2012年6月3日「神が求められること」イザヤ22:1-14
              
序−学生は歴史を学ぶ意味があるのと言い、「歴史は、過去を見ることで、現在を理解し、そして未来に備える。」と碩学は言います。現在だけを見ていては、現在をしっかり理解することができないし、未来に備えることもできないからです。私たちが旧約の歴史を学ぶ意味も、そこにあります。

T−騒ぐエルサレムに臨むこと−1-7
 「幻の谷」とは、エルサレムのことです。1節。「谷」は、山々に囲まれたところであり、エルサレムがそういうところです。エルサレムについて、イザヤが見た幻は何でしょう。1-2節前半。今人々は、喜び、騒いで、誇っています。今までエルサレムを取り囲んでいたアッシリヤ軍が、包囲を解いて、退却して行ったからです。U列王19:31-36。長い籠城戦に耐え、ついに解放されたのです。屋根に上って騒いだのも、無理のないことです。私たちも、喜び、騒ぐ時があるでしょう。それらが、困難の末に得られたなら、予想もしないことで得られたら、その喜びは一入、騒いで、有頂天になることもあるでしょう。高慢にもなるでしょう。
 ところが、その喧騒のエルサレムがこの先どうなるか、その幻を見たのです。2節後半-3節。それは、エルサレムがバビロンによって滅ぶ姿です。退却したアッシリヤに変わって、バビロン帝国が興り、エルサレムは、やがてそのバビロンによって完全に滅ぼされるのです。「喧騒に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。」という呼びかけは、アッシリヤの撤退で有頂天になってはいられないぞ、という注意の喚起です。
 エルサレムはバビロンによって陥落してしまう時、多くの人々が死ぬのですが、剣で殺されたり、戦死したりするのでないというのです。飢饉で死んだり、病気で死んだりするということです。籠城するエルサレムを、バビロン軍が長期間取り囲み、伝染病や飢えが起こるからです。そして、王や高官たちは、城塞から抜け出して、逃亡するが、捕らえられてしまうのです。
 大事なことは、ここです。解放の喜びで沸き返っている時に、イザヤが将来のエルサレムの悲惨な幻を見る理由は何か、ということです。喜び、騒ぐ時、目を向けるべきこと、解決すべきことがあるということです。4節。エルサレムがアッシリヤに屈することなく耐えられたのは、イザヤの励ましが大きかった。それで、人々は、イザヤに感謝を言いに来るでしょう。しかし、滅びの幻を見たイザヤは、「会いたくない。泣きたい心境だ。」というのです。これは、神様がエルサレムの人々にしばし考える時間を与えたということです。この平安は、彼らが、神様を離れ、間違った信仰生活をしていたことを振り返る時間なのです。
 神様がユダに求められたことは、絶対的に神様お一人を信頼せよ、ということです。そのままだったら、解放に酔いしれた後、再び世の何かに心を寄せ、頼みとするようになるでしょう。同じことを繰り返すことになるでしょう。人は、困った時は神頼みしても、叶えられば忘れて見向きしなくなるものです。残念ながら、神の民でも、クリスチャンでも、同じことをしてしまうということです。私たちは、どうでしょう。
 彼らは、神様の御言葉よりも、自分がしたいことをして物事を解決しようとしました。気に沿わない御言葉は、束縛と感じて拒み、思いのままに生きようとしました。神様が要求されるのは、御言葉に信頼して、その中で満足しなさい、ということです。それが、神の民の生きる道です。Tテモテ6:6。アッシリヤに攻められ、滅亡手前まで行ったのは、神様を離れて自分勝手に行ってはではだめだということを覚えさせるためでした。
 イザヤは、バビロン軍の幻を見ました。5-7節。エラムとかキルの人々は、アッシリヤに圧迫されていた民族が、今度はバビロン軍に編入されて、得意の武器をもってエルサレムを取り囲んでいるのです。アッシリヤに苦しめられた同じ境遇の民族が敵になっているのです。それを見たエルサレムの人々の恐れ叫ぶ声が響き渡りました。「恐慌と蹂躪と混乱の日」となりました。苦しみの時に、周りから誤解され、攻撃が重なる。余計に辛く、悲しくなります。
 しかし、大事なことは、それらの人々を恨んだり、怒ったりするのでなく、ひたすら謙遜になって、誤りを悟って、神様に拠り頼むことです。聖霊が働いて、状況を悟らせ、人々や問題に良く対処させてくださいます。恐れることもなくなります。遠いエラムやキルの地から徴発させて来たのか、かわいそうにとさえ思うようになります。事実、そうなのです。高慢にならず、謙遜になることが大切です。私たちも、そのように取り扱われるのです。周りのエラムやキルを恨んだり、怒ったりしないようにしたい。

