2012年3月25日「和解と共生を阻むもの」イザヤ16:1-14
序−人間関係とは、双方のおいたちや性格、環境や状況など、様々なことが複雑に絡みながら形成されるものです。その関係が変わることがないのでしょうか。和解や共生の道は、求めることがないのでしょうか。ここには、驚くべき助言がされています。神様は、このモアブを哀れんで、どのようにすれば生きる道があるか、その方法を提案されました。
T−混乱の中でモアブに示された彼らの生きる道−1-5
それは、正しい信仰を学び、真の神様に立ち返ることです。1節。ユダに使者を送るようにと勧めています。セラとは、モアブの南にあるエドムの都市です。つまり、逃げていたエドムからユダへ使者を送れ、そして、正しい信仰を持って、ユダと和解し、神様の下で共に暮らすようにとモアブに勧めているのです。素晴らしい提案です。イザヤが勧めているのは、ユダに行って、真実の信仰を学んで、共に神様の下で信仰に生きるようにという助言でした。それが、滅亡からモアブの助かる道でした。今患難に会っている時こそ、酷い信仰から解放される絶好の機会なのです。
今まで北イスラエルの支配下で、腐敗した宗教を見て来ました。それは、それは、真の神様の名前を笠に着て、実際には人間の欲を神格化したようなものです。偶像崇拝より質が悪いものでした。言わば、モアブは、間違った北イスラエルの腐敗した信仰によって、傷を受けていました。北イスラエルの支配から抜け出し、間違った信仰の影響から解放されたことは良かったのです。北イスラエルの腐敗した信仰の影響を脱したら、そのままということはありません。さらに酷いケモシュ崇拝を強くするでしょう。正しい信仰が入らないなら、人はいつも迷信や占いに翻弄されるのです。サタンに付け込まれるだけです。マタイ12:43-45。
人が信仰に心が向くのは、自分の不足や弱さを知るからです。自分の力ではどうにもできないことを知る時です。病気になるとか、何か失敗するとか、家族を失うとか、そういうことを経験した後、神様を求めるようになります。ところが、正しい信仰を知ることは限りません。出会ったのが福音的な信仰でなかったり、出会った人の信仰が曲がっていたりすると、「キリスト教って、こんなものか」と受け取ってしまうことが、多いのです。モアブの人々は、ちょうどそういう立場だったのでしょう。イスラエル人は真の神様を信仰していると言うけれども、あんなものか、我々ケモシュ信仰と変わりないじゃないか。はじめにそのような信仰を持ってしまうと、中々福音的な信仰、聖書信仰へ向くのが難しくなるのです。はじめにそのような信仰の人に会うと、曲がった印象を持ってしまいます。残念なことです。真実な信仰はこうだと、見せなければなりません。
モアブの人々がどこへ行ってよいか分からず、迷っている様子が記されています。2節。さまよっているモアブへの助けが語られています。3-5節。「助言を与え、事を決めよ」とは、神様に立ち返って。御言葉の適用に生きるようにさせなさいということです。ユダの民のように、神様の御言葉に聞き従って、神様の守りと祝福を受けて生きよという助言です。「影を夜のようにせよ」とは、暑い日差しを避ける日陰になるということで、「かくまって」あげなさいということです。そして、共に真実の神様の慈しみと恵みを受けて生きるようにしてあげなさい、と勧めているのです。妬みと敵対心にあふれていたモアブとの関係でありましたが、相互に助け合っていた関係になるようにと、モアブに対する神様の救いの御手でした。モアブとの和解と共生への招きでした。
U−ぶどうの木、モアブの応答−7-12
しかし、モアブの滅亡への歩みは変わりません。7-8節。モアブには、有名な産業がありました。それは、ぶどう園経営です。その有名な葡萄がすっかりなくなって、ぶどう園も荒廃してしまうというのです。キル・ハレセテ、ヘシュボン、シブマはみな、葡萄の生産地です。特にキル・ハレセテの干し葡萄は有名だったのです。モアブの繁栄のもとであり、このモアブ葡萄がモアブの誇りでした。
モアブの葡萄の繁栄は、永遠に続くと思っていました。他のことにまったく神経を使わなかったのです。アッシリヤが勃興しようと、北イスラエルやアラムが滅びようと、ユダがどうなろうと関心がありませんでした。ただぶどう園経営に心が奪われていたのです。ところが、そのぶどう園が荒らされて、全滅してしまってはじめて、痛み、嘆いたのです。モアブのぶどう園は、神様がくださった祝福でした。祝福を通して、神様に関心を持たなければなりませんでした。ですから、ぶどう園が荒廃してしまった今、神様に立ち返るチャンスなのです。
キリスト教の命はどこにあるでしょうか。神様を知る知識です。ホセア6:3。ある人は、聖書が言うことにまったく関心がなく、自分の願いや欲求にだけ関心を持っています。ある人は、神様が自分に何を求めておられるかには関心がなく、神様がどんな祝福をしてくれるかということだけに関心があります。これらは、本当のキリスト教ではありません。神様を知ることは、聖書を知識的に多く知ることではありません。神様を知れば知るほど、自分が除かれて行くということです。自分は何ものでもないと知ることで、自分がくだかれ、神様に拠り頼み、神様に従って行こうとするのです。世で自分が自慢し、頼っていたものを放棄すれば、神様がご自分をよくあらわしてくださるようになります。
現代人は、まさにモアブ人のようです。現代人の科学は、モアブ人のぶどう園のようです。機械や技術文明の中で生きている人々は、科学を信じています。モアブ人は、葡萄による富を信じていました。しかし、現代文明によって、自然破壊や社会の荒廃が進んでいます。今やその科学が私たちを滅亡させようとさえしています。
モアブのぶどう園が駄目になったことで、キル・ヘレスのために、なぜイザヤは呻いているのでしょうか。11節。モアブをよく知っているからです。自分が知っているところが一瞬に滅亡してしまったら、深い嘆きが湧き出るようになります。私たちの祝福は、神様とつながっていなければなりません。神様から継続して、生きる力を注がれなければなりません。イエス様は、地上に宝を積むのを止めなさい、やがて失われてしまうからと言われました。マタイ6:19-20。永遠ではないからです。砂上の楼閣は、波が来れば一遍に崩れて、なってしまいます。ですから、持っているものすべてが、神様と繋がっていなければなりません。すべて、神様から出て来るものでなければなりません。
V−神様の恵みを拒んだもの−6
