2012年4月1日「その日栄光が」イザヤ17:1-14
序−この章は、すでに滅びてしまったダマスコと北イスラエルについての預言です。なぜ、わざわざ未来のこととして振り返えさせているのでしょうか。この二つの国がユダを苦しめ、困難となっていた時を思い出してみよということです。それは、どんな意味があるのでしょう。
T−二国の滅亡を忘れるな−1-3
二つの国の滅亡についての預言です。1-3節。ダマスコとは、アラムの首都、エフライムは北イスラエルのことです。アラムの首都ダマスコも、北イスラエルの首都サマリヤも、堅固な城塞でした。ところが、今二つの国は滅び、廃墟となっています。アロエルとはヨルダンの東側にあった地域で、モーセによって滅ぼされた最初の町々でした。それに比べて、ダマスコはアッシリヤに滅ぼされました。ここに、大きな違いがあります。自分たちを悩ませた敵がいなくなったという点では同じでも、二つの国は、アッシリヤによって除かれた脅威だったのです。
二国によってユダが攻められたのは、意味がありました。神様は、それによって、ユダが神様に立ち返って、高慢と背信を悔い改め、純粋な信仰を取り戻すことを願われたのです。困難が起こる時は、霊的な状態を点検してみる機会です。そこに理由が見えて来ます。神様に背を向けていた、信仰生活をないがしろにして来た、など知るようになります。ところが、人は、早く問題を片付けることだけ考えるのです。神様はいつこの苦境から抜け出させてくれるのか、だけ願うのです。私たちも、どうでしょうか。
二つの国がユダを攻めて来た時、ユダは強大国アッシリヤを引き入れることを算段し、思惑通り二国はアッシリヤによって滅ぼされました。しかし、その後、アッシリヤは、ユダも攻めて来ました。イザヤは、この預言で、二つの国が滅びるようになったのは神様の計画によることだ、と再び思い出させています。ユダが神様の方法で解決すべきだったことを省みさせているのです。
どっちでも、二つの国は滅んでユダは助かることは同じではないか、ということではありません。神様の御手を覚えるなら、ユダが二つの国に悩まされたことを戒めと受け止めて、悔い改めます。そして、神様に立ち返り、神様に拠り頼んで、問題に立ち向かうようになるからです。しかし、手っ取り早く凶暴なアッシリヤを引き入れ、早く脅威を除いてしまいました。そのために、アッシリヤはユダまで攻撃して来ました。ここで、ようやく、ユダは神様に立ち返り、悔い改め、神様の助けを求めるようになりました。
3節に「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる」とありますが、どういうことでしょう。北イスラエルは、元々神の民でしたが、神様に背を向けて、栄光を失って滅びました。つまり、アラムはイスラエル人の栄光のように消えうせる、ということです。
U−衰えて行く栄光−4-6
今、ユダにとって棘のような敵であった二国がなくなりました。ですが、それは、復興、リバイバルのチャンスということではないでしょうか。ところが、どうでしょう。4-6節。「その日」とは、預言が成就した日を言います。アラムと北イスラエルは滅びたのに、ユダの栄光は回復しませんでした。レファイムの谷とは、エルサレムの南西にある地味豊かな平野です。今やそこに実る穀物を収穫できなくて、残った落穂を拾うような境遇になってしまったというのです。まさに、「ヤコブの栄光は衰え」たのです。オリーブを収穫するとき、枝を打って、実を落とすのですが、その時幾つかは枝に残り、それを取り集めるようになったというのです。
今日本もこのような経済状況になっています。バブルのような繁栄はありません。今は、辛うじて、残った企業が、生産や経営を持続させているというような状況です。個人や家庭のレベルでも、仕事は減り、収入は細り、厳しい状況で生活しています。ユダが経験したことは、そういうことです。ユダの期待とはまったく違った展開となっていたのです。悩ました敵はいなくなったけれども、彼ら自身の境遇は衰えてしまったのです。
根本的な問題が解決されていないためでした。神様が、神の民に願ったことは何でしょう。7-8節。結局、ユダの没落の原因は、神様とともにいることを失敗したからです。神様は、神の民が真の神様を礼拝し、仕えることを求められました。神の民にとって、外敵も災害も、副次的な問題です。彼らにとって最も重要なことは、神様の恵みと守りの中で生きること、とにかく神様を礼拝して、神様に聞き従うことでした。これが、神の民の栄光の姿です。
ところが、彼らは、真の神様を礼拝しないで、バールやアシェラ像を拝み始めたというのです。それは、偶像を拝む周りの民が、真の神様を礼拝していなくても、うまく生きているように見えたからです。高慢と強欲で思うままにやっているように思えたからです。そして、周りの民から孤立してはやっていけないと考えたからです。世の人々と同じように、酒を飲み、偶像を拝み、ギャンブルをし、占いをしたりすることはしないというのは、揶揄され、攻撃されるかもしれません。それを恐れないで、信仰に生きなさい、と神様は命じられるのです。それは、肉の思いのまま生きるのと比べると、不自由な損な生き方に見えるでしょう。しかし、社会が荒廃し、経済が破綻している今、そのような生き方が光るのです。神様を知らない人々も、それを見て神様に導かれ、恵みをともにできるのです。
「その日ヤコブの栄光が衰える」のは、結局神様との関係が壊れているためです。二つのうち一つを選択しなければなりません。神様との関係を正しくして、世との関係で不利を被るか、その逆に、世の関係を優先し、神様に背を向けるか、そのどちらかを選ぶのです。神様との関係が正しければ、聖霊の働きを受けることができます。しかし、神様を忘れて世に流されて行くならば、神様は助けることができません。神の民は、二国の滅びを見て、このことを悟らなければなりませんでした。
