2012年6月24日「あなたはどう生きるのか」イザヤ24:1-13
序−今世界は21世紀に臨んで大変暗い憂うつな様子になっています。現代は、人間の欲にブレーキがかからず、制御が失われ、破滅に向かっているようです。その中で生きる私たちは、御言葉を通してどのように生きるかを学ばなければなりません。
T−地が荒れ廃れ、人生が荒れ廃れる−1-2
地が荒れ廃れさせられ、家や畑が荒れ地になり、ごみが山のようになり、人々が散らされると言っています。1節。それは、ゴーストタウンのようになるということです。それが、一体どこの国で、どんな人々がそのようになるのでしょう。そもそもすべて混沌としていたところから、神様は万物を創造されました。人は、神様の創造された秩序を保ち、栄光をあらわす役目を担っていました。創世記1:28。そして、神の民にとってこの世を管理して行く責任を担っていたのです。
荒廃する地とは、どんな地でしょうか。2節。「民と祭司」がいる地とは、それは、ユダとエルサレムです。どうして、エルサレムがゴーストタウンになるのでしょうか。「民は祭司、奴隷は主人、女奴隷は女主人」がそれぞれの身分や責任が同じになってしまったというのです。それは、彼らが同じく、「物を売ったり買ったりし、お金を貸したり借りたりし、利子を取ったり取られたりする」からです。
つまり、自分たちが何のためにユダの地に生きているか分からなくなっていたのです。神の民としての職分も責任も忘れてしまい、世の価値観にどっぷりつかって、荒廃してしまうという姿です。民も祭司も、しもべも主人もみな、信仰者としての使命を受けて、生かされていたのです。それなのに、彼らは職責や役目を忘れ、物の売買や、お金の貸し借り、投資や富の蓄積が、もう彼らの活動の全部となってしまっていたのです。神様が神の民を生かしておく目的があります。欲を満足させ、多くのものを所有することではありません。神様が願うことは、私たちが信仰の訓練を受けて、それぞれの働きと生活を通して神の栄光をあらわし、最高の信仰を生きることです。イエス様に尊い犠牲によって救われた私たちは、自分の人生の使命と期待を無にするわけには行きません。使徒20:24。
私たちは、自ら人生を評価してみる必要があります。自分の人生において、霊的訓練はどの程度占めているだろうか。自分は、どれほど信仰的に意味ある人生を生きて来ただろうか。神様の栄光をあらわそうと仕事をし、学び、生活して来ただろうか。どんなことに多くの時間とお金を投資しているのだろうか。もし、私たちの人生のすべてが金儲けや自分の欲心を満足させることに費やされているとしたら、私たちはすでに世に生きている目的を失っていることになります。結局、そういうものは残りません。信仰の人格だけが残ります。重要なことは、熱心にそれぞれの使命と責任を果たすことです。それをなおざりにしたら、何も残らないということです。
U−地が荒れすたれる理由−3-6
荒廃する地とは、エルサレムです。これが全世界の裁きのはじめだと言います。3-5節。荒れ廃れた理由は、「彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破った」からです。神の民が、神様の律法を無視して、自分の欲心のまま生きていたのです。バビロンに引かれて行く前に、すでに神の民としての力を失っていました。イスラエルにカナンの地が与えられたのは、先祖アブラハムと約束のためです。しかし、信仰が廃れて、御言葉が守られなくなるなら、その地は返還しなければなりません。「地が嘆き悲しみ、衰える」というのは、ユダの民が自分の罪で気付かないうちに、内部から衰えていたということです。
クリスチャンが御言葉を聞き従わないことが、どんなに愚かで、恐ろしいことか、感じさせられます。私たちは、助けや励ましがほしい時、御言葉を求めます。従いたいです。しかし、助けや励ましを必要としないとき、御言葉を求めるでしょうか。喜んで御言葉に聞き従おうとするでしょうか。私たちが気付かずに、内部から衰えることなどないように願います。
エルサレムの滅亡が教えることは、エルサレムが裁かれるなら、世のすべての人々がさばかれるということです。Tペテロ4:17。なぜ神様のさばきがあるのでしょう。それは、神様の民に立ち返る機会を与えるためです。教会と信じる者に権限を与えて、世の罪と戦うようにさせるのです。私たちは、いつ裁きの笛が鳴るか分からない競技場にいるようなものです。さばきの時期は分かりません。しかし、いつ世が滅ぶのかに神経を使うことは、私たちのすることではありません。 私たちがしなければならないことは、滅びに向かっている世で一人でも多く救いに導くことです。これが最も重要です。神様は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」Uペテロ3:9。私たちは、自分の信仰の人生をしっかり生きるとともに、この救いの恵みを知らずに滅びて行くたましいを憐れみ、その救いのために自分が用いられている使命と責任を覚えなければなりません。
今日人々は、世界は核戦争で滅びるか、天変地異の大変動で滅びるか、巨大な彗星が落ちて来るのかと、漠然とは恐れています。しかし、そういうことを心配することはありません。神の民は創造主の御手の中にあるからです。今クリスチャンは、地の隅々まで福音を伝えよという使命の中にあります。私たちの働きによって救われるたましいが一人でも残っているなら、神様は世を滅ぼされません。私たちは、この世から何かを持って行くこともできません。ただ神様に救われるたましいだけが残るのです。
V−エルサレムの喜びがなくなる−7-13
