2012年8月26日「逆さに考えている」イザヤ29:13-24
              
序−クリスチャンならば、神様を信じています。信仰を持っています。しかし、人が持っていると思っている信仰が、信仰とは似て非なるものであるということもあります。ひょっとしたら、私たちが信仰と思っていたことが、まったく違ったものであるということを知らせているのが、今日の箇所です。

T−表面だけ神様に近づく民−13-15
 ユダは、信仰的な王様の時に、信仰を復興させました。偶像を一層し、神殿を修理し、散らされた祭司たちを集め、礼拝を再開しました。しかし、この時の民の信仰、礼拝はどうだと神様は言われていますか。13節。信仰は口先だけだ、心は神様から離れている、と言われたのです。礼拝をささげるように言われたのでささげているだけで、神様の御前に立ち返っている姿ではないというのです。
 イエス様もエルサレムの指導者たちについて、この箇所を引用されました。マタイ15:7-9。ずっと礼拝のための礼拝、信仰のための信仰でした。ユダヤ人は、形式的に礼拝をささげていただけでした。そこに、神様を真実に慕う思いや御言葉に聞き従う熱意などありませんでした。たましいが抜けている礼拝、信仰でした。うやうやしく礼拝をささげてあげれば、静かにしておられるだろう、という感覚でした。心の伴う礼拝であるならば、彼らの生活全般に影響を及ぼすはずです。
 私たちはどうでしょう。多くのクリスチャンが、礼拝と生活を別に考えています。口ではイエス様を信じていると言いながら、心は神様から離れ、御言葉に聞き従いません。家での生活、職場や学校にいる時、人々とまったく変わるところがありません。その信仰は、人生の一部分で、自分が心の中心に座り続けるのです。神様は、形式的な礼拝より、ご自身が私たちの人生の中心とされることを願われているのです。でも、クリスチャンのある人々は、そんな人はおかしいと思うのです。
 彼らがそのような形式主義に陥っていた結果、どうなりますか。14-15節。形式的に神様に仕えても、心は神様に従っていなかった彼らの姿は、本当に愚かなことを選んだものです。神様は、「不思議なこと、驚き怪しむことをする」つまり、ユダが滅びの道を行くようになるということです。愚かにも、今ユダは危険な道を選んでしまうというのです。なぜ、そうなるのでしょうか。自分中心の方が利巧だと思っているからです。そのような彼らの知恵が、彼らの霊的判断を遮ってしまうのです。心から神様を愛し、従うことをしないなら、形だけの偽りの信仰となります。
 今ユダの民は、こっそり神様に喜ばれない計画を進めています。神様に見られちゃまずいと、こっそり進めるのです。見られていない、知られないと思っているのです。愚かな姿です。クリスチャンは、神様に自分のことを隠さないのがよいです。知られているなら、間違った道に進まないからです。

U−陶器師と粘土−16-
 なぜ、肉の知恵による者は、「主は見ていない、神は気付かない」と言うのでしょうか。どうしてそんな愚かな考えをするのでしょう。神様を「人の耳を植えつけられた方、耳を造られた方」だと認識していないからです。詩篇94:7-9。彼らは、不幸にも、自分たちがどういう者であるか、神様との関係を忘れているか、理解していないのです。分りやすい譬えです。16節。神様は、民を造られた方、ユダを造られた方です。彼らは、それを知っていたはずです。しかし、彼らから、すっかり抜け落ちていました。
 粘土と陶器師の関係が、神の民と神様との関係です。粘土から陶器を作ると、土の塊とはまったく別物が出来上がります。陶器師は、用途に応じて違った器を作ります。ユダを造られたのは神様であって、彼らのことをよくご存知です。彼らが神様を「分らず屋だ」と言っていますが、結局与えられた器の役割に満足しなかったということです。それは、神様に拠り頼んで生き、神様の存在をあらわし、救いの道を証しする役割です。
 しかし、世の人々のようになろうとし、強い国のようになろうとしました。そうさせてくれない神様を「分からず屋だ」と言ったのです。力がなくて守れない、みすぼらしいと不満をぶつけたのです。こうして、陶器が陶器師を批判するのです。それは、あべこべ、逆の考えです。陶器師は、明らかに目的があって器を作ります。その器が用途に適応しなければ、砕いてしまいます。エレミヤ18:6。それを分らないで、もっと別な用途に用いないのか、と主張したのです。しかし、用途に応じて用いられてこそ、「高価で尊い」器となるのです。イザヤ43:4a。今日、神様を信じる私たちが求めなければならないのは、それぞれ神様の器として用いられ、器に応じて神様を世にあらわして行くことです。
 教会も私たちも、神の民が与えられた役割を担っています。確かに、私たちは土の器に過ぎません。しかし、イエス様の十字架によって救われたことで、神の栄光を知る知識を与えられた器です。神様の御心を知るという宝を土の器に入れているのです。Uコリント4:6-7。ユダの存在理由は、ただ一つ神様をあらわすことです。私たちの小教理問答第1問も「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」
 人は粘土の分際なのに、自分を陶器師であるかのように考えて、神様を文句を言い、神様を道具のように考えています。自分は造られた存在であることも分からないで、自分は知恵ある者だと言う、愚か者なのです。神様を知って、御言葉に聞き従っている者は、人には愚かに見えても、素晴らしい宝を入れた土の器なのです。天地創造の神と比べたら、私たちはどんな存在なのですか。ちり、虫けらに過ぎません。詩篇103:14,イザヤ41:14。

