2012年9月2日「何を頼りとするのですか」イザヤ30:1-7
序−神の民は、荒野の旅中、危機に対する度に、エジプトにいればよかった、エジプトの方がよかった、と言っていました。私たちも苦難や困難中で、世に戻ろうとし、頼ろうとします。それが、どんなに間違った愚かなことであるか、今朝の箇所は教えています。
T−誰に拠り頼むのか−1-2
当時ユダの状況からすると、エジプトとの同盟という決定は、止むを得ないように思われます。アッシリヤという残虐な最強の敵は、すでにユダより強かったアラムや北イスラエルを滅ぼしています。小さくて弱いユダだけでは、とても防ぐことができません。アッシリヤを相手にできる国は、エジプト以外にはありませんでした。しかし、神様は、このようなユダを責めています。1-2節。
助けを求めたこと自体が悪いことだと責めているのではありません。私たちも、周りの人々の助けを求めます。それどころか、神様は周囲の国々を用いて、神の民を助けてくださいます。敵さえ用いられます。神様が責めるのは、今まで自分たちの戦略や軍事同盟で痛い目をみながら、信仰の目で見ることができないところです。「罪に罪を重ねて」いたのです。「北イスラエルが攻めて来た時、財宝を送ってアラムに同盟を求めたが、その後アラムは、北イスラエルと組んで、ユダを攻めて来た。アッシリヤに財宝を送って助けを求めたが、アラム・イスラエル滅亡後ユダまで攻めた。それなのに、今度はエジプトと同盟を結ぶのか。」というのです。
神様は、わざわざユダの民を「反逆の子ら」と呼んでいます。つまり、神様との関係に目を留めて考えよ、と暗示されているのです。困難に出会った時、「なぜ、神の民なのに、困難が起こるのか」「神様の力が足りないのか」「神様は自分を捨てられたのか」などと、神の民は考えてみるのです。苦難の理由は、捨てたのではなく、神様がご自分の子等を愛しておられるからです。大過なく、思い通りになれば、世に走って行くからです。謙遜に見える人でも、権力や財力を握れば、高慢にならない人がいないくらいでしょう。かえって困難を通して自分の無力を徹底的に悟って、神様に立ち返って来るのです。私たちの中には、世的な気質と方法が巣くっており、それを捨てることが、困難なのです。
私たちは、早く苦難の意味を把握して、神様の願われる姿に変わらなければなりません。しかし、ユダの民は、苦難を受けないで、世的な方法で回避しようとしました。神の民が困難に対する態度には、いくつかあります。一時期は苦しみ、さまよっても、苦難を信仰で受け止めて、勝利する人。困難に憤慨し、霊的沈滞に陥る人。多くの人は、これを経験します。そして、自分の思うように対処して、神様から離れてしまう人。
ユダは、模索していたというより、自分の考えに確信を持っていたようです。なぜなら、「神様によらず、指示をあおごうとしない」からです。自分たちがエジプトに頼ろうとすることを神様が嫌われたということも知っていながら、エジプトに使者を送りました。神様に拠り頼む人は、すべて神様の処分に委ねて、自分のものがないのですが、ユダの民は、そんな不安な人生を歩みたくないと考えたのです。
U−助けとならないエジプト−3-5
ユダは、大国エジプトを自分たちを助けることができる強い国だと見ていたために、多くの贈り物を持たせて、使者を送りました。しかし、神様は、エジプトは助けとはならないと言われます。3-5節。社会では、助けや贈り物をする時、見返りの期待や投資の意味合いがあると言われます。ましてや、国際社会では、なおさらです。
エジプトにとって、小国ユダを助けても、旨味がないと判断されたのです。かえってアッシリヤとことを構えることになっては、大損だということです。アッシリヤも、エジプトに頼っても無駄と言っています。U列王18:20-21。また、エジプトへの使者が内部の町に行っているのを見ると、政変があって首都が移ったようです。時代的にもエチオピア王朝の時期です。エジプト自体が混乱期で、他の国を助ける余裕がなかったようです。
人が困難な時、どんな人の助けを思うでしょうか。家族だから助けてくれるだろう。昔の友人なら力になってくれるだろう。しかし、家族や友人の立場になって考えてみましょう。しばらく交わりもなかったのに、急に連絡して来て、助けてくれと言う。唐突の感は否めないでしょう。彼等にも、即応できない事情が必ずあるでしょう。人々が考えるような見返りも期待できないなら、なおさらでしょう。
もちろん、神様は世の人々を用いて私たちを助けてくださいます。神様がエジプトを通して助けてくださる可能性もあります。しかし、ユダの民のように、神様が否定しておれることを、私たちが選んでしまってはまずいことになるということです。ユダの民は、神様が嫌っておられるのを知りながら、エジプトに助けを求めました。私たちも、自分の気持ちや考えに固執すると、神様の嫌われる道を選んでしまうのです。
神の民が困難に際する時、どのようにしなければならないでしょうか。唯一の道は、生きておられる神様に動いてもらうことです。全面的に神様を信頼して、ほかに行かないことです。神様の時が来れば、道は開かれ、失われたものは回復されます。私たちは、世に成功するにはこの道しかない、人生をしっかり生きるにはこれに拠り頼まなければならない、と固執していた時代があります。困難の時、藁をもつかみたい心境で求めるのですが、神様の時、神様のご計画でなければ、それはなりません。