遅くはない、今悔い改めて、正しい信仰に立ち返って来なさいというのです。神様に仕える栄光と比べられるものは何もありません。北イスラエルは、神様を知っていたのに、その日は栄光が衰え、滅びる日となりました。神の民は、世の中で不遇を受けます。世の人々のように生きないからです。しかし、それが神様と近くいることであり、祝福を受けるようになります。自分も生きて、他の人も生きるようになります。
V−神様の救い−7-14
神様は、ユダの人々に、過去と比べてみなさいと言われます。9-11節。かつては、堅固な多くの町々があったのに、みな倒れて、崩れてしまいました。神様の御力が弱くなったわけではありません。彼らが、神様を忘れて、神様との関係をないがしろにしたからです。それで、植えた作物もみな失ってしまったのです。神の民は、「救いの神様、力の岩」である神様に仕えるために、世では不遇に扱われ、愚か者となって、神様のくださる弱さでやり遂げるのです。これが、神の民の栄光です。
私たちの栄光は、どうですか。衰えていないですか。神様との関係が整えられることなく、礼拝をしていませんか。私たちが神様の御前に真実に生きるなら、栄光を受けることができます。
12-節。二つの国が棘のようになっていた時、ユダは謙遜であり、祈っていました。ところが急に妨げるもの、苦しめるものがなくなってしまうと、謙遜も祈りもなくなったのです。私たちの体にどこか痛い所があれば、診察を受け、治療を受けます。しかし、痛みがないままで病気だけ進行していくなら、手遅れになってしまいます。それと同じです。
棘のような敵がなくなって油断してユダに、新たな敵が怒涛のように押し寄せます。アッシリヤの大軍は、様々な属国から召集された寄せ集めの軍です。統率がなく、騒ぎながら、衝突しながら、やって来ます。大きな声を上げてエルサレムを囲みますが、エルサレムを倒すことはできませんでした。神様が、ユダを守ってくださいました。13-14節。神の民は、何を恐れなければなりませんか、大波のような患難ですか、静かに見ておられる神様ですか。神様に立ち返るなら、守られます。
神様は、御子イエス様を十字架に渡されて、私たちを救いに導いてくださいました。私たちの生きる道は、これです。謙遜になってこの救いを受け、引き続き、イエス様を信じて、御言葉に聞き従って生きることです。ただ、イエス様の十字架を信じて、神の民とされた私たちは、その故に、見捨てられず、守られる者とされました。
神様に仕えることは、人生に望みがあるようにします。すべてのことが失ってしまっても、神様が内におられるなら、それで、十分です。私たちは、その日という時、栄光を失うのでしょうか、栄光を回復するのでしょうか。イエス様が十字架かかられたその日は、裁きの時でしたが、救い主の身代わりの死によって、信じる者には罪の赦しが与えられ、救いを与えられる栄光の日となりました。Uコリント6:1-2。
イザヤ
17:1 ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。
17:2 アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。
17:3 エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。――万軍の主の御告げ。――
17:4 その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。
17:5 刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。
17:6 オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。――イスラエルの神、主の御告げ。――
17:7 その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、
17:8 自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。
17:9 その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。
17:10 あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。 それで、あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。
17:11 あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。
17:12 ああ。多くの国々の民がざわめき、――海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ、――大水の騒ぐように、騒いでいる。
17:13 国民は、大水が騒ぐように、騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前でうず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。
17:14 夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明けの前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。
Uコリント6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
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