2012年8月5日「御言葉に聞き従って、憩いと休息を」イザヤ28:1-13
序−御言葉は、時代を超えて、今の私たちに語りかけています。私たちの姿を知っているかのように、いや、知っているから、語りかけてくださるのです。今の私たちに必要だからです。聞く私たちも、謙遜になって、素直に自分への語りかけとして聞きましょう。
T−酔いどれとなった高慢な民−1-4
この言葉が告げられた時期は、北イスラエルのサマリヤが滅びる前の時代と思われます。1節。北イスラエルの中心部族はエフライムでした。その首都サマリヤは豊かな土地を見下ろす丘の上に築かれた美しい城でした。彼らの誇りの冠、花でした。しかし、その中では、酔っ払いで満ちていました。人、喧嘩や不埒な行いをする者でいっぱいでした。サマリヤは、「しぼんで行く花」となっています。どれほど文化が花咲き、経済的に豊かだとしても、道徳性が廃れ、精神が堕落したならば、しぼんだ花なのです。
では、なぜ彼らは酔っ払いになったのでしょうか。それまで続いていた困難が、急になくなったからです。患難がなくなって平安になると、緊張が解け、精神のたがが外れ、欲心の思うままになってしまったのです。宴会が続き、酔いどれ状態になりました。私たちが気を付けなければならないのは、事が急にうまく行く時です。御言葉に聞き従っていなくても、事が思いのまま進む時、かえって気を付けなければなりません。
サマリヤの滅びを描写されています。2節。大きな雹が降り注ぐように破壊され、豪雨が激しく押し流すように一掃されるというのです。神様が押し流してしまうのは、悔い改めない高慢、傲慢な者です。謙遜な者は、悔い改めて、神様に立ち返って来るので、回復されます。酔いどれのサマリヤは、滅びに向かって行きました。頑迷な彼らは、肉のプライドを持っていました。神様のさばきは、それを踏みにじられるのです。3-4節。「夏前の初なりのいちじくの実」とは、秋の実りの前になる初夏の初なりの実のことで、大変美味だったので、発見した人はすぐ取って食べてしまいます。そのように、酔いどれのサマリヤは、あっという間に敵にやられてしまうのです。
彼らは、良い地に住んでいたけれども、精神を守る力がまったくありませんでした。どんな小さな国でも、精神が正しくしっかりしていれば、簡単に倒されることはありません。酔っ払いのサマリヤは、簡単に外敵に倒されてしまいました。神様を味方とできるのは、自分に不足し、弱さのある者です。神様が哀れんでくださるからです。神様の御前に立つならば、とても足りない恥ずかしい姿であることを悟らされます。足りない自分だから、神様に求めるのです。御言葉がなければ、私たちは自己満足に陥るのでしょう。サマリヤは、我々は頑張った、事は収まったのだから、飲んで酔うべきだとなったようです。
U−ユダの祝福と堕落−5-8
一方、滅びから残される者には、神様が彼らの冠となってくださいます。5節。「民の残りの者」とは、悔い改めて神様に立ち返り、神様に最後まで信頼する者のことです。私たちがそういうクリスチャンであるなら、神様は私たち一人一人の冠となってくださるというのです。ここに、二種類の神の民を見ることができます。一つは、酒に酔う民です。酒に酔っているということは、酒で満たされ、自己満足に陥っているということです。自分に足りないものはない、成功したと思っています。黙示録3:17。
もう一つは、残りの者です。彼らは、自分には神様以外は何もないと悟る者です。これまでしたことも、神様が備えて、させてくださったにすぎないと知る人です。この人たちは、肉の自分を信じません。クリスチャンなのに、何と多くの人が、神様を信じないで、自分を信じているでしょうか。不安や恐れが尽きないのも、そのためです。
私たちは、どのようにして自分の足りなさや悲惨を知るのでしょうか。御言葉を通して知り、様々な失敗や逆境を通して知らされます。それで、自分の持っているものを信じるのではなく、神様に拠り頼むのです。神様が力を与え、心を新しくしてくださいます。不思議に世で守られ、働きも祝され、良い関係が与えられ、麗しい人生を歩むようになります。
どんな力を与えてくださるのでしょう。6節。一つは、さばきの霊となってくださる、つまり、責任を担う者に分別力、見分ける力を与えてくださるのです。罪の人は、自分に有利に考えて、嘘を言います。霊的分別力をもって対処するならば、実体を知り、騙されることはありません。もう一つは、攻撃して来る敵を追い払う力です。敵は、攻め寄せて来る問題や困難です。力のない者には御霊が力となってくださり、知恵の不足した者には知恵を与えてくださいます。助けてくれる人を備えてくださいます。
酔いどれのサマリヤの滅びを見たユダの民なのに、ユダも、酷い酔いどれになったのです。7-8節。酒が体の自由を奪い、判断力を鈍らせ、仕事はできず、酷い姿となりました。なぜ酔いどれに。競争相手がいなくなったためです。サマリヤはユダよりは強い国でしたが、信仰がありませんでした。彼らのようになるまいと対抗して、信仰に生きたのです。しかし、サマリヤがいなくなると、信仰に満たされないで、酔いどれになってしまったのです。酒に酔うなら、この民のように放蕩があるだけです。私たちは、酒に満たされるのではなくて、御霊に満たされて生きるように命じられています。エペソ5:18。
もう一つの理由は、物質的に急に豊かになったためです。サマリヤの滅亡は、ユダに富をもたらし、繁栄するようになりました。すると、霊的緊張が緩んで自己満足に陥り、支配者たちから、酔いどれになっていました。彼らは、神様を恐れないで、自分の力を信じたのでした。
V−御言葉を知識、教訓とした愚かな民−9-13
