2012年9月30日「救いの歌」イザヤ30:27-33
序−私たちのうちには、どうして神様は悪者をそのままにしておかれるのか、なぜ神様は辛く苦しい状態にある神の民を助けないのか、という疑問や反発があります。はたして、そうなのでしょうか。
T−神様を感じなさい−27-28,30
人々は、神様は目に見えないと言います。しかし、聖書は、神様の御顔を見て、表情を感じなさいと言います。27-28節。この地域の気候は温和で平穏なのですが、しばしば雷が鳴り響き、稲光が走るようになる時、神様の御怒りのように聞こえます。風や激しい雨、大きな雹が降り注ぐような時、神様の御怒りとして感じていたのです。30節。私たちの目には、神様を見ることができません。しかし、聖書は、知恵ある者は自然現象を通して神様の表情を感じなさい、と言われるのです。
アッシリヤがエルサレムに進軍してくる時、空が暗くなり、時期はずれの雷鳴が轟き、稲光が走ったのでしょう。それは、アッシリヤの高慢と悪行に神様が怒られ、とうとう乗り出されたということです。一方、神の民には、神様の哀れみと慈愛の御顔を見せてくださったことになります。御言葉の恵みに励まされ、力をいただく時、それは神様の御顔が自分に対して照り輝いているのです。神様の愛と守りの証拠です。あなたに対する神様の御顔を感じてください。暗い心を照らし、苦しむ心に微笑む御顔を。
「くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようで、息は首に達する流れのようだ。」これは、まるで怒りがこみ上げて来る表情です。この地方は乾燥地帯なのですが、大雨が降るとあっという間に急流となってあふれるそうです。「破滅のふるいで国々をふるい」という篩(フルイ)とは、脱穀の道具です。神の民を苦しめていた強国は、篩われて殻(カラ)として捨てられるのです。神様が乗り出されれば、早いです。「手綱」とは、馬の口にかけるくつわのことです。そのようにして連れて行かれるということです。エルサレムは、アッシリヤの攻撃を受けて、ほとんど滅びるばかりとなりました。そのとき、民の信仰が試された時でした。私たちも、様々な出来事で篩われることがあります。神様を覚えましょう。神様の表情を感じましょう。確かな神の助けを感じることができます。
U−悪に臨まれる神様−30-33
神の民は、どうしてアッシリヤのような悪辣な国が存在して、神の民を痛め付けるのか、理解することができませんでした。この問題は、私たちにとっても重要な問題です。どうして、悪い状況をそのままにしておいて、ご自分の民が苦しむままにしておかれるのか、と憤慨し、悩むのです。しかし、神様のご計画は、アッシリヤは倒され、神の民は勝利し、守られるというのです。31-32節。
重要な問題は、神の民が罪や悪について深刻に考えていないということです。いつも人は、自分で罪に打ち勝ち、状況を判断できるのに、神様が干渉して来ると考えるのです。都合の良い時だけ出て来て、というご都合主義信仰です。それで、神様は一時的に悪を統制しないで、そのままにして置かれるのです。その結果、アッシリヤのような者が出て来るのです。
力をもって自分のしたい放題にするもの、それがアッシリヤでした。そのようなものは今日も存在します。普通の人々の性質もそれと変わりません。ただ権力がなくて、お金がなくてそのようにできないだけです。ですから、私たちは、権力を振り回す人を哀れに思わなければなりません。アッシリヤの役をすでに担わされているからです。
人は自信があります。すべてのことを思いのままにならないのは、まだ状況が悪いだけ、もっとできるはずだと思っています。神様ができないように縛っていると文句を言います。しかし、人が思い通り無制限に権力や力を握ることができたら、どうなりますか。アッシリヤのような怪物になってしまいます。それは、個人のレベルでも同じです。自分に自信があって、自分の思い通りにしたい、神様は干渉してくれるなという態度になります。罪のことや悔い改めのことはほとんど考えません。
ユダの民は、アッシリヤが神様の裁きを受けたのを見て、喜んだことでしょう。しかし、心の中には、恐れもありました。自分たちの中にも、そのような罪の性質があるからです。ただ機会がなくて、そのような罪が出ていないだけだからです。そういうことが多いのです。自分の思い中心になってしまう、それが罪の根源であり、アッシリヤのようになる元です。アッシリヤのような人を見て、批評するのではなくて、同じものを自分に見出して、悔い改めなければなりません。
本当の悔い改めは、自分の罪を憎んで、嫌悪することから始まります。罪に陥る機会を封鎖しなければなりません。33節。トフェテとは、エルサレムの横にあるヒンノムの谷にあるゴミ焼却場です。地獄ゲヘナということばは、ヒンノムの谷、ゲ・ヒンノムがゲヘナとなりました。まさにアッシリヤには、ゲヘナとなりました。死んだアッシリヤ兵が焼かれて葬られたのでしょう。すでに巨大な穴を掘られて用意されていたというのです。神様の御業に恐れを覚えます。
