2012年7月1日「悔い改めと賛美」イザヤ24:14-23
              
序−神の民が賛美をする時、その心は一様ではないようです。神様を喜んでする場合でも、純粋に神様を喜んでする場合もあれば、自分が喜んでいるから賛美する場合もあるでしょう。散らされたイスラエルの民がどんな心で賛美していたのか、それは私たちに自分の心を省みさせます。

T−地の果てから神様に歌う人々−14-15
 世界に散らされた神の民が神様を褒め称えるようになります。14-15節。これまでの流れから見て不思議なことです。まったく他の人々が賛美しているのでしょうか。いいえ、イスラエルの民です。世界に散らされた人々は、イスラエルの神様を褒め称えているのです。
 この人たちはどんな人たちなのでしょう。そもそもイスラエルの民とカナンの地の関係を考えてみましょう。彼らは、カナンの地でどのように生きることができたのか。先祖代々いたわけではない、力が強かったからでもありません。ただ、神様がイスラエルの民と契約を結ばれたからです。神様は、エジプトから民を救い出された後、神様の御言葉を守ることを要求されて、カナンの地を与えました。律法を守っていれば、この地から追い出されることはなかったのです。彼らがなぜ神の民と選ばれ、カナンの地を与えられたかは、分かりません。神様の選びがあり、神の民とされた彼らは、その神様の一方的な恵みに応えることが重要でした。
 私たちがイエス様に救われることも、私たちの内に条件はありません。御子イエス様が私たちの身代わりに十字架に苦しみ、死んでくださったのです。ただ一方的な恵みのゆえに、救いに選んでくださったのです。エペソ2:8。しかし、罪の性質が残る人の心は、どう応えるでしょうか。
 イスラエルが強く豊かになるに連れて、神様を恐れる心と謙遜と悔い改めの思いが失われて行きました。やがて、分裂王朝時代に、北イスラエルは完全に彼らの心から神様は閉め出され、国も滅びて、民は散らされました。たとえ、神の民が礼拝をささげていても、罪に対する悔い改めがなく、心は神様から離れていたのです。神の民が、罪を責める説教を嫌い、悔い改めもなく、祝福だけを求めるとき、すでに彼らは変化する可能性がなく、その地から追い出されざるを得なかったのです。
 しかも、彼らは、なぜ神様は、悪い強国を用いて自分たちを約束の地から追い出されたのか、理解できませんでした。ちょうど、失敗や挫折をしたクリスチャンが、何が問題なのか分からない姿です。そして、その地から捕囚として連れ出され、奴隷として売られたイスラエルの民は、自分を追い出した強国が滅びた、つまり、神様の裁きを受けたという知らせを聞いたので、神様を褒め称えているのです。14-15節。
 捕囚となった世界に散らされた人々が喜ぶ知らせとは、何でしょうか。それは、かれらを略奪し捕虜にしたアッシリヤやバビロンのような国の滅亡でしょう。そして、約束の地への帰還という神の祝福でしょう。
 かれらは、二つの敵、アッシリヤとバビロンが滅んだという知らせに驚き、喜んで、賛美します。神様が悪者たちをそのままにしておかず、さばかれたと褒め称えたのです。そして、神様は、自分たちを顧みてくださった、どうにかしてくれるに違いない、と賛美するのです。16節前半。だが、しかし…。