U− 神の民の備えるべきこと−8-14
 8節からは、当時のエルサレムに戻ります。エルサレムは、防備に備えるようになります。8節。「ユダのおおいは除かれ」とは、アッシリヤ軍を前にして、ようやく勝手な空想や思いが除かれて、戦いの実体を知るようになったということです。それまで、自分たちは神の民だから、困難は近づかない、エジプトが何とかしてくれるとか勝手に思っていたのです。そして、森の宮殿の中にある武器庫を点検します。T列王7:2。
 エルサレムは、難攻不落の城塞都市です。しかし、水不足という弱点をかかえていました。9節,11節前半。籠城戦には、水が必要です。ヒゼキヤ王の時代に、シロアムの池とギホンの泉の間に533mのトンネルが掘られました。U列王20:20。その地下水路は今も残っています。そして、城壁を修理しています。9-10節。エルサレムが、どれほど現実的に防御に努めたことかは分かります。
 ただし、重要なのは、11節後半です。武器と水の確保と城壁修理と、防御を固めても、最も大事なことが欠けていたというです。「恐慌と蹂躪と混乱の日は主から来る」というのに、神様を恐れることなく、防御だけを行ったのです。アッシリヤの退却は、何よりも神様の御前に自分たちの問題を省みさせるためでした。うまく行った、守られたという時、省みるチャンスなのです。
 本当のリバイバルとは、何でしょうか。神様との正しい関係に立ち返ることです。神様と自分の間を妨げているものを取り除き、悔い改めて、神様に拠り頼むことです。心が変えられ、生活が変わることです。しかし、エルサレムの人々は、まったく心は変わることなく、防御だけでよしとしたのです。どんなに他のことを準備したとしても、神様が一緒でなければ、その備えは役に立ちません。神様に祈ることがなければ、どんなに武器を備え、水路を掘り、城壁を積み上げても、何もしないのと同じです。
 いろいろやっても、私たちができないことは必ずあります。それは、神様にお委ねします。そのような部分があるために、祈らざるをえないのです。弱いところに神様が働いてくださいます。Uコリント12:10。自分たちの防御で十分だと思ったら、主に対して不誠実となるでしょう。防御できる力と時間を与えてくださったのは、神様です。神様と一緒にするのと自分一人でするのとでは、根本的にちがいます。神様だけが道を知っておられ、私たちの人生を通して、神様が御心を行なわれるのです。
 アッシリヤが退却する時には、エルサレムの人々は久々の平和を享受するようになります。ただ喜び、楽しみます。しかし、神様は、この時こそエルサレムが真実に神様の御前で嘆き、悔い改める時だと言われるのです。12節。小さなエルサレムが巨大なアッシリヤに勝利することは、どれほど大きなことでしょう。神様は、なぜ「泣き、悲しんで、悔い改めよ。」と言われるのでしょうか。
 彼らは、アッシリヤの戦いの間も、神様の御心に逆らいました。神様に見捨てられても仕方のない民でした。勝つことのできない戦いに勝ったのです。神様の御前に傲慢と罪を悔い改める時のです。この勝利が証ししているのは、エルサレムの強さではなく、神様の恵みと哀れみでした。エルサレムの勝利は、神様が彼らをどれほど愛しているかを見せてくださっています。。彼らの不真実にもかかわらず、神様の真実さがくださった勝利です。終わりまで彼らを愛してくださるというしるしです。
 私たちは、このような神様の驚くべき愛を経験しています。まず、イエス様の十字架を通して救われたことです。救われるべき条件は私たちには何もないのに、一方的に救いに選んでくださいました。その後も、不従順や高慢にもかかわらず、見捨てることなく、変わらずに愛し守ってくださいました。私たちは真実でなかったけれども、神様は真実でした。この神の愛にどう応えるのでしょうか。
 エルサレムの勝利の時、神の民は、真実に悔い改めなければなりませんでした。しかし、彼らはそうしません。13節。これは、信仰のない人の高慢な居直りの言い方です。彼ら自ら、救いを退けたと同じです。14節。残念な罪の姿です。私たちが注意しなければならない時はいつでしょう。守られた時、困難から解放された時、自分勝手だったのに事がうまく行く時です。それは、神様がそれを通して私たちに悔い改めと立ち返りを促しておられる時、真実な信仰生きるチャンスなのです。イザヤ59:20,Uペテロ3:9。


イザヤ
22:1 幻の谷に対する宣告。これはいったいどうしたことか。おまえたちみな、屋根に上って。
22:2 喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。
22:3 おまえの首領たちは、こぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕えられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕えられた。
22:4 それで、私は言う。「私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」
22:5 なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。
22:6 エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。
22:7 おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。
22:8 こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。
22:9 おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。
22:10 また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、
22:11 二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。
22:12 その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、
22:13 なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。
22:14 そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。


U列王19:31 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。
19:32 それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
19:33 彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。――主の御告げだ――
19:34 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

Tテモテ6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

Uコリント12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

イザヤ59:20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――

Uペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

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