2012年1月29日「主の御旗のもとに集められる」イザヤ11:10-16
序−ある国で災害や政変によって難民が発生した時、隣国が入国を認めてくれるなら、難民にとってどれほど有難いことでしょうか。国境に翻るその国の国旗が救いを示すものに見えることでしょう。今日も、救いを求める人々に対して、十字架という救いの旗がひるがえっています。
T−十字架の御旗のもとに集められる−
「エッサイの根株から生えた新芽」イエス様が、「国々の民の旗」すなわち、すべての民への救いの旗印だと言っています。10節。それは、難民に対する「この国に逃げて来てもよろしい、難民受け入れ」という掲示と同じようなことです。そのように、その旗印を見て、救いを求めるすべての人々が集まるようにとなると言うのです。「エッサイの根」という旗印がひるがえる所は「栄光に輝く」所となるのです。神の民が集まって礼拝するところが、どれほど栄光に満ちたものか、私たちは考えているでしょうか。長い霊的難民状態から救い出され、罪の奴隷から解放されていることが、どれほど恵みであり、礼拝できることがどれほど幸いなことか…。
人の最も大きな痛みは、神様の恵みを受けられないことです。人は、本来神様に似せて造られたものです。神様に愛された存在です。それが神様から離れて、まことの命を失っていました。それを回復するために、イエス様が人となって世に来られました。イエス様が十字架にかかられたということは、神様は人の罪のためにご自分の御子を犠牲にされるほど義なるお方であり、人の救いのためにはご自分の御子を犠牲にされるほどに愛なるお方だということです。この二つの面を覚えなければなりません。愛だけ見て義の面を見ないならば、自分勝手なわがままな信仰、忘恩の民となってしまうでしょう。
十字架は、偉大なしるし、救いの御旗です。十字架の御旗は、世でむなしくさまよっている人々へ、神様に立ち返って来なさいという招きです。世で悩み、痛んでいる人々へ、ここに逃げ込んで来なさいという旗印なのです。そこでは、罪の奴隷サタンの捕らわれ人となっていた者たちが、イエス様の十字架によって解放されるのです。もうためらってはなりません。私たちは、十字架のゆえに注がれた豊かな命を享受しなければなりません。「彼の憩う所は栄光に輝く」所です。イエス様の十字架のもとへ、集いましょう。さまよい倦み疲れたたましいが憩い、悩み痛んだたましいが癒やされる所なります。マタイ11:28-29。
U−残された者、散らされた者がまず集められる−
神様は、イエス様の十字架の御業を通して全世界の人々が神様に立ち返って来るようにされましたが、まずイスラエルの残された者が立ち返るようにしてくださいました。11-12節。なぜ、イスラエルの残された者を先に立ち返らせるのでしょうか。これは、神様の約束は変わらないことを示しています。人が悪くなったとしても、神様の計画は取り消されないのです。神様は、イスラエルを愛しておられました。ただ、イスラエルがその愛を受けなかったのです。彼らは傲慢になって、神様でなく、ただ自分の力と頭を信じたのです。私たちは、何を信じているのでしょうか。
イスラエルのような中でも、純粋に神様を信じていた者がいたのです。どのようにして信仰が残っていたのでしょうか。彼らも、世の人のように自分勝手に生きたかったが、できなっただけです。彼らは、失敗し挫折する中で、自分を信じては駄目だと悟ったのです。これが、神様の恵みの摂理です。彼らは、御霊と御言葉に拠り頼み、謙遜になりました。
「アッシリヤ、エジプト、パテロス…」というのは、当時の世界の隅々に散らされたイスラエルの子孫たちを召し集めるということです。散らされてその地に同化していたでしょう。それにもかかわらず、彼らを探し出して、立ち返らせると言われるのです。いつ、それがなるのでしょうか。それは、五旬節の時です。五旬節の時には、世界中からユダヤ人が集まって来て、福音を聞くことになります。使徒2:1-11。そして、彼らから福音が世界へ広がって行くのです。ローマをもって世界を征服させ、地中海世界に平和をもたらし、道路が張り巡らされ、自由に行き来できるようになった時、イスラエルの子孫たちの心に、神殿に集まる思いを与えられたのです。驚くべき神様の歴史を通した導きです。
神様は、今日も散らされた神の民を召し集め、信仰生活に立ち返らせます。信仰に残された者、神様から離れてしまった者をまず立ち返らせます。かつて洗礼を受けた者、教会学校に通っていた者、クリスチャンホームで育った者が、十字架の旗のもとに召し集められ、信仰が回復され、イエス様のもとに憩う所が、教会です。そして、その召し集められた人々を通して、福音がこの地に広がって行くのです。信仰で、もっとも重要なことは、人が変えられることです。平和がもたらされることです。福音の力は、どんな人でも変えられるということです。
V−主によって互いに敵でなくなる−
イエス様が来られるなら、イスラエルの中にあった妬みや憎しみが根本的に癒やされ、一つになるという約束が宣言されています。13節。イスラエル民族が分裂して一つになれなかったのは、単に政治的な理由だけではありません。心の深いところに不信と憎しみがあったからです。イスラエルには12部族があり、ヤコブの12人の息子が、その元になっています。彼らはそれぞれ、母親が違っていました。母親が違えば、親たちの反目や妬みが子どもたちに影響します。それは、部族間にまで深い不信と憎しみを生じさせました。
