9節。肉食獣も草食獣も共に草を食べ、子ども赤ちゃんも一緒にいるというような風景は、実際にはありません。イエス様が治められる絶対的な平和をあらわしています。人は罪と欲で歩んでいるなら、獰猛のようです。よしんば、人の知恵と分別で覆っていたとしても、牛が角を振るうようになります。毒蛇のように言葉の毒を吐いて、人の心を殺めるでしょう。人のいる所に争いがあります。人々は、知らない者ばかりでなく、知り合い同士で傷つけ合い、刺し合い、浴びせあってしまいます。悲しい姿です。
 平和を願うなら、どうしたらいいのでしょう。私たちの中に聖霊が臨むなら、私たちの中にある猛獣のような習性が消えて行くでしょう。毒のような言葉も吐かなくなるでしょう。聖霊が注がれるなら、他の人と平和を分かち合うことができるでしょう。
 イエス様の救いは、私たちのたましいの救いに止まりません。私たちの人生が回復されます。心の安定だけで満足してはなりません。イエス様の十字架は、私たちの内にある敵意を葬り、人々との和解に導くためです。エペソ2:14-16。人間関係が変わり、人の見方や捉えかたが変わるということは、人生が変わることです。人生が新しくなることです。信仰によって最も回復されなければならないのは、関係の回復、平和の回復です。イエス様の十字架によって罪赦された者は、人を赦せるようになります。イエス様の十字架の苦しみは、猛獣のような自分のためなのだということを深く知り、神様の愛と戒めをもっと知らなければなりません。ホセア6:2-3。
 私たちは、肉で生きるのではなく、私たちの内に注がれている御霊で生きるようになりたいのです。平和を願うならば、人々が救われることを願い、福音を証しすることです。蘖(ひこばえ)とは、孫生えのことです。根や切株のような存在であっても、私たちが信仰に生きて証しの生活をするなら、子や孫に信仰が芽生えます。切株のような私たちから世の人々へ、信仰が芽生えて行きます。信仰の木が実り、世に救いと平和が広がります。そのような幻を追いながら、この年を歩み出しましょう。今冬枯れして死んだような草木でも、春には新芽が出て来ます。もうすぐに。



イザヤ
11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
11:3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。



ローマ15:7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、
15:9 また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」
15:10 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」
15:11 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」
15:12 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」
15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

マタイ1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

テトス3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

ローマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

エペソ2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

ホセア6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

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