2012年10月14日「罪を赦す神の愛」Tヨハネ1:5-10
序−人生をやり直せたら、とよく聞きます。人生を取り戻すことはできません。しかし、癒やされて、新しく人生を生きることができる道が備えられています。何と言う感謝なことでしょうか。問題は、神様が罪を嫌う、聖いお方なのに、私たちが罪を犯してしまう者だということです。
T−神は光、罪の解決−5,7
人は、神様の恵みや祝福を求めます。ところが、「神様は光であって、暗いところが少しもない。」というのです。5節。光である神様は、罪を受け入れることができません。罪は闇、暗いものだからです。ですから、神様の祝福や恵みを受けようとするなら、罪の問題が解決されなければなりません。神様は、最も罪を嫌われるのに、私たちはいつも罪を犯し、罪を好む本性があるのです。人の考える救いは、修行とか高徳とかを要求します。その要求を完全にすることはできません。人のすることは不十分だからです。罪の本性を持っている人が、自分で自分の罪を清算することはできません。
では、どうすれば、私たちの罪の問題が神様の御前に解決されるのでしょうか。神様は、私たちの罪を完全に解決する道を備えてくださいました。7節。何と、御子イエス様の犠牲によって、罪を聖めてくださるというのです。「御子」とは、神様の最も愛する一人子ということです。神様の栄光の力と身分を持っておられるお方です。その神様の愛する御子が、私たちの罪の代わりに十字架にかかって、ご自分の血を流されたのです。ここに神の愛があるのです。ヨハネ3:16。
宗教改革者ルターは、このヨハネ3章16節を「小型の聖書」と呼びました。福音そのものを示しています。私たちは、このイエス様の犠牲を、神様の愛を他人事のように感じてはなりません。私たち、私のため自分のためにイエス様が十字架にかかり、私の身代わりに犠牲となって、私に救いを与えてくださいました。この節の「世」に自分の名前を入れて読んでみてください。神様の愛が実感されるでしょうか。自分の人生を覚えてくださる方がいらっしゃるのです。自分のために犠牲を厭わない主がおられるのです。自分の命を救い、人生を新しくしてくださる救い主がおられるのです。癒やして、祝福してくださる私の神様がおられるのです。何と言う恵みでしょうか。生きていてよかったですね。
U−忘恩や居直りですか、罪の告白ですか−6,8,9-10
私たちのすべきことは、この神様の愛、神様の救いの御業に応えることです。神様は光なのですから、「光の中を歩むこと」が必要です。6節。ところが、「闇の中を歩み」つまり罪の支配の中を歩みながら、光の中を歩んでいると偽るのです。当時の人々は、ギリシャ哲学の影響を受けました。肉の知恵が考え出したことは、悔い改めなくていいと主張し、神様はすべてを赦してくださるのだから、罪を犯したっていいと主張しました。今日も、多くの人がこんな酷い思い違いをしています。
確かに、私たちがどんなに悔い改めても、天使のようには聖くなれません。私たちの深いところに罪の根が残っています。暗いところが残っています。それだから、私たちは神様が照らされる光の中を歩まなければなりません。罪が抑えられて、聖い性質を増していただくのです。これが、信仰です。御言葉の光は、すべてのものがあらわにする太陽の光のようです。ルカ8:17。御言葉の光は、私たちの心を明るくし、暗い世にあって私たちの進むべき道を照らし出します。詩篇119:105。
光の中を歩まなければ、罪はないと主張します。8節。ギリシャ哲学は、二元論を考え出し、罪は肉体の問題だけで、心は問題ないと言いました。今日も、自分は良い人間だ、ちゃんと生きている、知恵がある、人に迷惑をかけていない、悪いことはしていない、などと主張します。いや、思い込んでいるのです。それは、自分を欺いていることになります。御言葉の光に照らされるなら、罪はないなどとは言えません。どんなに知恵があろうと、真理はその人のうちにはありません。
ついには、「罪を犯していない」と偽るようになります。10節。罪が神様との関係を壊し、人を支配し、命の滅びと人生の悲惨に導くと認めても、自分は罪を犯していないと偽るのです。たとえば、イエス様は、人を酷く言うのは殺人と同じだと教えられましたが、悪口や悪し様に攻めながら、罪を犯しているとは考えないのです。御言葉が心に入っているなら、自分の言動で罪を犯し、心の中の思いで罪を犯していることに気付くはずです。罪を犯していないと言うなら、御言葉はその人の内にありません。
では、私たちがイエス様を信じたことで得ることは何なのでしょうか。まず、神様の御前に出て行く資格があることです。イエス様を信じることで、私たちは義と認められました。罪なしと看做(みな)されるということです。そうなっているので、神様からの恵みを受けることができます。聖霊の力を受けることができます。罪に打ち勝ち、神様の御心を見分けるようになります。知恵と力をくださって世の困難に勝たせてくださいます。
