2012年5月13日「あなたの拠り所はどこか」イザヤ20:1-6
              
序−昔何か特別な意思をあらわす時、剃髪するとか、荒布を着るということがありました。神様のメッセージにも、言葉のほかに方法がありました。イザヤに命じられた方法は、大変変わった方法でした。

T−岐路に立たされた時−1-2
 神様がイザヤに特別な命令をくだしましたが、まずその時代的背景から示されています。1節。アシュドデとは、パレスチナにある都市国家で、エジプトへの要衝であり、戦略的に重要なところでした。アシュドデなどパレスチナ地方の諸都市が共にアッシリヤに反抗しました。その背後には、エジプトがいたということです。この時、ユダは選択の岐路に立たされていました。私たちが、ユダの立場になって考えてみましょう。この時、パレスチナの諸国は、反アッシリヤ同盟で一つとなっていました。そして、エジプトが後ろ盾となっていたのです。ユダにとっての問題は、この同盟に参加するのか、孤高を保つかという選択です。私たちは、人生の様々な局面において、岐路に立たされます。その時どうするか。
 まず、常識的に考えるでしょう。常識的には、エジプトを頼んで、反アッシリヤ同盟に参加するのが、唯一の道のようです。ユダは、弱い国であり、ユダをアッシリヤから守るには、同盟に入らなければならないでしょう。ついで過去のことを振り返ります。ユダは、アハズ王の時、親アッシリヤ政策を採って、酷い被害を受けていました。その政策の結果的、周りの反アッシリヤ同盟の国々から攻撃を受け、頼みとしたアッシリヤからも攻撃を受けてしまいました。
 私たちも、様々な出来事において岐路にたたされる時、まず常識的な妥当な道を考えるでしょう。そして、それに関連した過去のことを振り返るでしょう。過去失敗しているならば、決してその方法は取らないし、過去成功していれば、同じ手を検討するでしょう。人に勧められれば、その道を選ぶこともします。でも、最後は自分の好みで決めるでしょうか。ユダは、今立場を鮮明にしなければなりませんでした。もしまた親アッシリヤ政策を取れば、パレスチナ諸国から攻撃を受け、エジプトの助けも得られないでしょう。ユダの取るべき態度は、反アッシリヤ政策を採り、同盟諸国と手を組む道しかないように思われます。箴言12:15,16:9。
 しかし、神様は、このユダの計画に反対されました。2節「裸になり、はだしで歩け」というのです。なぜ、こんなことを命じられたのでしょう。それは、言葉でなく、体をもって神様の御旨を示せということです。ユダが頼ろうとするエジプトは、アッシリヤに敗れ、捕虜となって、裸で歩くようになるということのです。3-4節。イザヤは、当時の捕虜の姿で歩きながら、反アッシリヤ同盟に参加して、エジプトを頼ろうとするユダの民に、そのような国を頼るな、という神様の御旨を知らせたのです。
 パレスチナ諸国と反アッシリヤで一つになることは、政治的に考えるならば当然のことでしょう。しかし、岐路に立たされたユダには、その方法で本当にいいのか、信仰的にはそれでいいのか、神様の御旨はどこにあるのか、などと考えることが必要だったのです。私たちも、岐路に立たされる時、世的には妥当だとしても、信仰的に考えたいのです。神様が喜ばれることだろうか、御言葉はどう言っているだろうか、と考えたいのです。
 イザヤのこんな姿は、馬鹿にされ、嘲りを受けたかもしれません。ホセア9:7。また、体を壊す危険もありました。しかし、私たちに示された神様の御心に忠実なしもべの姿でした。彼は神様の栄光となりました。私たちも、時には馬鹿にされ、侮られても、愚直に主に仕える者でありたいのです。

