2012年7月15日「私を守られる主の御名を」イザヤ26:1-10
序−信仰を持った者が、最も困難な思うのは、正しくない者が力を持っていることです。世にあって、クリスチャンは、葛藤を経験しています。不義が世界を覆い、暗い時代であっても、神様を信じて、悪に妥協しない者を、神様は救い出し、守られます。私たちは、純粋な信仰を目指したいのです。
T−義人を守る神様−1-4
神の力と守りが歌われています。苦難が起こった時、この歌を歌って耐えられるようにということでしょうか。1節。これまで、ユダの民は、「真理だけでは、だめだ、力がなければ。だから、イスラエルはアッシリヤに、ユダはバビロンに滅ぼされた。」と失望していたのです。しかしここでは、正しい者が神様の完全な救いを得る、と賛美しています。
いつか、神様は、完璧な城壁と塁でを作ってくださると言っています。どんな城塞でしょうか。以前預言者エリヤの時代、アラムが攻めて来た時、城を取り囲んでいた敵を恐れて、声を上げたゲハジの目を開いてくださいと祈ると、ゲハジは神様の火の馬と火の戦車を見ました。U列王6:17。まさに神様が城壁と塁で守ってくださるというのは、火の馬と火の戦車で守られることです。しかし、罪のためにエルサレムは滅びてしましました。神の民は、罪の性質を徹底的に悔い改めるようなります。そこで、最も安全な城の中に入って行くことになります。私たちは、悔い改めてこそ、神様の避け所に入ることができます。神様のシェルターです。
神様は、民が徹底的に悔い改めて、立ち返る者をその城塞に入れてくれます。これが、救いの城に入ることです。2節。城門を守る者に、門を開いて正しい民を入らせよ、と言っています。ユダやイスラエルは、いつも強大国に囲まれて、攻撃されていました。そのために、義を棄てて、周りの国のようになろうとしたのですが、かえって滅ぶことになりました。神の民は、いけにえをささげることで罪の問題を解決できると考えていたのですが、罪を覚える応急措置でしかなく、徹底的な罪の治療はされませんでした。イエス様が人として来られて、十字架の上で死なれることによって、信じる者たちに罪の赦しと命が与えられました。神の御子が罪人の身代わりに十字架に死なれる以外には、救いの方法はありませんでした。Tペテロ2:24,使徒4:12。
今日驚くべきことは、クリスチャンが罪の問題をあまりにも小さく考えていることです。もし罪の問題が簡単ならば、イエス様が人となって世に来る必要も、十字架に苦しまれる理由もなかったはずです。私たちの内に住む聖霊が、罪の問題の深刻さを悟るように、イエス様に自分を委ねるようにさせます。イエス様を信じるということは、肉の自分を棄てるということです。主の主権、御霊の力で生きてこそ、よく生きることができるのです。
クリスチャンの迷いがあります。果たして御言葉のまま生きて、世の中で豊かな生活を享受できるのだろうか、ということです。心がそちらに向くと、世の価値観の方が良く力あるように見えます。イスラエルのように世の流れに乗った方が利巧だと考えます。神様中心にならず、自分中心を捨てない方が得なように思います。みな、サタンに騙されている、愚かな姿です。
聖書は、それに対して、罪の問題だけ解決されるならば、この世でどんなことに会っても、大丈夫だと言っています。3節。「志の堅固な者」とは、「心の安定した人」という意味です。人が否定的になって離れても、まったく揺さぶられず、神様に「信頼し」続ける人です。神様に心を寄せて、変わらない人です。小賢しくなく、真っ直ぐで、義理堅い人を言います。私たちも、「志の堅固な者」になりたいですね。人々が罪に妥協して安逸を求めても、自分は損な立場になって圧迫を受けても、神様への信頼を持ち続ける人です。 神様は、そのような人をまったき平安で守ってくださいます。
ですから、イザヤは、神様に拠り頼みなさいと言っているのです。4節。私たちは、最後まで神様を信頼し続けなければなりません。救われた者のすることは、これだけです。神様に信頼すれば、神様が自分の磐石となってくださるのです。どんなに安泰なことでしょう。岩の上に人生を立てるなら、安全です。マタイ7:24-25。自分中心が捨てられないで、悔い改めがなく、肉のプライドで生きて行くなら、砂の上に人生を立てています。
U−悪を裁かれる神様−5-7
人は、世の良いものをどれほど多く手中にしているかに関心があります。それだけ世で力を持ち、良く生きることができると思うからです。しかし、神様の御前に重要なことは、どれだけ神様と正しい関係で生きるかということです。神様は、不義の勢力をみな、一掃してしまわれます。5節。神様は、高いところにいる者を低めます。実際にも、権力者や富者は高台に住みますが、高いところに住む者とは、悪者のことを指しています。彼らの城は、崩され、ひっくり返され、塵と土になります。神様を信じる者が最も困難なことは、悪い者が勢力を握っていることです。信じる者の心の中にも、世の罪と妥協して生きようとする誘惑があります。世の価値観の方が利巧であるかのように、騙されます。困難を覚えながら、生きて行くのです。
神様は、高慢な者、不義の者を必ず打たれる方です。悪者同士、権力争いをする時、悪者が除かれるための裁きとなります。6節は、無視され、痛みを受けた者が、富者、権力者たちが投げ捨てられるのを見守っているということです。それを通して悟らされることは、必要以上の富や権力は、不幸になるということです。人に過ぎた権力や富を与えるなら、高慢になり、罪に引かれるようになります。主にあって満ち足りることは、幸いです。
その歩む道は、平安に守られます。7節。「義人」とは、「誠実を守る正しい人、志の堅固な者、主に信頼する者」のことです。2-4節。イエス様を信じて、救われた者のことです。「義人は信仰によって生きる」と言われています。どんなことがあっても、どういう時でも、神様を信じて生きる人です。不義の者、神様に背を向ける者は、悪者と呼ばれています。悪者は、いつも無理な近道をし、強引に自分の道を進みます。たとえば、如才なく世渡りにたけて、富と権力を手にします。それに較べれば、義人は遠回りをするようですが、神様が道を整えてくださいます。私たちの信仰による道は、いつかは、その道が正しい道だったということが知られるようになります。
