はかりごと          おもんぱか
2012年8月12日「その謀は奇しく、その慮りは素晴らしい」イザヤ28:14-29
              
序−私たちは、様々なことに出合い、自分の考えで判断して、悩んだり、心配したりします。自分の頭だけで事を判断し、策を練り、言動に及びます。それが、どんなに愚かで危険なことか、ユダの指導者の姿を通して教えられます。では、一体何をもって考え、何に頼ればいいのでしょうか。

T− 死の契約と命の契約−
 傲慢なエルサレムの指導者たちに対して、神様はこう言われます。14節。サマリヤのように酔いどれになって、大声をあげている指導者たちは、神様の民を物笑いの種にしているのです。神様を信じていると自任しながら、都合の良いところだけ信じているのです。神様は、私たちが御言葉を聞いて、深く反応することを願っておられます。私たちが御言葉を聞いた後、涙を流したり、喜んだりする反応をご覧になられて、喜ばれるのです。しかし、エルサレムの信仰は、サマリヤ滅亡後急速に、サマリヤ化して行きました。邪魔者がいなくなり、思うままになったからです。
 彼らは、神様の導きを静かに待つのでなく、自分たちの思いに駆られて、いろいろ策を弄しました。御言葉よりも、自分の考えや判断を重視したのです。15節。エルサレムの指導者たちは、神様に拠り頼むより、エジプトに頼った方がより現実的だと考えたのです。なぜ、エジプトとの同盟を「死と同盟を結んだ」と言っているのでしょうか。大国と弱小国が同盟を結ぶ場合、弱小国が大国に保護してもらう代わりに、命をかけて従わなければなりません。破れば、大国に滅ばされてしまいます。しかし、イザヤは、神様に拠り頼まないでエジプトを頼みとしたことが、滅びに向かうので、死の同盟だと言っているようです。
 私たちが、試練と患難を経験する時と似ています。患難が近づくと、人間的な方法で懸命に逃れの道を探します。絶対的に神様の御力を信じることができない人は、神様だけに拠り頼むなんて、愚かだと考えるのです。こうして、御言葉よりも、人の言葉や世の物にすべてをかけるのです。神様は、人を通して助けてくださる時も多いですが、神様を信頼しないで人の言葉や物に命をかけるのは、愚かなことです。指導者たちは、「まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきた」と言っていますが、権謀術策でアッシリヤの攻撃を防ぐことができると考えていました。エジプトと同盟を結びながら、アッシリヤにも従うそぶりをしていたのです。これが、人の知恵です。世の中では、このような姿をよく見ます。しかし、このような姿では患難を乗り越えることができません。あまりにも不安定です。
 しかし、神様に拠り頼むなら、磐石です。16節。「試みを経た石」とは、耐久性確認済みの石のことです。建築では、礎石が重要です。「シオンに堅く据えられた礎石」とは、イエス様のことです。Tペテロ2:4,6。命の担保を求めるエジプトのような死の契約ではなくて、何と!救い主が自らの死をもって私たちの命を助けてくださる命の契約です。滅ぶべき私たちの命の身代わりとなって、神の御子イエス様が十字架にかかってくださったのです。あなたの人生の礎石は何ですか。イエス様に、人生の礎をおくならば、あなたの人生は磐石です。

U−世に拠り頼む結果と−18-22
 私たちは、神様を人生の基礎として生きなければなりません。神様と固く結びつかないで、神様から離れたりすることは、砂の上に家を建てるようなものです。患難の中で残ることはできません。17節。石のような雹が降って、洪水が押し寄せれば、避け所は一層され、隠れ家は押し流されます。人生が、そのようになるということです。
 神様が民に願っていることは、私たちが御言葉を適当につまみ食いすることではなく、御言葉の原則に徹底して生きることです。「公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする」とは、そういうことです。建築基準に従わない建物は、歪んで倒れてしまいます。状況がどうであろうと、イエス様に拠り頼むことです。今私たちの信仰生活は、どうでしょう。肉の思いや世の流れではなく、イエス様を基準としていますか。神様は、私たちが、「自分の…」、「自分が…」を抜け出すことを願っておられます。
 エルサレムがアッシリヤの攻撃に生き残ったのは、神の民の信仰が機能していたからです。しかし、今サマリヤの姿に倣って、自己満足と自己陶酔に陥っています。エジプトの同盟の結果は、どうでしょう。18節。「にわか水があふれ、越えて」来るのです。にわか水は、集中豪雨のような一時期のものですが、繰り返し来ることです。困難や災いが継続して押し寄せるならば、とても耐えることができません。神の民が生き残る道は、ただ一つしかありません。イエス様にすべての焦点を合わせるのです。世を取るのか、イエス様を取るのか。私たちが世を信じるなら、御言葉が非現実的に聞こえるでしょう。
 死の契約とは、最後まで世をつかんでいることです。世の権力や富を信じていることです。19節。神様に信頼を置かないなら、患難の中で朝ごとに憂いを覚えるでしょう。災難が来る時、エルサレムは避難所となることができません。神様が彼らを喜ばないので、保護されないからです。それは「恐ろしい」のです。神様に全体的な信頼を置かないなら、不安や恐れは尽きることはありません。20節。世の助けはあるんですが、それが十分だとはなりません。体を伸ばすことができないベットや体をおおうことができない毛布は、使い道がないという諺を使って説明しています。
 昔神様が、神の敵を倒したように、神の民をさばくと警告されています。21節。ペラツィム山とギブオンの谷、どちらも古戦場跡です。T歴代14:11。神様が神の民の敵を打たれたところです。だから、もう神様は必要ないなどとあざけりを言うな、と神様は言われます。22節。嘲りを続けるなら、枷をきつくすると言われます。手が縛られたら、逃げることはできません。最後まで精神を整えることができなくて、高慢であるなら、さばかれるというのです。