結局、彼らが神様の御言葉に生きなかったことが、ユダの放縦の原因でした。9節。これは、御言葉をよく知っているために、大人たちは学ぶ必要がない、乳離れしたくらいの子供が学べばいい、という意味のようです。これは、神様の御言葉を無視した言い方です。祭司や預言者が、幼い子供に聞かせるような物語的な知識だけ教えて、神様のご計画や導きに聞き従うということは教えなかったのです。大人になっても、「その話は知っている」から抜け出していなかったのです。
なぜでしょう。最も重要なことは、御言葉を教える者たちが、御言葉を信じていなかったためです。神様の御言葉の中にすべてがあると信じていたなら、危急の時にも御言葉に聞き従い、涙をもって悔い改め、神様に立ち返って来るでしょう。ところが、教える者たちが、御言葉を教訓程度しか考えていなかったので、御言葉は真理とならなかったのです。御言葉の適用を教えられなかった民の方でも、御言葉でもって自分たちを判断することができませんでした。
このようなことは、現代のクリスチャンにも見られることです。今日多くのクリスチャンが、聖書の知識はあっても、御言葉によって生きることは知らないのです。自分の思いに合う御言葉だけ受けているのです。10節をみれば、祭司や預言者が、まったく御言葉に聞き従うことを教えなかったことが分ります。「戒めには戒め…、規則には規則…」とは、御言葉が戒めや規則を知識としてだけ教えたということです。酔っ払いが、「十戒は知ってますよ。ムニャムニャ」のように、言っていたのでしょう。
預言者のするべきことは、神様の御心をそのまま伝えなければならないのに、そうしなかったのです。なぜでしょう。民が神様の御言葉を負担に思うから、聞き従うことを言えば民の受けが悪いからです。誰かが「あなた方は変わる必要はありません。知識として聞くだけでいいです」と言ってくれるなら、とてもいいと受け止めるのです。御言葉は、私たち自身が変わることを求めます。それを捨てたら、何も残らなくなるのではないでしょうか。神様は私たちを変えようとされるのに、肉の人は変わりたくない、と御言葉に聞き従うことを拒むのです。
福音が広がらないのは、ここに原因があります。生きて力ある御言葉を、そのまま伝えていないです。「教訓に教訓、律法に律法」というふうに知識として教えられています。御言葉が生きて働いてその人を変えるなどということがないからです。信仰で生きるわけではなく、行事として礼拝をささげるのです。それでは、伝わるものがありません。
彼らの御言葉に対する姿勢が、滅びを引き寄せます。11-12節。「もつれた舌で、外国のことばで語られる」とは、御言葉に聞き従わなかったために滅ぼされて、外国に支配されることを酔っ払いに言っているようです。神様の御言葉こそが彼らにとって本当の「憩い、休息」となるのです。御言葉が彼らを治療して、たましいの平安を与えるからです。酒に酔うことでは、たましいの「憩いや休息」は得られません。
神様は、彼らの言い方を真似て言われます。13節。御言葉を重要に考えないならば、拠り頼むものがなくなって、ひどく倒れてしまうだけだと言われるのです。神様は、無理やり信じさせたり、無理強いされたりしません。イザヤの時代と今も同じです。悔い改めてイエス様の十字架のみわざを信じるなら、救われて、罪赦されて、たましいに憩いと安息が訪れます。私たちが、御言葉を知っているだけでなく、御言葉に聞き従って生きるなら、本当のたましいの安らぎと平安が与えられます。ヨハネ8:47。
イザヤ
28:1 ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。
28:2 見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。
28:3 エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、
28:4 肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手に取って、すぐのみこんでしまう。
28:5 その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、
28:6 さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者にとって、力となられる。
28:7 しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。
28:8 どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。
28:9 「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。
28:10 彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」
28:11 まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。
28:12 主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。
28:13 主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕えられるためである。
エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
ヨハネ8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」