後にエジプトの宰相となったヨセフは、兄弟たちに妬まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。12部族のエフライムとマナセは、そのヨセフの子です。この二人は、エジプト人女性との間に生まれ、エジプト人として育ちました。エジプトでは、この部族が重要な役割を果たしました。しかし、カナンの地に来てからは、ユダ部族が中心となりました。ダビデ王は、ユダ部族でした。結局、エフライムは妬んで、ダビデ王朝に反発し、国を分裂させてしまいました。
それが後には、ユダヤ人と異邦人の葛藤、ユダヤとサマリヤの反目にまで広がって行きました。何がユダヤ人と異邦人の間に、ユダヤ人とサマリヤ人の間に敵対心を起こしたのでしょうか。それは、ユダヤ人の肉のプライド、傲慢です。「私はあなたとは違うんです。」というプライドが、互いを敵対させたのです。現代の人々の間にも、出身、家柄、財産、学識、容貌など目に見えない様々な障壁が築かれています。仕切りを多く作れば作るほど、自分を守ろうとします。自分を主張し、人と差別化するほかありません。
イエス様は、どのようにされたのでしょうか。イエス様は、まったく自分を主張されませんでした。ご自分のすべてを私たちのために与えてくださいました。命までもです。非難されても、殴られても、し返しすることはしませんでした。それは、イエス様が、人をよく知っておられからです。本当は、人がどれほど弱くて、どれほど愚かで、どれほど自尊心がないかを知っておられて、憐れに思われたからです。自尊心がある人は、自己防御することも、ことさら自己主張する必要もないのです。パウロは、イエス様に救われる以前持っていた、人と差別化していた肉のプライドを、イエス様の御前には、ごみのようだと告白しています。ピリピ3:7-8。
人は、互いに相手を見ては妬み、憎みますが、イエス様は、神様を見ました。人が大きく、うらやましく見える時、神様を見るならば、たいしたことではなくなります。自分を大きく見せようとするのも、恥ずかしくなります。様々な違いは、神様の御前には、絶対的なことではなくなります。私たちは、人を警戒し、防御しようとします。しかし、人の中に入ってみれば、誰も弱いのです。強そうに見える人も、そうではないのです。イエス様の十字架は、私たち一人一人を神様の前に立たせます。そうすると、人との間の違いがなくなります。皆憐れまれる存在です。
まるでダビデ王時代のように周囲にある国々が征服されると言っています。14節。ダビデ王は剣で勝利したのですが、イエス様は人を救う福音で世を征服されます。神様の愛が、人々を征服します。イエス様に救われた私たちも、主の恵みの福音で世を征服して行くのです。人の愛は、相手が自分にどうだから、に寄るのですが、主に愛されているクリスチャンは、相手がどうでも、イエス様の愛と恵みをもって対して行くのです。
イエス様の十字架こそ、偉大な救いのしるし、救いの御旗です。もう何も妨げるものもなくなり、道は整えられ、救い主のもとに人々が集められます。15-16節。信仰に向かうのに反対や妨げがあるなら、それらも海や川を干上がらせるように、取り去れるようになるというのです。反対や妨げがあることより、重要なことは、自分に神様に立ち返る心があるかということです。イエス様の救いを受けたい、神様に立ち返って新しい人生を歩みたい心があるなら、どんな迫害や圧迫もその心には勝てません。
イエス様の十字架こそ、偉大な救いのしるし、救いの御旗です。もう何も妨げるものもなくなり、道は整えられ、救い主のもとに人々が集められます。15-16節私たちも、主の十字架によって一つとされるのです。私たちの力ではなく、福音の力、十字架の贖いが平和をもたらし、一つとします。救われた私たちが、福音ですべての人々に勝利するのです。
イザヤ
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
11:12 主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
11:13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
11:14 彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
11:15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの流れとし、くつばきのままで歩けるようにする。
11:16 残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。
マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
ピりピ3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
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