なぜ、神様からの驚くべき提案が聞かれず、モアブは滅びることになってしまったのでしょうか。高慢のためでした。6節。この助言によって彼等はいやされるはずでした。癒やされなかったのじは、プライドという罪のためでした。モアブは、高慢で悪名高かったのです。申命記23:3-4。今まで聞いていたことです。多くの人々に知られている彼らの性格だというのです。エレミヤ48:26,29,30,42,ゼパ2:8,11。
ですから、彼らは助言を聞き入れません。彼らは、自分たちはとても賢い、裕福なので、助言など必要としないと思っているのです。これが、神様への立ち返りを妨げ、信仰によるユダとの和解、共生を阻んだのです。
「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」たった1節の中に、高慢に類する言葉が、六つも記されています。豊かな作物を誇り、草原の野原を誇ったようです。とりわけ、有名なぶどう園について、事ある毎に、モアブのブドウは素晴らしいぞ、すごいだろう、と自慢したようです。
よく自慢話をする人がいます。口を開けば、同じことを自慢し、人をつかまえては、自慢話を聞かせます。なぜ、人は、自慢話をするのでしょうか。人に認めてほしいからです。人から評価されたいのです。でも、なぜ、モアブ人は、これほど自慢し、奢り、高ぶるのでしょうか。15章で学んだモアブの特徴は何でしたか。それは、妬みや劣等感でした。実は、奢りや高ぶりと妬みや劣等感は、尻尾のつながった二匹の狐だと言われます。妬みや劣等感があるから自慢したかった、高慢になり易かったのです。モアブは、この高慢のために、神様が提示してくださった救いの機会を退けてしまったのです。モアブの奢り高ぶりが、ユダとの和解と共生という素晴らしい生きる道をみずから閉ざしてしまったのです。
私たちの中にも、奢り高ぶりがあると、霊的な造り変えに背を向けてしまいます。高慢の罪が、信仰による和解と共生に進むのを阻みます。私はこのままでいい、私が他に握っているものがある、私のほうが正しい、悔い改めなど必要ない、と高ぶり、敵対してしまうのです。モアブは、神様に関心がなく、ただ自分たちのぶどう園が守られることだけ考えました。ですから、ぶどう園は荒廃したこの時、神様の前に立ち返り、ユダと共に真実な信仰に生きる、チャンスだったのです。私たちにも、神様は、手を差し伸べ、変わるチャンスを与えておられます。使徒3:18-19。福音は、私たちの人間関係に、和解と共生をもたらしてくれるものです。私たちは、どんな人間関係がありますか。イエス様が私の罪の赦しと救いのために、代わりに十字架にかかられたという福音は、私たちを変えます。私たちに、和解と共生の道を開いてくださいました。Uコリント5:18-20。
イザヤ
16:1 子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。
16:2 モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。
16:3 助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。
16:4 あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、
16:5 一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。
16:6 われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。
16:7 それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。
16:8 ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。
16:9 それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。
16:10 喜びと楽しみは果樹園から取り去られ、ぶどう畑の中では、喜び歌うこともなく、大声で叫ぶこともない。酒ぶねで酒を踏む者も、もう踏まない。わたしが喜びの声をやめさせたのだ。
16:11 それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。
16:12 モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所にはいって行っても、もうむだだ。
16:13 これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。
16:14 今や、主は次のように告げられる。「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」
マタイ12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
ホセア6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
マタイ6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
申命記23:3 アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。
23:4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。
エレミヤ48:26 彼を酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き散らし、彼もまた物笑いとなる。
48:29 私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。
48:30 「わたしは、彼の高ぶりを知っている。――主の御告げ。――その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」
48:42 モアブは滅ぼされて、民でなくなった。主に対して高ぶったからだ。
ゼパニヤ2:8 わたしはモアブのそしりと、アモン人のののしりを聞いた。彼らはわたしの民をそしり、その領土に向かって高ぶった。
2:11 主は彼らを脅かし、地のすべての神々を消し去る。そのとき、人々はみな、自分のいる所で主を礼拝し、国々のすべての島々も主を礼拝する。
使徒3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
Uコリント5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
| 戻る |