2012年7月29日「ぶどう園の歌、実を結ぶ人生」イザヤ27:1-13
              
序−神様の恵みの深さをこれでもかと感じさせる賛美です。神の民は国の滅亡と捕囚という大きな患難を体験しました。クリスチャンも人生において様々な患難を経験します。しかし、それで終わりではなく、神様に見捨てられたわけでもなく、それを踏まえた恵みが備えられているのです。

T−恐ろしい怪物のような罪に飲み込まれて−1
 昔の人々は、海には恐ろしい怪物がいて、人や船を襲うと考えていました。その名前がレビヤタンです。社会契約論を説いたホッブスの著書の題名「リヴァイヤサン」としても、有名です。蛇とか竜とか言われているレビヤタンを神様が剣で殺すと言われるのです。1節。大事なのは、神話や伝説に出て来る名前を使って伝えるメッセージの中身です。
 アッシリヤやバビロンのような具体的な悪い国、悪辣な支配者を指しているでしょうが、そのような国を背後で支配する悪い霊の存在があります。サタンと呼ばれる悪の勢力です。黙示録に竜の言及がありますが、その正体は、サタンだと提起しています。黙示録12:9,20:2。
 人の罪が、サタンの囚われ人にさせています。患難に会うということは、レビヤタンに呑み込まれるようなものです。私たちには、自分で解くことのできない多くの問題があります。人が自分の力で竜の腹から出て来ることはできません。ヨナの話を思い出して下さい。ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日間お腹の中にいました。そこで古い自分は死んで、神様の御言葉に従順なヨナに生まれ変わっています。ヨナは、魚の腹の中で、神様の御言葉を思い出し、悔い改めました。
 イエス様の十字架の死と復活の型と言われています。神様が用意された救いの道がイエス様です。私たちも、日々古い自分に死んで、神様に全面的に拠り頼み、神様の御言葉に聞き従うなら、救い出されるのです。レビヤタンは、人の造った伝説ですが、神様はこのようなものを用いて、人の罪からの解放を教えておられるのです。怪物は外からだけではありません。罪に翻弄されるなら、怪物は人々の心の中にも生じます。神様の哀れみと救いがなければ、私たちは恐ろしい怪物になりうるのです。大魚の腹の中で悔い改めて祈ったヨナのような悔い改めが必要です。

U−ぶどう園の歌、神の慈しみと憐れみの深さ−2-6
 患難から解放と恵みが、ブドウ園の歌として賛美されています。2-3節。聖書は、神の民をぶどうの木に譬えています。植物を育てている人は、実るために手間をかけ、丹精を込めます。農夫である神様も、そのようにしてくださるというのです。ヨハネ15:1。見捨ててないどころか、こんなにも、慈しんで下さるのです。いつも御霊を注ぎ、御言葉で養い、麗しい人生を過ごすようにして下さるのです。私たちも、神様の御言葉に聞き従い、主に拠り頼んで行く時、世では経験することのできない生き生きとした人生となるのです。神様はいつも見守ってくださり、その時に応じて必要なことを備えてくださいます。
 ブドウと言えば、ブドウの木や花が観賞されることはありません。農民が果樹を栽培する目的は、その実がなることです。同じく、神様が願われたのは、ただ霊的実だけ、造り変えられた人生です。変えられた新しい信仰生活の姿でした。神の民も、世に押し立てるものがなくても、御言葉による信仰生活を通して、味わいのある美しい人生を作り出すのです。麗しいブドウの園のような人生となります。
 ブドウ園で恐ろしいものは、外から来るレビヤタンのような怪物ではありません。4節。ブドウ畑を台無しにするのは、外にあるのでなく、畑の内にあります。いばらや雑草です。世の惑わしや罪の問題です。ブドウの実りを妨げます。雑草は抜くしかありません。
 神様がその民に求めることは、もっぱら実を結ぶことです。信仰の実とは、霊的変化のある人生です。考えが変わって、関係が変わり、人格が変わります。御霊の実が実るのです。ガラテヤ5:22-23。ブドウが実るためには、刈り込みをするそうです。試練を通して欲心が死んで、肉の思いを棄てるようになるのです。イエス様は、もっと実を結ぶために、刈り込みをされると言われました。ヨハネ15:2。
 神様が神の民に求められることは、神様との正しい関係です。5-6節。世の力に頼るのでなく、ただ神様の哀れみと救いに頼ることです。これが、神様との和解です。コロサイ1:20。「わたしのとりでに頼りたければ」と言われてしまう私たちです。私たちの方で罪に囚われて、自分の力、世の方法に頼って、神様に背を向けて他に向いてしまうからです。突き放されたかのように思えても、従って行きます。涙を流して、放蕩息子のように立ち返って行くのです。そのようにする時、私たちのうちにある罪の根が抜けるようになって、新しい命の信仰が芽吹き、麗しい信仰生活の花が咲き、信仰の実を結ぶようになるのです。神様が私たちに望まれることは、世に成功することではなくて、変えられた命、美しい実りある人生です。それは、神様と和解して、自分を委ねる時に始まります。
 神の民に対する神様の忍耐、慈しみ、そのふところの深さに感嘆します。ですから、神様に誠実でなければなりません。そうすれば、神様が働いてくださいます。外の悪の勢力や内なる腐敗がある中で、賛美されるブドウ園が作られます。これが、神様の御力です。ただ神様だけに拠り頼むなら、悪の巣窟でも、美しいブドウの実を結ばせることができるのです。

