2012年2月5日「主の救いをほめ歌え知らせよ」イザヤ12:1-6

序−人生を振り返ってみれば、ただただ神様の恵み、守りだと感謝し、賛美するほかありません。その間には、多くの患難や危機がありました。重要なことは、その時は絶望的な状況だとしても、それが展開して今があるということです。だから、いつでも神様を賛美します。

T−主の御怒りと慰めの二つを体験する−1-
 強大国アッシリヤの攻撃で、絶望寸前まで追い込まれていたユダに対して、やがてユダの民が神様を賛美するようになると言います。1節。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」神様をほめたたえるようになる人々の体験することは、神様のこの「御怒り」と「慰め」です。彼らは、この二つを同時に経験する人々だということです。このような人が、もっとも幸いな人だと言えるでしょう。罪を嫌う神様の戒めを受け、悔い改めた後に慰めと回復を経験する人々だからです。
 私たちに苦難や試練が訪れる理由は、何でしょう。ヤコブ1:14-16。私たちが、罪を犯して苦難に陥ることは、私たちの中に罪の性質があるためです。サタンは、その罪性を刺激して、神様に逆らわせ、神様の恵みから落ちるようにさせるのです。そうなって、神様はなぜ私にこのようにするのか、と神様を恨む人がいます。しかし、苦難は、裁きではありません。神様は、私たちの変化のない姿を喜ばれないためです。私たちが霊的に造り変えられて行くなら、サタンの誘惑に陥ることは少なくなります。苦難は、高慢な私たちを低くさせ、罪に陥らないようにさせるのです。
 苦難に会う時、神様が御顔を背けているように思います。祈りの答えもないように思え、憂うつになります。そのようなことも、私たちには必要です。神様が御顔を背けられていると思うのは、どれほど暗くて、重苦しいことでしょう。しかし、苦難の中でも、悔い改めて、神様を信頼して行くなら、耐え抜くことができるようにされ、恵みを受け、神様を賛美するようになります。ヤコブ1:12-13。神様は、ご自分の民を聖めるために、苦難の後に治療してくださり、回復させてくださいます。これが、恵みであり、幸いのです。
 信仰の力を失ってしまうのは、この二つのうち一つしかないためです。ある人は神様の慰めだけ求めます。いつも関心を持つのは、自分の感じ方、自分の気分、自分の感情の状態です。今日伝えられる福音に、神様の御怒りが抜けているものが多くあります。神様の慰めだけです。福音の絶対的力は、人を造り変える力です。私たちは、時々後ろを振り返ってみる必要があります。過去どれほど絶望的な状況で身悶えし、どれほど望みのない状態でいたか、そこからどうして今に導かれているのか。

U−私の救いの神をほめ歌う−2
 そうすると、神様を賛美せざるをえません。2節。「見よ」というのは、「おお!ああ!」というような強い表現です。神様の恵みに対して胸が詰まり、言葉が出て来ない状況です。「見よ。神は私の救い。」というのは、「ああ!神様は本当に約束されたように私を困難の中から救い出してくださった。」ということです。神様は、確かなお方です。この方に信頼する者は、絶対にそのままにされません。神様を賛美する者は、今の状態に関係なく、偉大な救いを経験します。神様は、まったく生きる望みのない人、自暴自棄になっている人々をその中ら救い出してくださるのです。重要なことは、ただ一つ、神様が私たちを哀れに思ってくださることです。
 「私は信頼して、恐れることはない。」というのは、神様の取り扱いを体験してみた人が言うことができる告白です。神様を拠り頼むことを経験した人は、決して他に拠り頼むことはしません。神様に信頼する恵みを味わった人は、決して自分の足りなさを恐れることもしません。それが、自分を神様に結びつける紐だからです。神様は、かえって弱い人を好まれます。だから、「弱い時にこそ、強いのです。」Uコリント12:10。
 「主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」という賛美は、救いから始まった信仰の歩みが素晴らしいということです。主が私を絶望と困難から救い出されたので、この方だけに拠り頼む、神様がすべてだということです。私たちは、自分を知れば知るほど、自分のような罪人をなぜ神様は救ってくださるのかと疑問を持ちます。イエス様の十字架の故にそうしてくださるのです。だから、神様をほめたたえます。
 何故神様が「私のほめ歌」になるのでしょうか。日が経れば経つほど神様を深く知って、大きな喜びと驚きになるためです。自然の素晴らしさを見ても、創造され、保っておられる神様をほめたたえます。歴史の流れを見ても、世を治めておられる神様の御手を覚えて、賛美します。しかし、自然や歴史における神様の働きも、私たちの救いに比べれば、何でもないことです。以前私たちは、神様を知らない者でした。救いの必要さえ感じることのできない者でした。神様が分からず、自分がどんな者か分からなかった私に、神様が尋ねて来られたのです。私たちの心に求める心を与えてくださったのです。ハレルヤと褒め称えずにはいられません。
 私たちはどのように神様に出会って、恵みに捕まえられたのでしょうか。時間が経てば経つほど、その意味が心の深いところで知るようになります。神様を人格的に知るようになると、喜びや幸いが大きくて、苦難に打ち勝つようになり、神様の救いをほめ歌うようになります。救いの喜びは、私たちの内にあります。世の苦労は、外から来ます。内にある喜びが外の苦難に打ち勝つのです。
 だから「主は、私の力」というのです。これは、神様が今も生きておられ、継続して私たちの中に新しい力をくださるのです。救いは、自分に継続的に神様の御心を知るようにさせ、神様の御力を供給してくれます。私たちは完全ではないので、神様の御前に繰り返し悔い改めることを通して、新しい力を注がれるのです。罪を告白し、叫ぶならば、新しい力をくださいます。神様を賛美する者に新しい力が注がれます。

