2012年8月19日「封じられた書物のように」イザヤ29:1-12
              
序−人のもっとも難しいことは、問題の元が自分にあると気付かず、問題や人ばかり見ている姿です。私たちも、自分自身の姿を自分で気付くことはできない場合が多いです。ですから、御言葉を通して気付かされるのです。謙遜に気付きたいのです。

T−ああエルサレム、悲しいアリエル−1-4
 冒頭、「ああ」と嘆く場面が出て来ます。1-2節。「ダビデの都」はエルサレムです。なぜ、エルサレムを「アリエル」と呼んでいるのでしょう。普通アリエルとは、「祭壇の炉」と訳されています。2節。祭壇の炉と言えば、罪の赦しを求めて、犠牲をささげる所です。神殿は、罪の赦しを受ける場所です。つまりエルサレムがそういう場所だということを強調しています。教会をどのような場所と思っておられますか。まさに、教会とは、アリエルなのです。
 「ああ」と、エルサレムを嘆いています。エルサレムは、民が神様の御前に悔い改め、罪の赦しを受け、新しい人にされる場所なのに、むしろもっと悪くなり罪が生じる所となっていたからです。病気を治療する所が病院なのに、そこで死に至る病気にかかってしまうようなものです。教会も、人々が罪を悟り、悔い改め、神様から罪の赦しを受ける所です。エルサレムのようになったなら、それは教会ではなくなってしまいます。
 エルサレムは、ダビデが戦って得た都だと言っていますが、いつも神様に従っていた王で、それで都は神様の守りの中にありました。ところが、今エルサレムは、自分たちの力でアッシリヤを退けたと考えているのです。ダビデの信仰は継承されず、今彼らは、傲慢になっています。これまでは、悔い改めて神様の御前に出て行く、という祭壇の働きが機能していました。しかし、罪の治療どころか、罪を犯す所となったエルサレムは、祭壇の炉で燃やされるものとなるというのです。これは、私たちへの戒めです。
 人が欲心のある罪人であることを神様はご存知です。ただ、民がその罪を認めて、悔い改めて、立ち返って来ることを願われるのです。ダビデ王は、まさにそういう人でした。多くの欠けがあり、罪を犯した人でしたが、従順になって神様の御前に立ち返り、悔い改めて、赦しを得た人でした。詩篇51:17。エルサレムが神様を恐れて生きるなら、そのような悲惨なことにはならなかったでしょう。どんなに強い敵が攻めて来ても、祭壇の機能を維持していれば、罪を悔いて神様に立ち返っていたのなら、悲しいアリエルになることはなかったのです。
 他の民族が攻めて来て、エルサレムを取り囲みます。3-4節。そして、人々が深い絶望に陥って、死んだようになるということです。たましいが抜けたようになり、一人でつぶやくのです。そのとき、神様の声を聞くことができなくなります。聞かされても、聞こえない、御言葉を読まなくなるのです。これが、神様を恐れない者の恐ろしい結果です。私たちの生きる道は、教会の祭壇の機能を働かせることです。色々な出来事を通して神様が私たちに願われるのは、今正しい信仰に立ち返りなさいということです。神様の御前に悔い改めて、真実な信仰に生きるようにさせる祭壇の機能を守らなければなりません。

U−エルサレムの敵の破壊−5-8
 神様は、敵が取り囲むようにさせても、もう一方では、その敵を滅ぼされると言われました。5-7節。これが、神の愛です。神様は、神の民を虐げる敵をいつでも滅ぼすことができる、吹き飛ばされるもみがらのようにして退かせる、と約束されました。なぜ、そうされるのでしょう。エルサレムが正しい信仰に立ち返るのを期待しておられるからです。神様は、私たちが問題や人ばかり見ていないで、悔い改めて、神の御前に立ち返って来る事を望まれるからです。問題を嘆いたり、敵を憎んだりするのでなく、それはわたしに委ねなさいということです。ローマ12:19。
 私たちを患難の中におかれたとしても、一方ではそれを解決できるつむじ風と暴風を神様は用意しておられるのです。しかし、往々にして、神様が用意しておられるものが、私たちに見えないのです。かえって、恐ろしい患難や厳しい敵ばかりが見えるのです。神様が味方なのだから、恐れるな、固く拠り頼めとおっしゃるのです。ローマ8:31。
 神の民の中には、神様が愛してくださらないので、困難をくださったと考え、世に向いてしまう人がいます。しかし、困難がもっと大きくなるのです。患難の中にも、必ず神様の御心があります。エレミヤ29:11。その中で神様に会うことができます。神様は、号令によって困難を退けられる方です。それで、虐げる者は夢か幻だったかのようにさっと退けられるのです。
 真夏の夜に恐ろしい夢を見るのは、どうしてでしょう。蒸し蒸しして寝苦しい夜だからでしょう。8節。お腹が空いて寝るならば、食べる夢を見るものです。皆さんは、どんな夢を見ますか。エルサレムを攻撃する者たちは、夢見が悪いというのです。不思議なことに、クリスチャンや教会を攻撃する人の心の中には、攻撃した後には心の平安がなく、満足することができないのです。
 勿論、エルサレムは、自分の高慢のために戒めを受けています。しかし、そのエルサレムを攻撃する者は、エルサレムよりももっと酷くされるのです。彼らが高慢になって、神様の民を苦しめ、神の子供とされた者を痛め付けているからです。いつまでも問題を悩んだり、攻撃する者を恨んだりしてはなりません。神様が彼らを何とかされます。私たちは、悔い改めて、主に立ち返ればいいのです。

