2012年9月9日「落ち着いて、信頼すれば」イザヤ30:8-17
序−この民は、まるで思いのまま動き回る子どもに譬えられています。子どもが正しい道に行くことができるのは、自分をつかまえて、小言を言ってくれる人がいるためです。私たちも、素直な神様の子どもとなって、御言葉に聞きたいと思います。
T−御言葉を聞こうとしない民−8-11
ユダが、神の民として残ることができたのは、預言者たちが、民が御言葉を悟るように、間違いを悔い改めるようにさせていたためです。神様はイザヤに一つのことを命令しました。8-9節。御言葉を板に書いて、同じ内容を本にも書くようにということです。それは、公式に残して置くため、繰り返し読むことができるためです。神の民が神様から離れて、滅びに向かってしまう理由が記されています。
「反逆の民」とは、哀れみの伴った戒めを聞いても、悔い改めず、神様に逆らい続ける者のことです。人は間違いもし、失敗もします。しかし、それを認めず、頑なであり続けるのです。神様が繰り返し哀れみの御手を差し伸べているのに、頑なさゆえに立ち返らなかったのです。それなのに、自分は正しいと主張するのです。肉の原理で生きているのに、神様を信じていると言うのです。ですから、「うそつきの子ら」でした。神様は赦してくださるのに、彼らは悔い改めなかったのです。
悔い改めなかったのは、「主のおしえを聞こうとしない子ら」だからでした。彼らは、神様の御言葉をうるさい小言ぐらいにしか聞きませんでした。元々罪の性質としての人は、神様に反抗するのです。ローマ8:7。しかし、イエス様の十字架を信じるなら、救われ、罪赦されます。新しい人に造り変えられて行きます。そうして行くと、事あるごとに悔いた砕けた心となって悔い改め、繰り返し主の御前に立ち返るのです。ところが、彼らは、表面では神の民であっても、内なる人は変わることなく、肉に属する人のままだったのです。ローマ8:5-6。私たちは、どうでしょうか。
このような神様への反抗や御言葉を聞こうとしない肉の姿は、御言葉を伝える者に対してあらわれると教えています。10-11節。神の民が、かろうじて滅びることなくここまで歩めたのは、預言者たちが絶え間なく御言葉を伝えて、誤りを指摘し、神様に立ち返るようにに導いてくれたからです。ところが、ユダの民は、「もうそれ以上正しい御言葉を語るな、我々の気に入ることを語れ」と要求したのです。何と言うことでしょう。
私たちの教会では、よく御言葉の分かち合いをセルや礼拝後、奉仕をしながら、恵みを反芻しますが、他所では気に入らない事を聞くと、御言葉を伝える者に文句を言い、反発する人々もいるそうです。御言葉を伝える者は、このような攻撃にさらされています。Uテモテ4:3-4。すると、人を恐れる説教者は、反抗を予想される御言葉を語らず、人の肉の思いを満足させることを言おうとします。人に気に入られるからです。それは、神様を恐れない姿です。ローマ16:18。
私たちが心に覚えなければならないことは、すべての人が肉の心としては、祝福のことばは聞きたいけれども、忠告や戒めのことばは聞きたくないということです。しかし、本当の祝福の言葉は、罪を指摘して悔い改めに導き、神様との関係を回復させるものです。御言葉をそのまま聞かなければなりません。肉の心は、いつも歪んで、ずれて行こうとします。罪を好んで、肉の思いを満足させる言葉に耳が傾きます。それが、罪の性質だからです。しかし、真実な御言葉が私たちを捕らえ、戒めるならば、主の御前に立ち返り、罪を告白して癒やされ、霊的変革が起きるのです。
それはどんなに神様の御前に美しい姿であることでしょうか。自分のことだ、主は私に語られたと受け止め、罪を告白し、肉の思いを悔い改めるなら、神様の深い赦しを受け、恵みが回復されます。
U−神様の言うことをなしがしろにした民−12-14
ユダの民が、アッシリヤの攻撃のためにエジプトと結ぼうとしたことは、神様との関係を壊すことになりました。12節。ユダの民に対して「イスラエルの聖なる方は〜」と言っていますが、この名称を使う場合は、神様と神様の民の関係を表している時に使われます。ユダの民は、12部族の中で最もしっかり信仰を持っているのは自分たちだという自負していましたが、ユダの民がみな本当のイスラエルということではありませんでした。彼らは、「神様の言うことをないがしろにした」のです。ユダの民が神様の御前で正しく生きようとするならば、神様が守ってくださるという約束があります。ところが、「主のおしえを聞こうとしない子ら」は、困難が来た時、神様に頼りませんでした。
彼らにも言い分があります。この神様に頼ったにもかかわらず、困難に出会ったからです。神様に従って生きようとしたのに、苦難に出会い、世のあれこれを失い、苦労したからです。しかし、このような訓練を通して、私たちの信仰は、整えられるのです。神様のいない困難に益はありませんが、神様と一緒にいる困難は、とても有益なものです。このような困難を経験を通して、もっと大きな祝福を与えようとされるのです。しかし、ユダの民は、患難に出合って「御言葉をないがしろ」にしたのです。
代わりに、「しいたげと悪巧みに拠り頼んだ」のです。説教者の伝える御言葉に聞かず、自分の知恵や肉の思いに聞くならば、人を虐げ、思い通りにするために悪巧みをするようになるというのです。エジプトとの同盟は、貢ぎ物をするだけでなく、彼らの偶像をも拝むようになります。こうして、彼らは神様から離れ、滅ぶようになりました。13-14節。エジプトとの同盟は、城壁に急に裂け目ができて全体がいっぺんに崩れるようなものだと言っています。いざと言うとき、あてにならないというのです。
