2012年10月21日「聖さへの招待」Tヨハネ2:1-6
              
序−クリスチャンになったということは、特別な聖さに招かれています。私たちがクリスチャンとなったことは、神様の生きておられる交わりに入れられたことであり、その罪をイエス様の血で洗われたことでした。でも、罪の性質はなくならないし、罪を犯してしまうものです。どうすれば、いいのでしょう。イエス様の尊い犠牲は、そこにも働いています。

T−私たちに最も重要なこと−
 クリスチャンとなることは、神様が願われる人生を生きることです。それが、罪に打ち勝つ聖い人生を生きることです。神様が、私たちの罪を直して美しい人生を生きるように私たちを御言葉へ招いておられます。1節前半。神様は、私たちに対して、「私の子どもたち」と、呼びかけておられます。それは、成長し始めた幼い聖徒たちに与えられた重要な教訓だということです。成功するクリスチャンに重要なことは、聖書の知識が多いことでも、神秘的な体験をすることでもありません。もっとも重要なことは、罪を犯さないようになるということです。
 まず、私たちが「罪を犯さない」ということは、何を意味しているのでしょう。私たちは、この世においてまったく罪を犯さない正しい人になれるということでしょうか。そうではありません。私たちは、人である以上まったく罪を犯さないということはできません。私たちが神様を知らないならば、罪自体を知ることはできません。それだけでなく、罪に対する感覚自体がないために、罪の中で生きながらも、罪がわかりません。むしろ当然のように、罪を美化視さえしています。それが、この世の姿です。
 私たちが神様を知るようになる時、もっともよく現れるのは、罪に対する羞恥心です。そして、罪がどれほど私たちのうちに根を張っているか、どんなに罪を知っても避けることができないことを悟るようになるのです。神様の恵みを受けて喜んだとしても、昔の無感覚に戻って、罪を犯してしまうのです。人を悪く言うなら殺人を犯しているとイエス様が言われた例を挙げましたが、噂話をしたり、悪口を言ったりしなかったでしょうか。
 クリスチャンにとって最も重要なことは、絶えず心の中に起こって来る罪に気付いて、打ち勝とうとするか、ということです。人の心に罪の根が深く張っています。それで、どんなに世で人が望むことを得たとしても、まことの幸いはありません。重要なことは、罪に打ち勝って、罪を犯さない生活ができるかということです。多くの神様の恵みを受けるようになります。神様の糧をいただけます。神様の御力が現れるようになります。罪が神様からの祝福を塞いでしまうからです。

U−罪に打ち勝つことができる根拠−1-2
 私たちが罪に打ち勝つことのできないのは、罪が行動の問題ではなく、考えの問題だからです。行動では悪いことをしなくても、悪い考えをするだけでも、罪を犯すことになります。私たちの考えは、自由奔放で、でたらめで、悪いことを口にしがちです。私たちの力では、絶対に罪に打ち勝つことができないのです。罪の穴から抜け出すには、まず自分自身が悟ることです。誰かがどんなに助けようとも、自分が悟らなければ、だめです。
 悟っても、自分の力では、罪から抜け出すことはできません。自分でどんなに嫌って、悔いても、どうしようもないのです。ですから、罪の問題を神様との関係で見なけれならなりません。信仰で考えるなら、驚くべき解決の道があることを知ります。
 神様が備えて下ったことは何ですか。1節後半~2節。私たちがイエス様を信じた時、罪の赦しを受け、新しい身分を与えられました。しかし、私たちは、長い間罪の支配を受けていたために、罪の誘惑や衝動を受けると、簡単に罪の性質に戻ってしまいます。たとえば、艱難に会ったり、争いに陥ったりする時です。そのような私たちには、「弁護してくださる方」がいるのです。私たちが罪を犯して責め立てられる時、私たちがイエス様の御名によって悔改めの祈りをささげるのなら、イエス様が神様の御前で私たちのために、弁護人としてとりなしてくださるのです。
 この弁護してくださる方とは、「助け主」とも訳されています。ヨハネ14:16-17。イエス様の御霊様が、信じた者のうちに宿り、とりなしをしてくださっておられるのです。肉の思いのためにどう祈ってよいか分からない状態の私たちのためにも、御霊がうめきながら、としなしてくださり、私たちが祈れるようにしてくださいます。ローマ8:26-27。裁判のように、私たちが罪のために、神の法廷に引き出されたと想像してください。そこでイエス様は、私たちの弁護をしてくださるのです。「わたしがこの人のなだめの供え物となりました。赦してください。」と、私たちのためにとりなしてくださるのです。ローマ8:33-34。罪のために、神様との関係が悪くなります。誰かが間に入って仲裁をし、代わってなだめる必要があります。関係を回復させる働きをします。イエス様は、私たちと神様との間に来られて、十字架に釘打たれて、苦しみ死なれることで、なだめの供え物になってくださいました。そして、神様の罪への御怒りをなだめてくださいました。
 それでも、変わらないでいるのでしょうか。肉の思いで、自分中心で生きるのでしょうか。どんなに頑迷な者でも、どんなに忘恩な者でも、このとりなしのイエス様の愛に、頑なな心が解かされ、イエス様に主導権を明け渡し、変えられようと主に委ねるようになるのです。私たちは、主の訓練に自分を委ねたいのです。神様との関係が回復され、私たちに驚くべき祝福と御力が注がれるようになります。