V−絶望の果てに汲む救いの井戸−3
 3節では、雰囲気が急に転換しています。かつて出エジプトの民が荒野をさまよっていた時、しばしばモーセに「どうして私たちをエジプトから連れ出したのか」と不満をぶつけました。彼らが、絶え間ない不安に苦しんでいたのは、水の問題でした。水問題は、いつも彼らを揺さぶり、彼らの信仰を試しました。彼らは、度々この試練に躓き、倒されました。神様は、真実なお方でしたが、イスラエルの民は、いつも神様を疑い、神様の嫌われる仕業に及びました。しかし、この民にとって最も絶望的な瞬間が、最も偉大な時となりました。のどが渇いて死にそうになった時、目の前に救いの泉が湧き出しました。出17:6。彼らは、泉から水を汲み出しながら、賛美しました。民21:16-17,詩篇87:7。
 神様の返答される時間は、ほんの少し私たちの限界を越えます。その少しの時間が、私たちにはとても長く痛く感じられるのです。会堂管理者ヤイロは、娘を治してもらうためにイエス様をお連れ途中、長血の女を主が助けている間がとても長く感じ、遅れたと絶望しました。ルカ8:50。私たちは、遅れるならば、もう駄目だと思うところに置かれています。しかし、神様は私たちの性急さに合わさず、少し遅れるのです。そうすると、私たちの信仰は底をあらわし、神様を恨んだりし始めるのです。この当時ユダの状況は、賛美とは反対の状態でした。アッシリヤによって滅亡寸前という状態でした。私たちは弱い者です。私たちは、すべて放棄して神様に拠り頼むのか、他の方法を取るのか選択しなければなりません。神様の時までしっかり待つことは、困難かもしれません。神様の時まで、自分の怒りと疑いの感情を説得することを願います。
 困難の時に賛美することが、正しい信仰です。すべてのことが自分の考えと反対に進んだとしても、神様を信頼して賛美することを神様は願われます。最も絶望の瞬間が、最も偉大な救いの瞬間とされます。使徒16:24-25。そのために、私たちの考えを訓練しなければなりません。ユダの民は、アッシリヤの取り囲む絶望と不安の中で、このような賛美をし、慰めと希望を与えられました。そして、アッシリヤは引き上げて行くことになります。私たちも、ユダの民のように賛美して、慰めと希望をいただきくのです。
 ただし、救いの恵みは、自分だけに留めておいてはいけません。4-6節救われた者のすることは、体験した神様の救いを世に証しすることです。イエス様による神様の救いの御業を世に宣言することです。苦難を信仰によって受け止め、乗り越えさせていただいた者が、苦難の中で救いと助けを求めている人々に福音を伝えることが、一番説得力のあることです。神様の慰めと愛が十字架の上でつながりました。神様の義と愛が十字架の上で出会いました。
 この救いを受けた後は、神様の御心で生き、慰めを受けて人生を生きます。私たちは、もっと深く信仰の素晴らしさを知り、体験する必要があります。その信仰の生き様とその賛美の生活が説得力をもって、世に広まって行くからです。苦難は、自分の造り変えと恵みのためだけでなく、人々の救いのためでもあります。私たちは、苦難や試みの中では、なおさら御言葉を握り、救いを賛美するのです。賛美すればするほど、サタンは逃げ去り、神様の恵みが近づいて来ます。詩篇96:2-3。



イザヤ
12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
12:5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
12:6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」



ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

ヤコブ1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

Uコリント12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

出エジプト17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

民数21:16 彼らはそこからベエルに向かった。それは主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える。」と言われた井戸である。
21:17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。――このために歌え。――

詩篇87:7 踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。

ルカ8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

使徒16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

詩篇96:2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

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