2012年10月7日「御言葉と交わりにあるいのち」Tヨハネ1:1-4
              
序−ヨハネの手紙とは、福音書と黙示録を書いた愛の使徒ヨハネが書いたと言われています。ヨハネは、エペソで牧会をした後、パトモス島に流刑となって、その後再びエペソに戻され、そこで牧会して生涯を終えたそうです。その晩年に、当時の事情を反映して書かれたのが、この書です。真理の書、愛の書と呼ばれています。
 人の死に接し、人生を空しく歩む人をみる時、人の命とは何かということについて考えさせられます。死なぬ命を得ることでしょうか。思うままにできるのが幸いな命なのでしょうか。聖書は何と教えているのでしょう。

T−初めからおられたいのち−1
 使徒ヨハネは、人が知ることのできない新しいいのちがあると言っています。1節。人の命とは、有限な命です。この世に生まれて来て、死んで終わる命です。ところが、そのような命ではなくて、永遠の初めからおられるいのちがあるというのです。それは、神様のいのちです。神様のいのちは、永遠のいのちであり、死がありません。人の命は、死でこの世のことは終わります。一度生きた人生を延ばすこともできません。良く生きたか間違って生きたかに関係なく、一度生きたら、それで終わりです。世でのその人の活動や存在は終わります。金持ちであろうと権力者であろうと同じです。考えてみれば、それはとても空しいものです。
 ところが、神様は私たち人間が知ることのできない新しいいのちを用意してくださいました。これは、この世だけでなく、神様の御前まで続くいのちです。それは単にいのちの長さではなく、いのちの質があります。この世の人生観は、お金や権力を集めて、それで幸福を享受することです。しかし、神様の与えてくださる新しいいのちとは、私たちが「いのちのことば」で生きるいのちです。その結果、神様にある尊い喜びを享受するようになります。人は、サタンの鎖に繋がれているために、罪に支配され、空しさの中にあります。悲惨な状態となります。そこから解放しようと、神様は、驚くべき計画を立ててくださいました。
 それは、神の御子が人となって世に来られ、私たちの代わりに十字架に死んでくださって、私たちの罪の問題を解決して「いのち」与えてくださることです。ピリピ2:8。「聞いたもの、見たもの」と言うのは、イエス様を通して新しいいのちを知ったということです。イエス様は、「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」と言われました。ヨハネ6:27。また、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」とも言われました。ヨハネ4:32。そして、荒野でサタンの試みを受けた時、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。」と言われました。マタイ4:4。
 神の民が神様から与えられた命題は、「人は食べるために生きるのではなく、神様の御心に従って御言葉によって生きる。」ということです。イエス様は、徹底して神様の御心に従い、神様のくださる御言葉によって生きました。その力を思うまま使うのではなく、私たちの救いのために十字架への道を進まれました。十字架は悲惨で苦しいものです。しかし、信じる人々の罪の赦しと御霊にある人生を生きるようにさせるためでした。
 「じっと見、手でさわった」とは、イエス様の復活をあらわしています。イエス様の十字架は、失敗のように見えましたが、そこからよみがえられました。そして、信じた者に聖霊を注いでくださいました。私たちは、聖霊によって造り変えられ、新しい人になるのです。Uコリント5:17。「初めからあったいのち」が、私たちの内に注がれたのです。富や権力を得てやりたいことをして幸福を得る命ではなく、真の永遠のいのちが与えられたのです。私たちは、このいのちで世を豊かに生きるようになるのです。