そこで、重要なことは、犯した罪を神様に告白するということです。9節。信じたとは言っても、罪の本性は残っているために、心のままに話し、行動し、罪を犯してしまうことがあります。罪とは、単に悪いことをするという意味ではありません。罪、ハマルティアとは、逸(そ)れるという意味です。神様の御心から逸れる、外れるということです。神様中心から逸れて、自己中心になり、罪を犯すことになるのです。
罪の状態になると、罪が神様との関係を塞いでしまい、心は暗くなり、喜びがなくなり、救いの確信まで揺れ動くようになります。神様は、私たちを捨てられませんが、問題に葛藤し、患難に翻弄される時には、ただ静かに神様の御前に出て、罪の告白をするのです。心からの悔い改めは、目から涙があふれ、心が癒やされ、聖霊が満たされるようになります。喜びが回復します。神様に心から叫ぶならば、恵みが回復します。
私たちが罪を言い表すなら、主は、私たちの不幸にした、私たちの過去を治療してくださいます。人は、体が病気になるように、心も病気になります。特に過去の成長過程で受ける制裁や痛みが、心の病を引き起こします。時には、自分が気付いていなかった心の傷が分り、痛みが緩和され、治療がされることがあります。人の心の中には、憎しみ、恨み、妬み、赦せない思い等が苦い根や要塞となっています。Uコリント10:4,ヘブル12:15。イエス様は、私たちの心の痛みや罪をご存知です。ですから、それをそのままイエス様に告白するのです。その時から新しい人生が始まります。
V−生きておられる神様との交わり−6-7
ですから、光の中を歩み続け、罪から解放されて生きるには、どうすればよいのでしょうか。罪がないと認められ、イエス様を信じる者は、栄光も共にするようになります。私たちのこの信仰は、聖い神様との交わりにおいて、どこまでも御子の交わりにあって可能です。もし、御子を除外して神様信じるなら、成り立ちません。私たちは、イエス様を通して、聖い神様の御前に出て行くことができるのです。
どのようにすれば、聖い神様と交わりができるのでしょうか。イエス様を信じた時から、神様と共に歩む人生が始まります。6-7節。私たちが福音に応じて生きるには、神様と交わり、神様と共に歩むのです。私たちの身分が変わります。以前は、サタンのしもべでしたが、イエス様のしもべとなります。それで、光なる神様とともに歩む人生となります。
信仰の父のアブラハムは、75歳の時、召しを受けました。その歳に御言葉が彼を捉えたのです。自分の思うままに生きる人生でなく、神様に従って行く人生を始めました。その時から彼の力ある人生が始まりました。彼から多くの神の民が増え広がりました。世で言えば、静かに退く時期です。それなのに、彼は、誰も味わったことのない偉大な人生を75歳から始めたのです。御言葉に聞き従って生きる生活を始めました。これが、神様と共に歩む人生であり、神様との交わりのある人生です。
また、信仰の先祖と言われるエノクは、「エノクは神とともに歩んだ」と言われた人です。創世記5:24。エノクの人生は、神様と共に歩んだ人生です。彼にあっては、すべてのことにおいて、神様と同行する人生でした。彼は死んだとは記されず、「神が取られたので、彼はいなくなった。」と記されています。神様と同行した彼は、神様の栄光に入れられたのです。
神様と交わり、神様と共に歩む人生がどんなに素晴らしいものでしょうか。神様の計画に導かれ、力と祝福にあふれる人生を生きるのです。神様の愛と恵みが、自分を通して出てくる生活となります。世にある物を集めることが人生の目標ではなく、神様に用いられることが人生の目標になります。結局は、世の祝福も受けるようになります。
神様は、新たに神様の品性をくださいます。罪の性質は残っているけれども、キリストの香りを放つようになり、イエス様に似た者に造り変えられるようになるのです。「光の中を歩む」というのは、新しい霊的性質が自分の導くように委ねることです。「罪を言い表す」ということは、どんな尊いことでしょうか。罪の赦しを受け、主の恵みが回復します。神様との交わりは、御言葉と祈りを通して始まります。イエス様を信じて、御言葉に聞き従うなら、私たちも、アブラハムやエノクのような偉大な人生が始まります。詩篇89:15。エペソ5:8。
Tヨハネ
1::5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ルカ8:17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。
詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
詩篇89:15 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。
エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。