U−悔い改めていない者に臨む裁き−16-18
 しかし、急に嘆きに変わります。16節後半。なぜでしょう。散らされた者たちが、神様を賛美しながら、「正しい者にほまれあれ」という声を聞いて、彼らの考えに苛立って来たのです。彼らには、不法と背信がありました。一方的に神の民としてくださり、シオンの地を与えてくださった神様に対する「背きの罪」がありました。20節。それゆえ、捕囚に会い、散らされていたのに。賛美する彼らには、悔い改めがなかったことが分ったからです。敵が滅びても、肝心の彼らの回復が絶望的だったからです。「神様に向かって、『主よ、主よ。』という者がみな天の御国にはいるのではない。」と、イエス様も語っておられます。マタイ7:21。
 「私はだめだ。私はだめだ。」と繰り返し嘆いています。「何と私は不幸なことか」と嘆いています。人々の裏切り、背信に対して、絶望的な声をあげているのです。なぜ、「私」と言うのでしょうか。預言者失格だとでも言うのでしょうか。イザヤは、自分たちの中にそのような欲心があると悟ったからです。自分たちが良いから救われた、自分が信仰的だから恵みを受けた、「正しい者にほまれあれ」と言い勝ちだったからです。私たちも、自分が喜んで賛美しても、悔い改めの涙を流しながら賛美することがあるでしょうか。私が良くて、頑張ったので、神様は顧みてくれた、と賛美したりしているのではないでしょうか。私たちも、はっとして「私はだめだ。私はだめだ。」と言わざるを得ないのです。真実な心で神様の栄光の前に出るならば、私も同じだと気付かされるのです。
 高慢で自己欺瞞の彼らの特徴は、「裏切り」そして、騙しでした。彼らの特徴は、神様への「そむきの罪」です。はじめは良く見せかけ、言葉で騙して、思うようにならないと、武力で奪うのです。しかし、「裏切り者」とは、「そむきの罪」があるすべての人間です。世の中で人は、騙して、騙されて生きて行きます。自分のものだけでは、満足できません。どうしても、人のものを奪わなければならなくなるのです。
 イザヤは、人の本性について深い絶望を持たずにはいられませんでした。そして、自分はどうかと省みて、深く嘆かざるを得なかったのです。事実、イザヤは、神殿で神様の栄光を見た時にも、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者だ。」と声を上げて嘆いています。イザヤ6:5。この世に罪のない人がいるでしょうか。神様の恵みを受けつつも罪を犯してしまうのです。神様の憐れみがなければ、とても生きて行けないのです。
 神様のさばきがくだります。17-18節。「地上の民よ」という呼びかけは、ただ地のことを目的とする人々のことです。彼らは目に見える以上のことを考えません。力や富がすべてであって、それがあれば世を支配できると考えるのです。世で成功したと思うのです。しかし、人は、人生の目的について自問しなければなりません。人は、存在の意義を知ってこそ、意味ある人生を生きることができるからです。
 裏切る者、騙す者は、満足することなく、手に入れようと無理をします。それが、罪と不法へのワナ、落とし穴となります。節制できなくて、謙遜になれなくて、満足できないからです。強大な国がなぜ滅ぶのでしょう。際限なく国を広げて、大きくするので、支配できなくて滅ぶのです。聖書が言うことは、世のすべてのものは神様のものだということです。神様がくださるなら持って、くださらないなら持たないのです。主にあって、「吾唯足ることを知る」のです。Tテモテ6:6。貪欲な人は、何をしても不満足です。やがて、もっと悪い者に奪われるようになります。神様は、満足して、感謝する者を喜ばれます。

V−終末的神様の裁き−19-23
 「地上の民よ」と呼ばれるくらい、彼らの心は、地にありました。滅びの特徴も地についてです。19-20節。まるで、大きな地震が起きたような姿です。地がゆれるのは、酔った人のようです。地上にあるものだけに人生の意味を持つのは、磐石と思われる大地が揺れ動くように、そのような人生も、揺れ動き、荒れ廃れるのです。
 最後にあらわれる神様の本当の敵は、サタンです。21-22節。最も恐ろしい敵は、サタンです。人が罪を犯すように強制することはできません。ただサタンは、嘘を吐いて、騙して、人が互いに争うようにさせ、裁きを受けるようにさせるのです。人が、自分の気分や感情のままに行動するなら、サタンのペテンにかかり、自ら滅びを招くことになります。サタンに付け入れられ、人々との間に怒りや憎しみを起こします。
 最後の日、その日、神様の栄光が注ぎます。23節。終わりの日、再びイエス様があらわれ、救いが完成されます。すでに、イエス様が十字架上に釘打たれることで、信じるものすべてが救われるようにしてくださいました。イエス様を信じる者にも、同じ罪性がありますが、罪の問題は、十字架によって解決されたのです。今日信じる者に約束された保証は、聖霊です。エペソ1:13。十字架をしっかり握る者は、決して滅びません。主は、信仰で生きる者を決して見捨てることはありません。
 私たちはどのように信仰の確信をするのでしょう。自分を信じないことです。いつも自分の弱さと罪を覚え、いつも主の御力と助けで生きるのです。そうすれば、絶対に滅びることはありません。しかし、地に頼るなら、高慢と自己欺瞞で、世の人々と同じように生きようとすれば、地と一緒に滅ぶだけです。イザヤは、終わりの日は、すべての人の真実の姿があらわになる日だと預言しています。ですから、今!私たちは、恥ずべき姿を主の前にさらけ出し、たましいの治療を受け、新しい人に治されるのです。詩篇32:5。そのために、イエス様が、私たちの罪と滅びを負って十字架にかかられたのですから。Tペテロ2:24。


イザヤ
24:14 彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。24:15 それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。
24:16 私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」
24:17 地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、
24:18 その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。24:19 地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
24:20 地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。
24:21 その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。
24:22 彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。
24:23 月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。


エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

イザヤ6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

エレミヤ9:1 ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。
9:2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。

Tヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

詩篇32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

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