2012年5月27日「礼拝し、養われ、遣わされる教会の民」使徒11:19-26
序−なぜ、教会は存在するのでしょう。聖書をみると、三つの姿が記されています。まず誰でも知っているのは、教会は、「神を礼拝するため」に存在するということです。二つ目として、「この世へ証しのために」教会は存在します。そして、三つ目に、教会は「養育と訓練のために」存在します。教会設立記念を覚えて、教会の存在について学び、心新たに教会形成を担い、礼拝の生活をして行きましょう。
T−召し集められた民、遣わされる民−
教会は、「この世へ証しのために」存在します。使徒1:8,マタイ28:19-20。使徒11章のアンテオケ教会は、初めエルサレムから散らされた人々がここに来て、伝道するようになって、できあがった教会です。20節。私たちが、まさに散らされている神の民であることは、イザヤ書を通しても学びました。この人たちは、初めユダヤ人にだけ御言葉を語っていたのであって、異邦人という他の人たちには語らなかったというのです。19節。ユダヤ人は御言葉を知っており、救い主の知識もあります。今日的に言えば、神様から離れている、覚醒していないクリスチャンにだけ証ししたという感じです。ノンクリスチャンには、福音を伝えなかったということです。
なぜ、ユダヤ人以外に福音を語らなかったのでしょう。この11章の前半部分にその布石が記されています。ユダヤ人は、自分たちだけ救われればいい、我々は特別だから、という独り善がりに浸っていたからです。客観的に見れば、酷い話ですが、弟子たち自身、自分たちの救いで満足していたのです。異邦人まで救われなくても、という思いがあったからです。また、批判されることもあったからです。11:1-3。神様は、独り善がりに気付かせるために、手の込んだ幻を見せられました。11:3-17。悟ったペテロは、自分たちを通して異邦人を救おうとされる「神様のなさることを妨げていた」と告白し、悔い改めています。
この弟子たちの独り善がり、覚醒は、私たちの通るところでもあります。クリスチャンは、自分の救いに満足し、独り善がりだなど思いもしません。批判や拒絶を恐れて、証しを自粛してしまいます。恐れと言っても、大部分は取り越し苦労かもしれません。関係が形成されていて、自然な形で証しされるならば、けっこう聞いてくださるものです。相手から聞きたいというような機会さえ、導かれるものです。
そんな彼らが、どうして異邦人にも福音を語るようになったのでしょうか。19節。「散らされた」からです。エルサレムでクリスチャン同士の交わりの中にある時は、それだけで満足していたのです。ところが、エルサレムから散らされて、アンテオケに避難してからは、周りの異邦人にも恵みを分かち合いたくなったのです。散らされたことで信仰が覚醒し、周りの人々が救われてほしいと願うようになったからです。
証しも、私たちの力ではなく、主の導き、主の働きです。21節。主がたましいを備えてくださり、主が聖徒たちを用い、主が人の心を開いてくださるのです。こうして、人々がイエス様の福音を信じて、神様に立ち返るようになり、アンケオケ教会が形成されて行きます。
U−礼拝する民−
教会は、「神を礼拝するため」に存在します。エペソ1:6,12,14。神様が喜ばれる礼拝は、失われた羊が連れて来られて共にする礼拝です。アンテオケに来たクリスチャンの証しによって救われた人々が、共に礼拝の生活をしました。21節。礼拝こそが、神の民クリスチャンの存在理由です。イザヤ43:21。私たちは、神を礼拝するために造られ、神はご自身を礼拝する者を求めておられます。ヨハネ4:23。ですから、私たちは神様に礼拝をささげるのです。
勿論、私たちが生きるために、礼拝が与えられています。礼拝には、神様の臨在のもとで、命と力が溢れます。礼拝をよくささげるならば、死んでいたような人が生き返り、病んでいた人が回復し、力の無い者が力ある者に変わります。初代教会の力の核心は礼拝でした。そこに集まった人々ほど祝福された人はいません。
神の臨在の前に出るという思いがなければ、礼拝は形骸化します。「神の御前に生きる」ことがクリスチャン生活の原則です。神の御前に立つ命が、クリスチャンの生きる人生の本質です。主により頼んで、主を避け所として、自分自身をささげる思いで、真実に礼拝をささげる姿勢こそが力です。ローマ12:1。どんなに良いプログラムや音楽、礼拝堂や説教が用意されたとしても、集う人々が神の臨在を覚えず、神の御言葉も聞かず、献身や悔い改めがなかったならば、その礼拝は死んだものです。良い礼拝が良い礼拝者を作るのではなくて、良い礼拝者が良い礼拝を作るのです。私たちは、このことを深く心に留めなければなりません。