V−神様が回復される日−17-24
 回復も、陶器師である神様が用意してくださいます。ユダの民が神様の御言葉を聞き従うようになる時、どんなことが起きますか。17-18節。素晴らしいレバノンの森が、アッシリヤの侵略によって森は荒廃していましが、それが鬱蒼とした森になるというのです。そして、罪のために御言葉を聞かなかった者が聞くようになり、御言葉を読まなかった者が読むようになると言っています。これらは、すべて罪の赦し、神様による回復の象徴です。19節。「へりくだる者、貧しい人」は、聖くされ、罪を癒やされて、神様を楽しみ、喜ぶようになるのです。イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりです。罪の治療をし、神様との関係を回復し、神の子どもとして生きることができるようにしてくださいました。エペソ1:7。
 それでも、横暴であざける者は、神様の恵みに背を向け、御言葉に聞き従わないので、裁きをみずから招きます。20-21節。いくら神の民といえども、そういう者もいたのです。彼らは、御言葉に生きようとする者を痛め付け、やりきれない思いにさせます。彼らの特徴は、うわさ話で人を罪に陥れようとします。そうして、主の働きをする者の揚げ足を取り、御言葉に生きようとする者の心を弱くさせようとします。「うわさ話はするな、聞くな、反応するな」です。したらサタンの思うつぼです。私たちは、人の肉のことばに反応するのでなく、御言葉に反応しなければなりません。
 神様は、信仰の先祖アブラハムのゆえにヤコブ、すなわち神の民を顧みてくださいます。22-23節。「アブラハムを贖われた主」です。贖うとは、代価を払って買い戻すことです。神様が犠牲を払って、罪の奴隷、滅びの囚われ人から買い取られるのです。私たちは、イエス様の十字架の犠牲という代価をもって、神様のものとされた者です。マルコ10:45,Tコリント6:20。
 アブラハムとヤコブには、信仰の違いがあります。アブラハムは、神様の御心ならば、余計なことは考えず、純粋に従う人でした。しかし、ヤコブは、神様を信じているようで、いざとなると自分の頭を信じて自分の方法ですべてのことにあたりました。そのために、神様の恵みを体験した後も、おじラバンの所で長く労苦することになりました。アブラハムは、神様の熱心と深い哀れみによって神の民とされました。一方、ヤコブは生まれながらに、信仰の民として神様の約束を受けていたのに、自分の頭に頼り、恵みの中に留まることができませんでした。
 つまり、ユダの民も、ヤコブの道を選び、進んだのです。彼らが御言葉だけをつかんで、従順だったなら、驚くべき信仰の歴史を成し遂げることができたでしょう。彼らは自分の頭を選んでしまいました。肉の自分が利巧だと考えていたからです。だとすれば、世では神の民は、愚かである必要があります。ただ愚かになって、神様に導かれたまま、一歩一歩と進んで行くならば、偉大な生涯となるでしょう。
 そんなヤコブも、苦難の中でよく神様を知るようになり、彼の聡明をもって神様に立ち返って来るようにされました。24節。聖霊様が悟らせてくださいます。今日私たちは、どれほど祝福を受けて生きているか分かりません。ますます神様の御心を悟るようにされ、それが力となるからです。しかし、自分の頭を選んで、罪に無感覚になるなら、ヤコブのように長い試行錯誤に経ることになるでしょう。
 陶器師である神様は、粘土の私たちをアブラハムのように造ってくださいます。逆さに考えて自分の頭を信じるなら、ヤコブのようになります。地上の生涯は短いものです。御言葉の宝をいれた土の器、主の栄光をあらわす高価で尊い器となって生きたいのです。Uコリント4:6-7。


イザヤ
29:13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
29:15 ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。」と。
29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。
29:17 もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。
29:18 その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。
29:19 へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
29:20 横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。
29:21 彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。
29:22 それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。
29:23 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らは私の名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。
29:24 心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」


詩篇103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
イザヤ41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

詩篇94:7 こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」
94:8 気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。
94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

エレミヤ18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。

Uコリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

エペソ1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

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