V−罪の奴隷に戻るのですか−6-7
イスラエルの民は、かつてエジプトから逃れて、約束の地へ長い危険な道のりを通って来ました。ところが、ユダの民は、その道を再び歩いて、エジプトを訪れています。6-7節。「ネゲブの獣に対する宣告」ということは、エジプトに対する宣告ということです。エジプトを象徴する動物って、何でしょう。エジプトを「何もしないラハブ」とも呼んでいます。このラハブとは、ワニ(鰐)のことです。
ワニは、陸では静かに寝そべっていても、水の中では敏捷に獲物に襲い掛かります。獰猛なナイルワニが、エジプトを象徴していたのです。宝物をラクダにのせてライオンや毒蛇のいるジャングルのような所を通って、やっとエジプトに来て同盟を結んでも、それは役立たず、徒労に終わるというのです。エジプトは、獰猛なワニでも、陸上でのんびり寝ている「何もしないワニ」となっていたのです。
一見すると頼みにできるように見えて、頼りにはならない「何もしないラハブ」は、世の中にいっぱいあります。勉強ができること、社会的地位を得ること、財産を手にすることなどを頼みにできると考えます。しかし、自然災害や社会的混乱が起これば、「寝そべっているワニ」に過ぎなくなります。私たちにとって、エジプトのようになっているのは何でしょうか。
このエジプトを頼りにするなというのは、単に頼りにならないということを教えているのではありません。神の民にとって、エジプトは、奴隷の境遇から大変な思いをして抜け出して来たところです。もう戻ってはならないところ、神様のいないところ、罪の囚われ人となるところ、という霊的意味があります。世の何かをエジプトのように頼りとするということは、元の神様のいない昔の人生へ戻って行くことになるという警告です。
使徒パウロは、「イエス様に救われた私は十字架以外に頼りとするものはありません。この身に十字架の印を帯びている私を世に引き戻そうと煩わせないでください。」と言っています。ガラテヤ6:14,17。
エジプトの奴隷から抜け出して来る過程は、簡単なものではありませんでした。再びその道を通って、エジプトの奴隷になろうとするのか、という警告です。世の何かをエジプトのように頼ろうとする私たちに、「苦難と虚しさから、罪の奴隷の境遇から抜け出して来たのに、またその境遇に戻ろうとするのか。」と語っています。
結局、ユダの不幸は、自分たちが特別な存在であるということを忘れていることです。神様を頼りとするならば、必要なことを満たしてくださるだけでなく、悪いアッシリヤから助け出してくださいます。神様を頼りとしないなんて、何と愚かな申し訳ないことでしょうか。イエス様に出会ったこと、聖書の神様を知ることができたことが、どんなに恵みであるか感謝しなければなりません。神様を知ることなく死んで行く人がどれほど多いことでしょうか。
人を信じて失望させられた、忠誠を尽くした会社に裏切られた、勉強だけできてもだめだった、ということが多い世です。今日多くの神の民が、自分の助けとなる「ワニ」を探してします。頼りにならないどころか、急に襲われてしまいます。私たちの複雑な考えを置いて、見捨てられたように見えたとしても、ただ終わりまで神様に信頼しましょう。これが、私たちの命です。苦難の中で、神様を頼みとしてください。イエス様の十字架によって救われている私たちなのでから。ガラテヤ6:14,17。
イザヤ
30:1 「ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
30:2 彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
30:3 しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。
30:4 その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、
30:5 彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」
30:6 ネゲブの獣に対する宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや飛びかける蛇のいる所を通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。
30:7 そのエジプトの助けはむなしく、うつろ。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」
U列王18:20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。
18:21 今、おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。
ガラテヤ6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。