V−多様な神様の方法−23-29
 しかし、裁きの背後に神様の救いの計画があります。神様は、注意して聞きなさいと言って、譬えもって語っておられます。23-25節。作物は、ばらばらに種を撒くものもあれば、畝を作って苗を植えるものもあります。ウイキョウやクミンは種を撒き、小麦の種は畝を作って植え、大麦は一定の区域に植え、どこでも育つ裸麦は畑のヘリに植えたようです。私たちは、作物のようなものです。神様の御言葉と愛によって育てられます。
 このように、作物の特性に従って方法が違っています。それで、実るようになるのです。神様は、このように、一人一人をそれぞれ違って取り扱ってくださると言われるのです。人と比べないでください。神様にとって大切な人は、どんな誰でしょうか。恐れをもって神の御前に出て、拠り頼んで生きようとする人です。愚かにも、人々は自分の願うままにならないと、神様は自分を愛してくれず、自分を捨てられたと考えるのです。しかし、神様は決して見捨てることはなさいません。Uコリント4:8-10。むしろ愛してくださっておられるので、そのようにされるのです。
 農夫は、畑を耕すだけはしません。耕したら、必ずそこに種を撒きます。これは、神様は、その民に労苦だけ与えることはされません。種を撒くなら、収穫の望みがあります。収穫のために畑を耕し、種を撒くのです。イエス様を通して救ってくださった私たちを、神様はその救いをまっとうしてくださいます。ピリピ1:6。
 ですから、収穫した後も整えてくださいます。27-28節。脱穀の方法も、植物の種類にしたがって違います。神様は、一人一人の体質をよくご存知です。弱い器を強く戒めることはなさいません。ウイキョウとクミンをゴマのようなものだとします。脱穀機で打ったり脱穀車を回したりすれば、すべて砕けるか飛び散ってしまいます。しかし、手にとって棒で打てば、綺麗に皮が取れるでしょう。小麦ならば、脱穀機や脱穀車がいいのです。
 我が強い人もいれば、気が弱い人もいます。我が強い人は、苦難を少し強く受けるかもしれません。それでも、耐えられない試練には会わせません。Tコリント10:13。馬の蹄で踏みつけられ、脱穀車で轢かれたとしても、むしろ、用いられる粉になるのです。後に神様の御手にある者は、労苦してなお尊く用いられるのです。しかし、そうでない者は、脱穀を通して消滅してしまうというのです。
 私たちは、脱穀されるのでなければ、食べられる穀物にならないのでしょうか。私たちの内に罪の性質がある限り、いつも困難が訪れるのです。しかし、苦難に会うたびに、御言葉に聞き、自分を省みるなら、ちゃんと粉になることができます。労苦するならば、まさに身を粉にして労苦しましょう。砕かれば砕かれるほど、私たちは謙遜な者となり、神様の美しい作品となるのです。
 神様は、様々な出来事を通して多くのことを悟らせます。29節。人生の一つ一つの出来事に神様の深いご計画があり、主の深い哀れみと愛の取り扱いがあります。人生の問題や患難を信仰で悟るならば、私たちは、苦難や問題に立ち向かって行くことができます。御言葉を自分に適用するなら、私たちは、良く整えられ、導かれ、豊かな人生の実を結び、主に用いられる人生となるのです。真摯に御言葉に聞き従い、神様に拠り頼んで行くこと、これが私たちの生きる道です。エレミヤ29:11。


イザヤ
28:14 それゆえ、あざける者たち――エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。
28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
28:17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。
28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。
28:19 それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」
28:20 寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。
28:21 実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行なわれる。そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。
28:22 だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。
28:23 あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。
28:24 農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。
28:25 その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。
28:26 農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。
28:27 ういきょうは打穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪を回さない。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるからである。
28:28 パンのための麦は砕かれない。打穀をいつまでも続けることがないからだ。脱穀車の車輪を回しても、馬がこれを砕きはしない。
28:29 これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。


Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

Tコリント3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

Tコリント10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

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