2012年2月26日「虜(トリコ)にした者を虜に」イザヤ14:1-11
序−バビロンによってユダが滅ぼされることによって、神様の計画は完全に失敗したかのようです。しかし、結果は、ユダはそれによって徹底的に悔い改め、信仰は純粋になりました。反面、バビロンは傲慢になって滅びるようになります。救いの中にある私たちは、たとえ失敗したとしても、かえって神様は、その時から私たちを捕まえてくださり、救い出し、恵みに戻してくださいます。
T−神様の救いの計画の凄さ−1
神様の民というのに、どうして異邦の国によって滅ぼされてしまったのか、神様の救いの約束はなくなったのだか、という疑問が出て来ます。詩篇77:8。ユダの民が期待したのは、どんなに状態が悪くなっても、滅亡までは行かないだろうということです。それなのに、滅んでしまえば神の民はおしまいだ、もう何もないと思ったでしょう。しかし、ユダが滅亡しても、神様の選びは変わっていません。1節。ヤコブもイスラエルも、ユダの民のことです。イスラエル民族が神様の民に選ばれたのは、彼ら自身が優秀で正しいからではなく、ただ神様の恵みによってです。ですから、民が変わっても、神様の救いの計画は変わりません。私たちが救われたのも、ただ神様の恵みによることです。Tコリント15:10,エペソ2:5。ただ、一方的な恵みによって救われたのです。私たちもここに立ちます。
重要なことは、イスラエルの民の滅亡が終わりではないということです。神様のご計画は、神の民に他の異邦の多くの民が含まれて、新しいイスラエルとなって帰って来るというのです。神様の救いのご計画は、民の中に種として存在していました。イスラエルの滅亡は、この種が地に落ちたということであり、ユダの滅亡は、福音を世界に広める機会となったのです。これが、神様のデザインでした。神の民は、捕囚の地で信仰の証しの生活をし、真の神の信仰を信じる人々が多く起こされたのです。「異邦人の連なり、ヤコブの家に加え」られるのです。
私たちが、散らされる、遣わされる所に、私たちの証しの生活によって福音が広がり、救われ、教会に加えられるのです。初代教会において、クリスチャンが迫害されて、エルサレムから追放されたことを考えてください。それによって福音が異邦人にも広がるようになりました。使徒11:19-21。ほんとうに、神様のご計画は凄いです。神様の救いと導きは、人の思いや願いを越えて働かれるものなのです。エペソ3:19-20。
国が滅んでも神の民がいなくならなかっただけでなく、むしろユダの滅亡を通して、福音が、当時の近東世界に広がり、異邦人を連れて故郷に帰って来るというのです。神様は、約束を偽ることのないお方です。Tペテロ1:23,ローマ11:29。
U−虜にした者を虜に−2
バビロンとユダの関係は、軍事的にはユダをバビロンが征服したけれども、精神的にはユダがバビロンを征服したのです。2節。ダニエル書のダニエルのように、信仰に生きたユダの民は、捕囚の地で活躍し、用いられました。神の民は、国が滅びることで、信仰が回復し、信仰を固くしたのです。患難の時、純粋に信仰に生きてこそ、患難に耐え乗り越えられるだけでなく、かえって活躍できるようになるのです。
そもそも、イスラエルの民については、カナンの地にいる時、しっかり信仰していたわけではありませんでした。周辺国の罪の道に倣い、偶像にも仕えました。ところが、国が滅んで捕虜になって、散らされた時、ようやく自分たちの持っていた信仰がどれほど尊いものか、悟るようになったのです。クリスチャンも、挫折し絶望した時こそ、信仰の素晴らしさに気付き、信仰が回復するのです。しかし、反対にうまく行くようになり、困難もないと、次第に罪に染まって、御言葉に聞き従わなくなるのです。
「国々の民は彼らを迎え、導きいれる」とは、捕虜となって行った所で、その地の住民に受け入れられたようです。カナンの地ではふらふらした信仰だった彼らは、異邦人の中でしっかり神様に立ち返って生きて、人々に評価され、受け入れられたのでしょう。信仰は、そのような関係から当然伝わって行きました。
勿論、子どもたちをイスラエルの民として育てました。捕囚の地では、悔い改めて危機感をもって信仰を子供たちに伝えました。そうしなければ、未来はないからです。日本の中では、家族の中で自分だけクリスチャンというケースが多いです。バビロンの只中に生きている神の民と同じです。私たちこそ、悔い改めて危機感をもって、信仰を伝えなければならないでしょう。信仰生活の困難や弱い信仰の中でも、子どもや孫に信仰を伝えて育てるなら、その子や孫からも祖父母や親族に信仰を伝わるでしょう。
「自分たちを虜(トリコ)にした者を虜にし」とありますが、軍事力で神の民を虜にした者たちを福音によって虜にしたということです。捕囚になった民は、神様の戒めを受けて悔い改め、信仰を回復し、その地で信仰に生きて、信仰を証しして、その地の人々を真の神を信じる信仰へ導いて行ったからです。ハバクク2:14。ローマ時代にも、多くのクリスチャンが捕らえられ、投獄され、迫害されました。しかし、その結果クリスチャンの信仰は純粋で力強いものになり、かえって福音は広がり、やがてローマ帝国全体が福音で征服されてしまいました。
パウロがローマで裁判のために投獄されていた時、そのことで皇帝の親衛隊や皇帝の親族まで福音が伝わり、かえって福音が広まることにもなりました。ピリピ1:12-13,4:22。「虜にした者を虜に」とは、私たちに敵対し、仇なす者が、かえって証しの生活や交わりを通して、福音に捕らえられて行く、そんな希望も与えてくれる御言葉です。
V−バビロンの滅亡、権力は主からのもの−3-11
一方、絶大な権力を振るっていたバビロンは滅びます。そもそも、バビロンの絶大な権力は、元来彼らのものではりませんでした。神様がしばらく貸してくださったものです。神様がそれを取り戻す時が来ます。その時は、どうなりますか。3-6節。神様は、バビロンの人々には、絶対権力を与えて、世のすべてのものを自分たちの思うままにさせました。ユダの民までも彼らの手に渡されました。しかし、ユダの民には、痛みや悲しみ、労役が与えられました。誰が幸福で、誰が不幸でしょうか。当然思うまま人を支配し、権力を持った者が幸いな者であり、人の下で奴隷となって圧政を受ける者が不幸だと思います。ところが、結果はそうではありません。痛みや労苦を受けた者が解放され、権力を振り回していた者から権力が回収される時が来るのです。