地が荒廃するということは、飲み食いの楽しみや音楽や踊りの喜びもなくなってしまうということです。7-9節。イザヤがこのようなことを伝えるのは、エルサレムの人々が、神の使命を忘れ、神様の御言葉に聞き従わないで、飲めや歌えをしているからです。ヒゼキヤ王の時、ユダは好景気でした。アラムやイスラエルは滅び、アッシリヤも退却し、相対的にユダは強くなったようでした。すべての困難が取り去られたと、飲めや歌えをして騒いでいたのです。搾ったばかりの新しいぶどう酒(ぶどうジュースに近いもの)を飲むのは、大きな宴会だということです。
しかし、神様は、このように喜んでいる民を責められたのです。「あなたがたは、新しいぶどう酒を飲めなくなって、竪琴を弾けなくなって、喜ぶことができなくなる。」というのです。なぜでしょう。アッシリヤとの戦いには勝てても、罪との戦いはそのまま残っていたからです。徹底して心を変えなければならない戦争が残っていたのです。私たちは、収入や病気や子どもの問題などで悩み苦しみます。それが済んだ後、まるで自分が良いのでそのような結果になったかのように騒ぎ易いのです。神様は、そのような姿を喜ばれません。困難な問題が解決されたなら、むしろ神様の御前に膝を屈めて、その間見せていた不信仰や罪の心を赦してくださるよう祈ることを喜ばれます。
乱れた都は、彼らから取り去られます。10-13節。捕囚として引かれて行くなら、家に入ることができなくなり、ぶどう酒をのむことも、騒ぎ立てることもできなくなります。生存自体を考えなければならない時、ぶどう酒は棄てなければなりません。
13節で「それは、世界の真ん中で」と言っています。エルサレムの裁きは、全地臨む神様のさばきのあらわれです。人々は、エルサレムのさばきをただ他人事と考えてしまうからです。エルサレムが神の御怒りのために滅びる他ないなら、他の国々はどうなのでしょう。エルサレムの滅亡は、オリーブの実が自然に落ちるようなものです。しかし、オリーブ木を打ち叩いて残りの実を落とし、取り残しのぶどうの実が取り去られるように、さばきは全世界に及ぶというのです。
教会の機能を失ったエルサレムを退かせます。教会の機能は、人が神様に造られた尊い存在なのに、神様に背を向け、罪を犯し、滅びに進んでいることを知らせることです。人が悔い改めて、イエス様の救いにあずかるようにさせることです。「あなたの滅びの代わりにイエス様が十字架にかかってくださったのです。」と。しかし、腐敗したエルサレムは、その機能を失ってしまい、宴会をしていたのです。
教会に重要なことは、その機能を果たされているかということです。人々が救われて罪の治療がされているかということです。人にとって重要なことは、家族の救いです。私たちは、沈没する船から人々を救い出す任務を負っている救助隊のようです。しかし、船はだんだん沈んで行くのに、乗客たちは誰も沈むとは思わないのです。そのような中でも、沈没する時まで一人でも説得して救い出すのが、私たちの任務です。
終末は、教会の時代です。教会が、クリスチャンが、神様から救いと力と使命を与えられています。私たちがどうするかで、世の人々が生きるか滅ぶかになります。私たちは、世の多くのことに費用と力をかけ、人生を費やしてはなりません。それぞれの立場において、神様から受けた使命と責任を果たすことに費やさなければなりません。私たちが教会の機能を厳粛に成し遂げようとするなら、どんなに弱くても、神様が守ってくださいます。力を注いで、導いてくださいます。その人生は祝福された有意義な人生となります。主の栄光を共に見ましょう。
イザヤ
24:1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。24:2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
24:3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
24:4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。
24:5 地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。
24:6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。
24:7 新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。
24:8 陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
24:9 歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。
24:10 乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。
24:11 ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
24:12 町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。
24:13 それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。
Tペテロ4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
Uペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。