「神様が道筋をならして平らにされ」というのは、信仰で生きる者が、困難な道を歩んだり、苦しめられたりしても、守られ、その道を通ることができるということです。詩篇91:11。敬虔な者には、突然のさばきということはありません。困難が来る時、神様が必ずすでに備えさせておられるのです。結果、その人は、最も安全な道を行っていることなります。
V−苦難の中でも−8-10
8節は、大変美しい教理を含んでいます。苦難は、正しい者にも起こりますが、それによってもっと神様だけに拠り頼むようにさせられます。「さばきの道」とは、神様が、救われた者の中にある罪の残りを除き取るために、試みられる時なのです。悪者にとって、裁きはさばきのままですが、信仰で生きる人は、苦難を通して戒めを受け、恵みに繋がるのです。神様が私たちを守り導いてくださる生涯のガイドなのだから、世では多くの困難を受けるけれども、忍耐し、事に励むようにと勧めているのです。簡単なスムーズな道に目を向けるのでなく、労苦しながら神様の道を進むのです。
信仰者が、そういう苦難の中でどうやって歩むのでしょう。それは、神様の御名、主の御名を呼び求めてです。神様の御名、ヤッハウェー(4節のヤハは短縮形)には、意味があります。直訳すれば、「自ら存在する者」です。出エジプト3:14。これは、被造物ではなくて、創造主であるという意味です。人が神様の座を占めようとする時、悪の勢力と戦われる時用いられる名称です。ヤッハウェーは、太文字の「主」と訳されていますが、「約束を守られる神」をあらわしています。しもべである神の民の責任を取られるということです。ですから、さばきの道でも、終わりとは考えないのです。主の御名を呼ぶものに、神様は応えてくださらなければならないのです。ヨエル2:32。
私たちが、イエス様の御名を呼ぶならば、必ず守って、助けてくださるのです。9節。「夜」とは、先が見えない暗い苦しい時期を示しています。そのとき絶望に陥らないで、主を慕い求めます。それは、暗さの中にも、必ず意味があることを知り、この世を暗くされたなら、必ず義の太陽を照らされると信じるからです。たとえ闇の中でも、イエス様を信じた者の心には、福音の光があるのです。イエス様は、救いの光です。ヨハネ1:9。重要なことは、イエス様が信じる者の身代わりに十字架にかかったので、罪がないと認める、義人と言うのであって、その人が正しいからではありません。言ってみれば、神の義です。ローマ1:17。義人は、イエス様のゆえに義とされたゆえに、どのような状態でも主を慕い求める人なのです。詩篇70:4。
しかし、不義の者は、裁きの道で神様が恩寵を下されても、義を学ぶつもりはありません。10節。悪人は、深い憐れみに接しても、神様を恐れたり、悔い改めたりはしないのです。クリスチャンが、罪を簡単に考え、神を恐れず、悔い改めないことは、危険なことです。イエス様の十字架でしか、罪を解決する方法はありません。重要なことは、イエス様を信じて、救い主として心の王座に迎え入れていることです。そうするなら、神様の磐石の上で生きることになります。罪と妥協しないで、圧迫や損害も甘んじて受け、苦難の中でも、神様を慕い求め、主の御名を呼び求めるのです。詩篇69:30。これが試練に打ち勝ち、誘惑に陥らない方法です。神様が、火の城壁で取り囲んで、永遠に守ってくださいます。U列王6:17。
イザヤ
26:1 その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
26:2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。
26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。
26:4 いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
26:5 主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。
26:6 貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。
26:7 義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。
26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。
26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。
26:10 悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。
U列王6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
使徒4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
詩篇91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
ヨエル2:32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。
ローマ1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
詩篇70:4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。69:30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。