神様の子どもとなるには、「苦難の学校」と言われるような必修事項があります。クリスチャンは、この学校を必ず卒業しなければなりません。苦難の中にいる時は、望みがなく、何もかも失ったように見られますが、苦難を履修した後、人生は新しく輝き始まるのです。
どんな人でも、権力を与えられるとそれを振るうようになります。あたかも自分が何者かになったかのように威張り、権力を行使しようとするのです。社会のシステムの中で一時与えられている立場なのに、いや神様から貸し与えられたものなにの、愚かにも上に立って力を振るうのです。イエス様は、仕える者になりなさいと繰り返し言われました。マタイ20:25-28。神様を恐れず、謙遜になれない人が権力を与えられると、滅びを招くことになります。
神様がバビロンに絶対権力を与えた時、彼らは、思うが侭に振る舞い、多くの国々を攻め滅ぼし、拡大して行きました。その膨張主義は、征服する国がなくなった時みずから崩壊します。彼らの経済が、略奪経済にあったからです。今の日本も、権力を間違って用いた者たちが、膨張主義経済を借金で賄って来たので、破綻寸前となっています。真実に民を思い、民に仕える為政者が求められています。せめて私たちは、小さな責任や権威だとしても、主から委ねられたものとして、謙遜に、誠実に担って行きたいのです。マタイ24:45。忠実な思慮深いしもべとなるのです。
バビロンが滅ぼされる時には、平和が望みます。7-8節。バビロンが滅ぶと、バビロンから抑圧されていたものたちは、歓声をあげるようになります。一方、バビロンの滅亡は悲惨です。9-11節。バビロンの滅亡は、単にバビロンだけのことではなく、世の悪が裁かれることを意味しています。悪は必ず滅び、イエス様の御名を呼ぶ者は、新しい人生を生きるようなるのです。罪を悟って新しい人生を生きると願う者は、救われます。神様を知る前には、すべてのことを自分の思い中心に考えていましたが、救いを受けた後では、神様の栄光を知るようになり、神様の御前にすべてが意味あるものと理解するようになります。苦難や挫折も、悔い改めと信仰回復の機会かもしれません。妨げや反対も、福音の広がるきっかけかもしれません。神様のデザインは、私たちの予想を超えているのです。
神様に選ばれた人は、絶対に自分の思うままに生きようとなってはいけません。人には二つの器があります。ローマ9:21-23。尊い器は、自分の思うままに生きることはできません。神様の恵みの中で満足し、神様に用いられます。しかし、卑しい器は、自分のしたいままにして、バビロンのように滅んでしまいます。イエス様の十字架によって救われた私たちは、神様の栄光をあらわす哀れみの器とされているのです。
イザヤ
14:1 まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。
14:2 国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。
14:3主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、
14:4 あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。
14:5 主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。
14:6 彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。
14:7 全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。
14:8 もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』
14:9 下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。
14:10 彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』
14:11 あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。
詩篇77:8 主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。
Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
使徒11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
エペソ3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
Tペテロ1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
ローマ11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。
ハバクク2:14 まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。
ピりピ1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
4:22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
ローマ9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
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