ユダの民の城壁は何でしょう。神様が守ってくださるということです。ところが、その壁が今崩れようとしています。御言葉に聞こうとしないからです。神の民が神様を離れるならば、状況がよく見えなくなります。常識的には理解できないことをしでかすようになります。神様は彼らに対して、陶器師が土の器を壊すようにされると言います。陶器が酷い人の手に入るなら、陶器師の名を汚すことに使われます。それよりは徹底的に壊されるのです。欠片を使うこともできないほどにです。一度恵みを知ってそこから離れるなら、もっとひどくなるということを教えています。
V−主に立ち返れ、主に信頼せよ−15-17
勿論破滅ばかり言われていません。神様が彼らに願われたことに注目しましょう。15節。神様の御前に「立ち返って静かに」することを求められました。困難に会う時、神様が打たれるなら、信仰を持って耐えることができるというのです。神様がその民に患難をくださるのなら、必ず理由があるし、益があるためです。患難が押し寄せて来るなら、その度に神様の御前に立ち返り、静かに祈りながら、助けと解放を待ち望むのです。
辛いことに会って心が揺れ動くならそのたびに主に立ち返って、うまく行かないなら行かない度に静かに耐えるのです。私たちが憂うつにされることは、度々起こります。職場が中々決まらない、経済的な不安を覚える、病気に苦しむ、自分一人だけどうして、と様々なことで悩み、憂鬱になります。そのような時、自分の方法や力では、どうにもならないのです。その渦中で、高慢が崩される貴い経験をするようになります。神様の御手で取り扱っていただけます。滅びそうに見える中に神様の救いの道があります。これが、神様がユダの民に求めたことです。
患難に会う時は患難を受け止めるのです。叩かれるなら、叩かれるのです。「立ち返って静かにすれば、落ち着いて、信頼すれば」力を得、救われるのです。ユダの民は、アッシリヤという患難に出会った時、神様に委ねることを嫌って、エジプトに走ったのです。16-17節。あれこれ考えて、暴れまわって、本当に滅ぶようになります。「馬に乗って逃げよう、でも敵はもっと早い馬で追いかける。」というのは、自分の頭や力で患難から逃げようとしたも駄目だ、もっと酷い目に会うということです。逃げても、逃げるところはなくなり、ますます弱くなります。
この箇所は、人生において患難は様々あるけれども、神様に信頼していれば、耐えて回復されるということを教えています。「落ち着いて、神様に信頼すれば」一人でも大勢に打ち勝つことができます。神様が一緒にいてくさるからです。神様から離れるなら、その反対になります。患難は大きくなり、自分はもっと弱くなります。
私たちの問題は、患難を信じて、神様を信じないことです。ここに、私たちの生死がかかっています。世の何かをつかまえるのではなくて、御言葉をつかまえるのです。これが、私たちの生きる道です。現代のクリスチャンに問題となっているのは、御言葉によって罪を指摘されたり、信仰を修正されたりすることを好まないということです。ただ恵みだけ、祝福だけを求め、「いいね」という称賛だけを聞こうとします。その理由は、今まで一度も栄光の神様の御前で生きてみたことがないためです。「立ち返って静かにし、落ち着いて信頼して」栄光の神の御前で生きましょう。
イザヤ
30:8 今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書きしるし、後の日のためとせよ。代々限りなく。
30:9 彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。
30:10 彼らは予見者に「見るな。」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。
30:11 道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」
30:12 それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼み、これにたよった。
30:13 それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。
30:14 その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。」
30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
30:16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。
30:17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。
ローマ8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
Uテモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
ローマ16:18 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。