アッシリヤの失敗は、弱いユダだけ見て、ともにおられる神様を見なかったからです。終わりを見なければなりません。それだけでなく、神様は、私たちの中の悪を見せて、自己中心を捨て、神様に立ち返って来るように求めておられるのです。そうしなければ、アッシリヤと変わることがないからです。同じような機会を与えられるなら、アッシリヤにも、怪物にもなります。ですから権力も富も与えられず、思い通りにならないことを感謝しなければなりません。
V−神の救いを歌い、楽しむ−29
凶暴なアッシリヤが裁かれ、ユダが救われるという出来事は、過越の出来事と同じです。29節。過越の祭りは、神様がその民をどのように救ってくださったか、見せてくださる象徴です。「祭りを祝う夜のように歌い」とは、出エジプトでの最後の晩のことです。出エジプト12:42。エジプトで奴隷として苦しめられていた民の叫びを神様が聞かれて、エジプトから引き出そうとされた時、9つの災いでエジプトを打っても、王は解放してくれませんでした。最後にエジプトのすべての初子を打つという災いがおおいました。その夜、イスラエルの民には、小羊をほふり、羊の血を門柱と鴨居に塗るようにさせ、血の塗られたイスラエルの民の家は災いが過ぎ越され、守られて、エジプトを出ることができました。出エジプト12:7,11-12。
それは、途轍もない神様の裁きと守りとして記憶され、守られて来た「過越の祭りの歌」でした。外にはどんな災いが襲うとも、その小羊の血に守られたのです。これは、イエス様の十字架による救いの型です。イエス様は、過越の祭りの時十字架にかけられました。マタイ26:2。イエス様は、「神の小羊」と呼ばれました。ヨハネ1:29,36。神様が人となって世に来られ、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、苦しみ死なれました。Tペテロ2:24。問題や患難の中にある時、どれほど憂うつで重苦しいことでしょうか。どれほど不安で心配でしょうか。しかし、私たちは、滅びからすんでのところでイエス様の犠牲によって救われたのです。だから、私たちも救いの歌を歌うのです。心いっぱい神の救いの御業を褒め称えるのです。
世に安全なところがどこにあるでしょうか。様々な災害や社会の混乱があります。しかし、このような世で安全なところが唯一あります。それは、今日も犠牲の小羊の血があるところです。生きておられる神様の御言葉があるところ、神様の臨在のある信仰共同体です。滅びる寸前で救われ、救い出されるという体験をしたなら、神の民は、神様の救いの御業を感謝して、喜んで歌わずにはいられません。その時には、命が救われ、あふれるばかりの恵みと祝福をくださるからです。私たちは、イエス様の救いの歌を心から歌います。たとえ患難の渦中にあっても、苦しみの中でも、イエス様を賛美するなら、救いの約束が始動します。
アッシリヤの最終攻撃の時、エルサレムの滅亡は誰が見ても明らかでした。しかし、主の御使いがあらわれて、その夜アッシリヤ軍18万5千人が倒されたのです。U列王19:35。滅びる他ないようだったユダの民が生き残り、勝利確実のアッシリヤ軍が倒されたのです。まさに過越なのです。だから、過越の祭りのように、心いっぱい救いの歌を賛美したのです。私たちはそういう約束の中にあるので、いつでも賛美するのです。賛美することで、神様の約束を確信し、喜ぶのです。
これが、神様の介入です。神様が御手を差し伸べられれば、状況はくつがえり、一変するのです。ですから、神の民は困難な状況だけ見ないで、生きておられる神様を見なければなりません。神様に動いていただくことを考えるのです。30節。神様が動かれるなら、すべては変わります。ですから、私たちは、途中で自暴自棄になったりしてはなりません。どんな時でも、過越の御業をされる神様に拠り頼み、期待するのです。すべての可能性が終わるところから神様は事を行なうことができ、私たちに絶望しかない時に動き始められるお方なのです。アーメン。ヨハネ7:37
イザヤ
30:27 見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。
30:28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。
30:29 あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。
30:30 しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。
30:31 主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。
30:32 主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。
30:33 すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。
出エジプト12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。