V−民が選んだこと、民の愚かさ−9-12
 ユダがこのようになったのは、ユダ自身の選択でした。9節。ただ、エルサレムの人々は、自分たちに問題があるということに気付くことができないことが、問題でした。「驚け。目が見えなくなれ。」と言っていますが、彼ら自身の頑なさ心のために、霊のまなこが閉じられていたのです。押し寄せる敵を前に、エルサレムの民は、心は不安と恐れでいっぱいでした。酔ったようにふらふらしています。
 彼らの心が暗くなっています。10節。神様が、彼らを眠りに着かせられたのです。信仰的なクリスチャンなら、神様との関係が良くないならば、心が不安になります。何をしても、手につかなくなります。その時、ただ神様の御前に心のままをさらけ出して、悔い改めます。心聖くされて、喜びを回復され、平安になります。しかし、頑なであれば、神様から心離れても、罪を犯しながら、平気なのです。なぜでしょう。神様が深い眠りに落とされためです。患難が起きても、まったく悟ることがありません。たましいへのサイレンが聞こえないためです。
 「あなたがたの目は先見者を閉じ、頭は預言者たちをおおう」というのは、彼らが伝える御言葉を理解することも、その御業を見ることもできないということです。なぜ、神様がそのようにされるのでしょう。御言葉を悟ろうとし、御言葉に従おうとする者には、御言葉が開かれて、神様がもっと深い理解を与えてくださいますが、御言葉に聞き従いたくないなら、罪で覆われているなら、神様はその人から御言葉を取り上げてしまわれるのです。神の民が信仰で生きようとしないなら、その信仰を取り上げてしまうというのです。勿論信仰で生きようとすれば、ますますそうなります。
 御言葉を聞こうとしないなら、初めから眠りに陥らせ、聞くことができないようにされるのです。すると、どうなりますか。11-12節。御言葉に聞き従うことを好まない者には、神様の御心が分らないし、御言葉を読むこともしないと言っています。それは、患難が近づいているにもかかわらず、まったく悟ることができないということです。
 御言葉は、誰にでも開かれているわけではありません。謙遜に御言葉を慕い求め、御言葉に聞き従おうとする者に御心が知らされるのです。御言葉よりももっと優先するものがあるなら、これらがその人の心を占め、御言葉が入る余地がなくなります。心に覆いがかかってしまうからです。Uコリント3:15-18。心に覆いがかかっていませんか。しかし、主に心を向けるなら、覆いは取られ、御心が分り、主の栄光を見るようになります。
 今朝の箇所は、私たちに重要な問いかけをしています。あなたはどんな信仰の姿勢ですか。御言葉に対してどんな思いでいますか。礼拝は、祭壇の機能が働いていますか。御言葉を都合の良いことだけ聞こうとしていませんか。私たちの内にある苦い根のような高慢と頑なさを神様の御前に差し出しましょう。問題に出会った時、悔い改めて、神様の御前に立ち返りましょう。御心を求めることを、神様は喜ばれます。神様が罪を治療してくださって、問題を取り扱ってくださいます。
 これが正しいアリエルであり、信仰の姿です。神様は、私たちが悔い改めて、御前に出ることを願われます。患難だけ見て、恐れないでください。自分の小さい信仰を使うことを考えてみてください。神様は、それを喜ばれます。それが、神様の癒やしと祝福もたらします。「ああ、エルサレム」と頑なな民を嘆かれたイエス様は、頑なな者の救いのためにご自身を十字架に渡されました。マタイ23:37。頑なになって、心に覆いがかかってる私たちのために、「彼らは何をしているか分らないのです。」と言いながら、イエス様は十字架に死んでくださいました。私たちの身代わりとなって。ルカ23:34。この救い主のもとに立ち返りましょう。


イザヤ
29:1 ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。
29:2 わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。
29:3 わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。
29:4 あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。
29:5 しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。
29:6 万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。
29:7 アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。
29:8 飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。
29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
29:10 主が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、
29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。


ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

Uコリント3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

マタイ23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

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