2012年7月8日「賛美と勝利」イザヤ25:1-12
序−この真実の賛美には、神様の救いの御業が告げられ、救いの恵みと祝福が告白されています。ここでは、今私たちに起こっている救いについて語っています。救いは、イエス様が世に来られてすでに始まっています。私たちの人生に大きな変化が始まっているのです。
T−救いの神を褒め称える−1-3
神様の救いを知るようになれば、感激と恐れをもって、賛美が出て来ます。1節。神様は、遠い昔から世を救う計画を立てられて、実行されるという約束をされていました。そして、「まことに、忠実に」救いの計画を実行してくださったので、神様を褒め称えているのです。しかし、彼らは、はじめは賛美できませんでした。救い主が来られ、神様の救いがなされると教えられ、待ち望んでいたのですが、何もしないように見えました。自分たちを忘れてしまったかのように見えたからです。それで、神様を恨んだりもしました。でも、今は計画通りしてくださったので、「私の神」と告白し、賛美しているのです。
どんなことを神様はしてくださった、と神の民は、神様を褒め称えるのでしょうか。2-3節。今目の前に見える幻の場面は、町々が石くれの山とされ、城壁で覆われた都も廃墟にされたのです。すでに、北イスラエルは、アッシリヤに滅ぼされて、奴隷として引かれて行きました。南ユダは、バビロンに捕囚となるという状況です。そのアッシリヤとバビロンが、石くれの山となり、城塞が廃墟になっているのです。
神様が願われることは、単純に奴隷状態や強国支配からの解放ではなく、人々が罪の支配からの解放されて、神様との正しい関係へ立ち返って来ることです。使徒3:19,26:18。人は、罪の奴隷となっています。ローマ6:16。北イスラエルは、アッシリヤによって奴隷の状態になっているのですが、それを通して、もっと本質的な状態を見るようにさせられます。それは、罪の奴隷からの解放を願うようにということです。困難を通して困難だけを見るのは、愚かなことです。牢に入れられて、出ることだけ考えて、なぜ入れられたかをまったく考えないようなものです。
神様は、イスラエルの民が奴隷や捕囚となることで、罪を悟るようにされました。神に立ち返ることに目が開かれるようにされました。この世でもっとも恐ろしいのは、罪です。私たちが経験するすべての悲惨は、罪の副作用の結果なのです。クリスチャンが、罪のことを深刻に考えないことより恐ろしいことはありません。イエス様は、世に来られて、十字架に釘打たれ、死なれました。Tペテロ2:24。救いを願うのに、罪を深刻に考えないのでしょうか。
U−神様の慰めと保護−4-5
神様の目的は、罪に囚われている者がひとりも滅びることがなく、救いを得ることです。ヨハネ3:16。すなわち、神様は、罪人たちをさがして、慰めて、励まされるのです。4-5節。世の横暴な者は、城壁に吹き付ける嵐のようだと言われています。城壁の嵐側にいれば、暴風を避けることはできませんが、反対側にいれば、どんなに暴風が吹いても安全です。
この世で信仰者が生きるということは、貧しさの中で呻吟したり、嵐のような出来事で翻弄されたり、灼熱の砂漠を進むように苦しむ経験をします。ところが、不思議なことに、信仰によって耐えることができるようになるのです。神様が城壁となり、陰となってくださるからです。実際に、ユダの民は、捕囚先のバビロンで守られました。
もし、世において圧迫と攻撃が際限なく私たちにぶつけられるならば、私たちは生き残ることはできません。ところが、神様は私たちが耐えることができるようにしてくださり、脱出の道さえ備えてくださいます。Tコリント10:13。神様が「弱っている者のとりで、貧しい者の悩みの時のとりで、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられた」のです。ですから、私たちは、他のものではなく、神様を我が避け所とするのです。詩篇62:8。
信仰をもって世で生きようとしたら、不利ではないか、攻撃を受けるのではないか、と恐れるかもしれません。けれども、世の人々も、国々も、真実の神様の力を賛美するようになります。3節。重要なことは、クリスチャン自身が、真実に神様を信頼し、真実に信仰に生きることです。信仰があれば、どんな暴風にも、どんな灼熱にも、耐え抜くことができるのです。その真実な確信の姿が、世に対する証しとなります。私たちが平安な時、疎かに思うことは何でしょう。確信をもって信仰を守ることがどれほど大切かということです。教会に通うことだけが、信じていることではありません。弱い者ではあっても、守れられながら、神様を避け所としながら、世の中で嵐の中を、乗り越えて行くことができる、と告白するのが信仰です。Uコリント4:16。
V−救いの祝福−6-8
神様は、救いを受ける民を祝福されます。6-8節。これは、神様が私たちにくださろうとしている豊かな人生です。「この山」とは、地理的なシオンの山ではなく、散らされている人々の中心に立てられている教会を指しています。新約の教会は、そのまま立てられたのではなく、世界に散らされたイスラエルの民が基礎となって、その上に立てられたのです。
豊かな宴会の表現は、イエス・キリストの十字架の死を通して与えられる救いの恵みが豊かだということを言っています。Tペテロ2:9。イエス様の十字架の死は、パンとぶどう酒に象徴され、聖餐式が行なわれます。世に楽しいことは多くありますが、礼拝を通して与えられる聖霊に満たされる喜び、御言葉に養われる楽しさに代わるものはありません。御霊に導かれたクリスチャンの交わりによって与えられる楽しさや喜びに優るものが、どこの宴会にあるでしょうか。ですから、礼拝の生活や信仰生活は、天国の前味だと言われるのです。