U−救い主イエス様−2
 新しいいのちは、イエス様にあります。2節。父なる神様が、世を創造され、統べ治めておられます。すべて造られた者は、神様を信じなければなりません。親を知らない人が大人になって、親を捜すという話があります。それは、自分の存在の意味を探すためです。人は、神様に似せて造られた神様の子どもです。私たちが帰って行くところは、神様以外にありません。そのために、神の御子イエス・キリストを通して行くしかありません。イエス様を信じることが、神様に帰る唯一の鍵です。ヨハネ14:6。
 神様は、罪のために滅ぶ人の罪を赦すために、ただ一つの条件を提示されました。それは、十字架にかかられたイエス様が、自分の代わりに死なれた神の御子だと認めることです。神様の御子が自分のために十字架に死なれたことを信じる人には、罪の赦しと新しいいのちを与えてくださいます。世の悲惨と滅び行くたましいを哀れみ、御子を遣わされたのです。
 今世は、人の命を危険にさらす脅威に満ちています。肉体の病ばかりでなく、精神を病み、心を死なせる人生の混乱や患難が多くあります。肉の心には、罪の欲望が溶鉱炉のように沸き立っています。世には、死の陰の谷が多くあります。ですから、羊のような私たちには、たましいを導いてくれる羊飼いが必要です。ヨハネ10:4。イエス様が、私の羊飼いです。
 そして、この「いのち」であるイエス様は、世の初めから御父と共におられた方です。ヨハネ1:1。このイエス様を誰かと認めることで、真の福音かどうかが分れます。人としてのイエス様だけを強調し、福音を単なるヒューマニズムに落とそうとする哲学的考えがありました。だからこそ、使徒ヨハネは、イエス様が救い主であり、初めからおられるまことの神であると証ししているのです。もし、イエス様が神様でなかったら、人として自分の罪のため死んだということになります。私たちに聖霊をくだすこともできません。それゆえ、イエス様を神の御子と信じない者には、聖霊の働きがありません。
 では、なぜ神であられる御子が、人となって来られたのでしょうか。当時のギリシャ哲学の世界観によれば、霊魂は清いものだが、肉体は汚れたものだということです。神様の御子が肉体を取られて世に来られたとは考えられず、幻だと考えたのです。しかし、使徒ヨハネは、神の御子が人の肉体を取って、来られたと証ししています。もしイエス様が人の体をもって来るのでなければ、私たちの罪を解決することはできません。イエス様が肉体を持たれたので、私たちの身代わりとなられたのです。私たちはイエス様に接木されて、新しい約束に入れられるのです。神の御子が人となって、肉体をもって来られたことが恵みであり、福音なのです。この方が私たちと同じになられたために、イエス様が受けるべき御子としての祝福を私たちが受けることができるようになったのです。エペソ1:11,14。
 ヨハネがこの手紙を書いた目的は、キリスト教がとても理性的で実践的であることを悟らせるためです。キリスト教は、何か分らない神秘的なものではないということです。当時は、具体的真理として考えないで、神秘主義的に捉える人々がいたからです。神秘的体験を強調した危険なものでした。

V−いのちは神様の御言葉の中に−3-4
 この世で終わってしまう空しい命ではなく、永遠のいのちを得る方法がどこにありますか。それは、使徒たちが伝えた聖書の御言葉を聞いて、イエス様の十字架を信じることにあります。イエス様の福音の証しを聞くことが、神様のいのちを得ることだと言っています。3節。
 ヨハネは、私たちが神様のいのちを得ることができる重要な二つのことを教えています。一つは、使徒たちの伝えた福音のことばを聞いて、信じることです。もう一つは、交わりです。これは、教会の中に入って来て、一緒に信仰生活をすることです。教会生活の中には、人々だけいるのではなくて、神様と御子がともにいてくださるからです。
 当時教会に入って来る偽りの信仰の特徴は、神秘的な知識を重要視して、神秘的体験をすることが悟りだと騒ぐものでした。それは、ギリシャ哲学の考えでした。しかし、キリスト教は、限られた人が知る神秘的なものではありません。すべての人が知ることができる「いのちのことば」です。なぜなら、聖書の著者である聖霊は生きておられる神様だからです。御言葉は今も生きて働いています。今日多くの人々が、「御言葉、御言葉」と言いながら、御言葉で十分とせず、御言葉に生きようとはしないのは、残念です。そのような人は、御言葉がどれほど今日的で、実際的な適用を教えてくれるか分らないのです。時代を診断するのは、神様の御言葉です。キリスト教ほど理性的で実践的な宗教はありません。
 福音は、一人でする神秘的瞑想的体験ではなく、教会で一緒に分かち合うことを通して、実現されて行くものです。本当のいのちは、真実な共同体での出会いと交わりにあります。この交わりは、ただの人の交わりではなくて、御父と御子イエス様が伴われる交わりであり、出会いです。御霊が導いてくださる交わりです。私たちは、この出会いと交わりを通して信仰が立て上げられるのです。御言葉と交わりを通して、神様は私たちに語られ、私たちを造り変えるようにされます。
 他の何かがなくても、私たちには御言葉の共同体があります。この共同体に神様がおられ、イエス様がおられるのです。御言葉と主との交わりにある新しいいのちは、愛のあふれる人生です。すべての力は、そこから出て来ます。このいのちは、イエス様を信じて、御言葉に従う時、あふれ出て来ます。ヨハネ3:16。



Tヨハネ
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。


ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

ピリピ2::8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

エペソ1:11 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
ヨハネ10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

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