V−回復される神の民−7-13
 今ユダの民は、こんなにも慈しみ深い、憐れみ深い神様の御心を知らず、アッシリヤやバビロンによって苦しめられ、滅んでしまいました。ブドウ園は、棄てられてしまったのでしょうか。患難と試練でたたかれ、再起不能にされたのでしょうか。7-8節。いいえ、ユダの民が打たれるとしても、アッシリヤやバビロンを打つようにはなさいません。ユダの民を痛めつけたアッシリヤやバビロンは、徹底的に滅ぼされました。しかし、神の民の患難には、憐れみと恵みの回復があります。反語表現は、それを強調しています。「そんなに痛めつけるだろうか、いいえ、されません!」
 神様は、良く実るために刈り込みをされます。神様の戒めは、ちょうどよく譴責です。耐えられるように、脱出の道も用意して、患難に会わされるのです。Tコリント10:13。とても生きていけないと思うのですが、じっさいには、耐えることができるようにしてくださるのです。神様の慈しみと忍耐に、心が揺さぶられます。救われていて良かったと賛美します。
 神様は何と言われますか。9節。バビロン捕囚を通して、過去の罪との関係を断ち切らせるのです。口では離れると言いながら、離れられないのが罪の性質です。ですから、ユダの民が70年間バビロン捕囚になっていたのは、ユダでのアシェラ像などの偶像崇拝から引き離すためでした。彼らの回復のためでした。歳月が必要だったのです。私たちも同じでしょう。主よ主よと言うのに、願うようにしてくれないのかと不平を言います。そのような場合、私たちの中に欲心が残っているのです。徹底的に罪との関係を断ち切り、過去と断絶が必要です。
 城壁のある町エルサレムは廃墟となって、牧場となってしまいます。10-11節。なぜ、そのようにするのでしょう。前もって悔い改め、主に立ち返っていれば、そうならなかったのですが、神様が強制的に彼らの拠り頼む「城壁のある町」を廃墟にされたのです。民自身が、欲心を抑制することができないので、民が神様に立ち返り安息を得る時を、神様が与えられたのです。休みたくなくて病気になれば、結局は休まざるを得なくなります。ここで重要なことは、民自身の罪の姿に覚がなかった、ということです。なぜ、レビヤタンのような怪物が登場するのでしょうか。私たちが、御言葉に従順であって、古い肉の自分に死んでいるならば、このような患難の日を見ることはなかったのではないでしょうか。事実は、そうできなかったからです。
 しかし、それは、ユダの民を棄てることはなさいませんでした。12-13節。昔、木を揺すってその実を落として、川に浮いた実を広い集めたそうです。そのように神の民を取り扱われるというのです。アッシリヤの奴隷となって引かれて行ったり、バビロンの捕囚として連れて行かれたりしたのは、信仰が新しくされて回復されるためだと歌っているのです。詩は、意味がわかれば、かえって印象が強くなりますね。
 私たちも、神の民と同じです。人生の嵐に会い、罪のゆえの患難に出会い、急流にもまれているようです。しかし、絶望でもなく、見捨てられたのでもありません。そこから救い上げられるのです。いつも、神様の御前に立ち返りましょう。罪の恐ろしさに気付くようになります。どんなに自分が自己中心で、高慢であったかを悟るようになります。
 結局、神様がバビロンを通して、慈しみと憐れみ深い救いを世界に広められたのです。ユダの民がバビロン捕囚という患難を経験して、その新たにされた信仰をブドウ畑のように広めるのです。神様のなさることに失敗はありません。私たちが罪に翻弄されたり、放蕩息子のようになったりすることさえ、神様の恵みの回復への過程とされるのです。このぶどう園の歌は、神様の深い憐れみと慈しみ、忍耐に圧倒されながら、回復の感動と悔い改めの涙で賛美する歌です。私たちも歌うことができます。なぜなら、イエス様の十字架を信じて、救われているからです。使徒3:19-20。


イザヤ
27:1 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。
27:2 その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。
27:3 わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。
27:4 わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
27:5 しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
27:6 時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。
27:7 主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。
27:8 あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。
27:9 それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。
27:10 城壁のある町は、ひとり寂しく、ほうっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。
27:11 その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。
27:12 その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。
27:13 その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。


黙示録12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、

ヨハネ15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

コロサイ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

Tコリント10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

使徒3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
3:20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

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