イエス様の十字架の前に悔い改めるならば、罪の生活の清算、新しい人生に生きる決断をすることができます。どんなに喜びが大きく、涙があふれることでしょうか。真実な神様の救いに出会うなら、自己中心と自己欺瞞を知らされ、自分の罪の姿を知るようになり、主の御前に悔い改めるようになります。悔い改める民を神様は喜ばれます。信じる者たちが集まる時、神様はそこに臨んでくださり、御霊で満たしてくださいます。神様の臨在を覚えて集まる時、豊かな恵みを享受することができます。
「民を覆っている顔覆い、国を覆っている覆い」とは何でしょう。神様を知ることができないようにしていた無知と迷信です。エペソ4:18。教会の時代には、神様が私たちの顔覆いを取って、神様を知るようにさせ、神の御前に出て行くことができるようにしてくださいました。コロサイ1:22。それだけでも、どんなに大きな恵みとなることでしょうか。
さらに驚くべき宣言をしています。イエス様の救いは、「永久に死を滅ぼされる。」ということです。イエス様の十字架からの復活は、信じる者に天国への命を与えたということです。ですから、肉体の死も、私たちを神様から引き離すことはありません。どんなに大きな恵みでしょうか。死や滅びは、人に深い恐れと悲しみに陥らせます。イエス様の救いは、滅びから解放させ、死に勝利させくださるので、死の恐れと悲しみにある者の「顔から涙を拭って」くださることになります。黙示録7:17。
そして、「ご自分の民へのそしりを除かれる。」と言います。「そしり」とは、過去罪の下にあった時のすべての恥ずかしい生活とその記憶、残っていた罪意識と心の傷のことです。ところが、そのすべての罪意識と心の傷と恥ずかしい記憶とを聖めてくださるのです。すべて洗い落として下さるのです。神の御子イエス様が、私たちの代わりに十字架にかかり、代価を払われたからです。Tコリント6:20。どんなに大きな恵みでしょうか。
W−イエス様の救いに与る信仰生活−9-12
神様が民を救われる時、世の悪の勢力とはどうなるのでしょうか。モアブを例として説明しています。10-12節。モアブという国は、昔からのイスラエルの宿敵であり、妬み、悪行をなし、被害を与え、イスラエルから嫌われた国でした。藁が肥溜めの中で踏みつけられるようにとは、藁が徹底的に腐るようにするのですが、モアブがもう二度と頭をもたげないようにするということです。今日のモアブとは、誰でしょう。世の中でうまく立ち回りながら、神の民の近くにいて、いつもその弱点をあばいて、攻撃している人々です。モアブは、国際情勢を把握して、大国の中を泳ぎまわり、愚直に神様に従い続ける神の民に対して、誇っていました。しかし、神様によって、そのような高ぶりは低められるのです。
処世術は、長続きしません。世の中では、多くの人々が世の中でうまく立ち回り、泳いでいます。結局モアブのようになります。しかし、イエス様の十字架の血潮で洗われた人は、聖霊に導かれて一日一日を生きるようになります。世の潮流を追って行かないでください。世の流れに逆らって、上りましょう。肉の衝動に流されないで、信仰で生きてください。救いの恵みと守りを受けて生きることができます。ですから、「この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ主」と告白します。9節。私たちが世に生まれて以来、捜し求めていた救い主に出会い、立ち返ることができることは、なんと言う恵み、祝福でしょうか。Tペテロ2:24。
イザヤ
25:1 主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
25:2 あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。
25:3 それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。
25:4 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。
25:5 砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押え、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
25:6 万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
25:7 この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、
25:8 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。
25:9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
25:10 主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。
25:11 泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。
25:12 主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。
Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
Tコリント10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
コロサイ1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
黙示録7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
Tペテロ2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。