良い礼拝者が、良い礼拝の鍵を握っています。その良い礼拝を作る最も良い方法は、礼拝の内容よりも、イエス様の忠実な弟子となった者が礼拝をささげているかということです。礼拝する者が、御言葉の訓練を通して神様をもっと深く知り、霊的造り変えを受け、自分の人格と人生の変化を体験しているかということです。神様の栄光のために生きようとする者たちが礼拝をささげるならば、その礼拝は生きている礼拝、神様の力を体験する礼拝となります。
私たちクリスチャンの生活の中心は礼拝です。主の日にささげられる礼拝が、一週間の霊的生活、肉体的活動の中心です。ですから、礼拝に参加する者は、霊的、肉体的状態を最高にしておくのです。神様の臨在される礼拝に参加するという熱い聖い期待感のゆえに、霊的なエンドルフィンが出るようになります。一週間のはじめの日に天の栄光と恵みを味わい、残りの六日間を霊的にも肉体的にも、イエス様の弟子として生きるのです。礼拝で受けた恵みによって、霊的なエンドルフィンが生産されます。
V−御言葉に養われ、整えられる民−
そして、教会は、「養育と訓練のために」存在します。「子供を育てるような教会」と宗教改革者カルヴァンは呼びました。子供たちを養い育てることをやめてしまったら、子供たちは育つことができません。教会が、救われた者を御言葉で養育し、整えるのです。
現代教会が聖徒たちの召命を過小評価し、多くの人々が聖日に集まるだけの無力な群衆に化しています。イエス様の弟子にならない者の払う代価は実に大きいのです。真の人生を失い、御国の報いから外れ、神の国に益することが少なくなり、時には主の敵ともなります。私たちが、救われたに留まらないで、御霊の原理で生きる、イエス様と共に生きるクリスチャンに変えられ、キリストの真の弟子となることをイエス様は願われたのです。マタイ28:19-20。
なぜイエス様は、3年もの間ほんの少数の弟子造りにすべての力を注がれたのでしょうか。それは、少数の弟子たちを養育し、訓練して、神の国建設を委ねるためでした。アンテオケ教会では、救われた人々が集まって来ると、バルナバとパウロによって、御言葉の養育と訓練が行なわれました。22-26節。そして、アンテオケ教会が形成されて行きました。世から教会に召し集められ、救われた者が、教会において養育、訓練されて、そして世に派遣されて行きました。そして、派遣された者を通して、人々が救われて、加えられて来ます。これが教会の定義です。
イエス様の真の弟子となることは、選択するオプションではなく、イエス様が地上で最後に言い残された命令です。マタイ28:19-20。救われたクリスチャンすべてが弟子となって、キリストの祭司となることが望まれています。Tペテロ2:5,9。教会は使徒性の土台の上に建てられています。エペソ2:20。長老教会は、宗教改革の伝統に根ざしていますが、宗教改革が強調した一つは、万人祭司論です。祭司の働きの特徴は、神の御前に霊的な礼拝をささげ、神の御言葉を伝え、取り次ぎます。すべてのクリスチャンは、世に遣わされた祭司です。御言葉を証しすることのは、すべての聖徒に与えられた使命です。Tペテロ2:9。
「クリスチャンはこの世に遣わされたイエス様の弟子だ」という自覚がなければなりません。救われたのならば、この世に遣わされています。遣わされているならば、御言葉に養われ、整えられなければなりません。霊的造り変えがなされなければなりません。初代教会は、イエス様の弟子がイエス様の弟子を生み出して行きました。救われたクリスチャンが御言葉で養育され、イエス様の弟子となり、証ししました。訓練を受けた弟子たちが、小グループを形成して、導きました。
あきる台BCが、教会設立以来弟子訓練、セルグループというビジョンを掲げて来たのは、これがイエス様のなされたことであり、これによって初代教会が形成され、宗教改革が強調した万人祭司論を具現するものであり、何よりもこのことが聖書に教えていることだからです。
実は、クリスチャンという呼び名は、このアンテオケで初めて呼ばれるようになりました。26節。彼らが、口を開けば、「キリスト、キリスト」と言っていたのが、地の塩世の光となっているゆえに、「あの人たちは誰か」と聞かれ、「キリストに属する人たち、クリスチャンだ。」と言われたからでしょう。イエス様の弟子としてなって世に遣われていた姿が、そこにあります。エペソ4:13-14。
使徒11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
エペソ11:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。