U−イザヤ自身が神様の言葉となる−
 イザヤが脱いだ「荒布」とは、苦行を象徴する粗末な酷い服のことです。2節。イザヤは、普段もいい服を着ていなかったようです。ところが、その服さえ脱いで、奴隷や捕虜のような腰だけ隠した姿で歩き回れと言われたのです。そのような姿で町を歩き、そのような格好で人々に話し、そのままで王様の前にも出たのです。
 なぜ神様は、イザヤにこのような格好で人々の前に出て行くように言われたのでしょうか。預言者は、神様の御言葉を伝えるという、言葉で主の御旨を宣言をする者です。それなのに、なぜこのような姿を見せなければならなかったのでしょうか。もうこれ以上言葉でユダの民に言っても、聞き入れない、理解しなかったからです。それほどに心が頑なになっていたのです。預言者が言葉でなく、大げさない行動で示さなければならないこと自体、緊急に決断が求められていた、岐路にたたされていたからです。
 何かの衝撃を受けたり、悲しんだりする人が、言葉で言うのでなく、着物を裂いたり、灰を被ったり、断食したりして、その衝撃をあらわすことがあります。それ自体が、人への強いメッセージです。人は、同じ言葉を聞くならば、聞き流してしまうでしょう。いつも小言を言われている子どもは、「お母さんは、いつも同じことを言っている。」と聞かないでしょう。言葉の人である預言者が、着物を脱いで、裸足で行動するということは、かえって神様からの重要な警告だ、ということです。
 私たちは、大抵言葉で思いや考えを明らかにします。喜びや悲しみも、反対や賛成も、警告や勧めもみな、言葉で伝えます。信仰の証しもしかりです。しかし、時には、言葉より行動や姿、態度がものを言う場合があります。急にお母さんが小言を言わなくなったら、注意を払うでしょう。偽りや悪口に対してあれこれと自分を主張するより、黙って侮りに耐える方が断然光るでしょう。人々が偽証する中でイエス様は沈黙しておられました。マタイ26:62-63。あれこれ不満や不安を言うよりは、祈り続け、断食する方が神様の取り扱いを受けるでしょう。姿や態度がものを言うのです。
 裸足で腰の覆いだけで預言者が歩き回っていました。強烈な神様のメッセージでした。イザヤの姿、行動そのものが神様の言葉となったのです。そうです。私たちの姿や行動そのものが証しとなり、神様をあらわすことになるのです。イエス様の十字架の犠牲によって救われた私たちは、どんなことでも、神の栄光をあらわそうとして生きるのです。Tコリント6:20,10:31。

V−私たちはどうしてのがれることができようか−3-6
 今日もイザヤのような人がいて、この道は危険だ、あの道が成功に通じると言ってくれたらどんなにいいか、と言うかもしれません。しかし、知ったとしても、そのようにはしないのが、肉に従う人の常です。自分の肉の思いに合致しなければ、耳を傾けないのです。しかも、確信をもってその道を行くのです。聖書は、頑なな神の民に、その道の先を見せてあげてその道を進んで行っていいですか、と警告を与えてくれるのです。
 大国エジプトが敗れる、それは、パレスチナ諸国にとって、恐れとなります。5-6節。「海辺の住民」とは、パレスチナの人々のことです。彼らが拠り頼んでいたエジプトが負けて、捕虜となって引かれて行くのを見て、「私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどのようにのがれようか。」と嘆くのでした。常識的に考えれば、パレスチナやユダの民にとって、エジプト以外に頼るべき道はありませんでした。ところが、神様はエジプトを拠り所としてはだめだ、と言われるのです。それなら、困難な時、いったい誰を頼ればいいのでしょうか。神様がおられます。
 1節のアシュドデがアッシリヤに攻め滅ぼされたということは、エジプトから援軍が来なかった、ということを意味しています。なぜ、援軍を送らなかったのでしょうか。エジプトは誰かを助ける力がなかったのです。パレルチナの民なら、「私たちの拠り所はこの始末だ。逃れることはできない。」と嘆くのは仕方ないでしょう。しかし、神の民には、「どうして、助けになる方を拠り所としないのか。」と言われているのです。
 私たちは、イエス様を自分の救い主信じている者です。私たちを創造された神様は、私たちを愛し、イエス様の十字架を通して救ってくださいました。信じた者は、創造主なる神様を拠り頼んで生きることができるのです。どんなに素晴らしいことでしょうか。それなのに、エジプトならぬ、世の富や世の何か、誰かを拠り所としてしまうのです。頼りにならないものに期待してしまうのです。自分の必要とするものは世にあり、神様の側に行けば、世から疎外されると考えるのです。
 神様がイザヤにそのような姿で活動させた理由は、エジプトよりもっと偉大なお方が彼らにはおられるということを悟らせるためでした。今日私たちがすべきことは、イザヤの服装で神様の御前に立つことです。自分の自慢するものや拠り頼むものを置いて、神様の前に裸になることです。神様以外に避け所としない、恐れないと決心することです。そうすれば、神様は考えもしない方法で、神の民を守ってくださるのです。
 創世記に、罪を犯したアダムとエバが、神様から「身を隠した」時、「あなたは、どこにいるのか。」と神様は言われました。私たちは、この神様の声を聞いて、神様の御言葉に拠り頼み、神様を避け所としなければなりません。詩篇46:1,62:8。主に信頼する者が、失望させられるでしょうか。主に確信する者が恥を見るでしょうか。いや、ありません。ローマ10:11。



イザヤ
20:1 アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、――
20:2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。
20:3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、
20:4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。
20:5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。
20:6 その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」


箴言12:15 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

ローマ10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

詩篇46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

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