V−神様の招待−3-6
 人は多くのことを学びます。学ぶ場合、頭だけで学ぶことと人格的に学ぶことがあります。頭で学ぶことは、人格形成に助けとはならず、時間が過ぎれば、忘れてしまいます。人格的に付き合いながら学ぶ場合、忘れることがないだけでなく、人格形成に重要な土台となります。ですから、神様の御言葉は、神様と交わりをしながら学ぶ実際的、人格的なものにならなければなりません。私たちは、多くの艱難を通して神様の御言葉を人格的に受け止めるようになります。それまで知識に過ぎなかった御言葉が、困難にぶつかりながら、一つ一つ自分に必要な糧となるのです。一人で罪を遠ざけ、断ち切ろうとしても、だめです。神様の御言葉を行うことが必要です。3節。これが、聖さです。
 私たちに、自分を変える力はありません。神様の御言葉には、力があります。私たちが聖い生活をすることは、単純に罪から遠ざかることだけではありません。罪から遠ざかるのは、積極的に神様の聖さに生きるためだからです。そして、私たちが世に生きている間、神様の御言葉を行うようにされます。神様の命令とは、何なのでしょう。神様の愛をほかの人々に分けてあげることです。神様は、私たちが他の人を認め、受け入れることを願っておられます。3:23。
 世の人は、誰かから認められれば、自分の価値を見出だすことができます。人が自分に罪を犯し、悪いことをする場合、その過ちを赦してあげることが、私たちの勤めです。その人は、神様の愛を知るようになります。私たちは、耐えず神様の御声を聞きます。ヨハネ14:26。それは、今の自分の置かれている立場、状況で、人のために何かしなさい、という御声です。そうやって、神様が私たちの内なる人を造り出してくださるのです。
 しかし、できるのに、完璧主義のために、しないままが多いのです。私たちは、少ない不足した愛を実践することが必要です。大きなことでなくて、小さな助けをするのでも良いのです。そうして御言葉を実践して行けば、神様を知っているということになります。そして、御声が聞こえてくるようになります。私の中に起こる善なる考えは、私への神様の命令です。失敗したらとか考えて、実践しないことも多いでしょう。イエス様が話をされた二人の息子の息子の話では、兄息子は、父親から畑で働くように頼まれた時、行きますと返事をしながら、行きませんでした。弟息子は、行かないと返事しても、良心が痛んで、後で行きました。ルカ15:11-32。
 学んでも実践しないなら、鏡を見て忘れる人でなるために、真理はその人にありません。4節,ヤコブ1:23。神様の愛はとても小さいことから始まります。小さい愛を実践しても、どれほど喜ばれるか分かりません。私がすることを通して、神様の愛を行うことになるからです。5-6節。「神様の愛がまっとうされる」とは、御言葉を純粋に行う人を通して、神様の愛が十分供給されるということです。神様は、聖い純粋な人を通して、完全に働かれるのです。それは、その人が神様のうちにいることに分かります。
 人は、自分の幸福を追求しますが、神様の祝福を世にもたらす人を通して、多くの人が生きるようになるため、結局は自分も生きるようになります。その例を5千人の給食に見ることができます。ヨハネ6:9-13。私たちは、神様から自分が生きる道ではなく、他の人を生かす招きを受けました。人を幸福にしたら、自分はどうなるか心配するのは、サタンのさせる疑いです。残りが12のカゴいっぱいになったことを考えましょう。残りだけ食べても、私たちは幸いに生きることができるのです。ヨハネ14:21。
 


Tヨハネ
2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
2:2 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
2:3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。



ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

戻る