2012年10月28日「古くて新しい命令」Tヨハネ2:7-11
序−クリスチャンになるということは、身分が変わることだと言います。しかし、それは、結婚して名前や家が変わるとか、仕事で服装や生活環境が変わるとかということではありません。イエス様を信じることで、罪の奴隷身分から、義に生きる神の子どもとなったのです。神の子とされました。この身分変化を悟らなければなりません。
T− 新しい命令と古い命令−7
7節。使徒ヨハネは、この手紙を受け取る聖徒たちに対して「愛する者たち」と呼んでいます。自分勝手な者たちとか、罪人たちとは呼んでいません。こう呼ぶのは、手紙を読む私たちが、神様の愛を受ける者になっている者だという意味です。神様の御怒りの子ではなく、神様の愛する子だという意味です。
この愛の命令は、新しい命令ではなく、昔からある古い命令だと言っています。たとえば、「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」レビ19:18。律法も根本的には、愛の命令です。病気になったとき、痛みが生じてこそ、検査をして原因を調べます。それと同じように、律法は、むしろ罪を明らかにされて痛むけれども、罪を知ってこそたましいの医者であるイエス様のところに行って、治療を受けるようになるのです。
イエス様の救いを受けて、私たちは罪の奴隷から神様の子どもにされました。とんでもない身分の変化です。それは新しい人になることであり、価値観が変化します。世のことがすべてではないことが分かります。「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」マタイ16:26。まことのいのちが大切だということが分かります。
すべて自分中心という価値観から神様中心に変わって行きます。神の子どもとして生きなければ、と思うようになります。罪から遠ざかろうとします。うそや、噂話や悪口を控えるようになります。神の子どもとして神様の栄光をあらわそうする生き方へ変わります。ウエストミンスター小教理問答第1問。イエス様との交わりに生きて、神様の愛の命令のために用いられる者となります。
引用された古い命令は、まずは、「復習してはならない」と命じていました。それは、神様の仕事だから、するなということです。裁きは神様の領分です。ローマ12:19。復讐しないことができたら、「憎んではならない」と命じています。神様の祝福と守りの中にあった神の民は、どんなに恵まれていたことでしょう。そして、最後「隣人を愛しなさい」と命じています。それも、「あなた自身のように」と言っています。神様の命令だからということでしたが、人の力で中々難しかったようです。
U−憎しみから開放、兄弟愛の命令−8-9
しかし、私たちがイエス様の十字架によって救われたことで、一大変化が起こります。神の子どもされて神様との新しい関係が形成されただけでなく、同じくイエス様を信じる兄弟姉妹たちとの関係も変わりました。新しい命令は、「互いに愛しなさい」という命令です。ヨハネ13:34。イエス様の十字架による救いは、罪の赦し、永遠のいのち、神の子どもとするばかりでなく、兄弟姉妹を愛する者に変えるのだと言います。それは、人生と生き方を変えます。8-9節。私たちがイエス様を知る前は、暗闇の中にi居たと言っています。罪の奴隷となって生きていたと言います。怒ったり、憎んだり、妬んだりしていました。サタンがそうさせたのです。エペソ2:1-3。
世の問題や人々は、人の心や生活を踏みにじります。踏みにじられた心には、憎しみが生じ、死ぬときまで憎みながら生きて行きます。それが「やみ」です。古い戒めでも「憎んではならない」と命じていましたが、それは神様が命令だからという拘束力でした。しかし、新しい命令は、イエス様の十字架の救いに原動力があります。
イエス様の十字架という神の愛がすでに与えられたので、憎しみが癒され、解放されていくのです。憎むことも自分の心を痛め、傷となります。憎むことになったのも人の言動に痛め付けられ、傷を受けたので、二重の被害を受けることになります。そこから解放してくださるのが、イエス様の十字架です。イエス様が十字架で私たちの罪を負われ、その打ち傷によって、私たちは癒されたのです。Tペテロ2:24。
人の愛には、条件があります。親の愛でさえもそうです。もっと良い子であれば愛するのに、反抗を止めて親に従い、感謝すらなら愛せるのに、というような条件をつけます。どうやって条件なしに人を受け入れることができるのでしょうか。神様はイエス様の十字架のゆえに私たちを子どもとして受け入れ、愛してくださいました。あなたがたもそうしなさい、と神様は言われるのです。
私たちは、生身の人間なので、好き嫌いがあります。人の状態や条件に従って態度を変化させるでしょう。しかし、障害のある人を助ける人は、認められようとするのでなく、何かを期待するのでもありません。自分ができることで、少しでもその人の不便を減らしてあげようとするだけです。私たちは、私たち自身神様の愛を受けた者だと知るなら、他の人の愛を受けるよりは、自分が人をもっと幸いにすることを願うようになるのです。なぜならば、自分はすでに神様の愛を多く受けているので、人の愛を受けるより、人が神様の愛で立っていけることを願うようになるのです。一人一人が、神様の愛する大切な人だと悟るようになります。
「兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」と言っています。福音によって新しい人となり、新しいいのちに生きていかないと、嫌いな人もいて、憎しみも生じるようになります。「憎む」とは、神様の光で見るのでなく、自分のはかりで判断し、裁くのです。どんなに祈りが多くても、聖書を多く読んだとしても、憎むことをするでしょう。
本当に福音で生まれ変わっていない人は、自分自身をも赦すことができません。これも足りないあれもできてないと罪意識を感じるのです。しかし、これを自分に対してだけにとどまらず、他の人に対してもそうしてしまうのです。そうして断罪するのです。それは、今もなお闇の中にいるのです。自分の思うようになりないなら、恐ろしい憎しみや怒りを浴びせるのです。しかし、イエス様の光の中を歩むなら、そのようになりません。ヨハネ自身、「雷の子」とイエス様にあだ名された人でしたから、ずいぶん人を怒り、憎み、断罪した人だったのでしょう。その人が愛に満ちた人に変えられ、この手紙で主の愛を伝えているのです。
V−つまずくことがない信仰−10-11
福音的な信仰の特徴は、つまずくことがない信仰だということです。これは、大変重要な表現です。10-11節。ここに闇の中を歩む比喩と目が見えない比喩があります。目が見えな時、一歩一歩注意しながら進むしかありません。漆黒の夜なら、目の見える人でも、見えません。水溜りに足を踏み入れてしまうでしょう。本当にイエス様に出会って、新しい人になっていないなら、そのようになると言うのです。何でもつまずくのです。
世の中では、関係をわきまえ、自分を出さないなら、あまりつまずきが起こらないでしょう。クリスチャンは、そうはいきません。なぜなら、親しくなって肉の自分を出して、傷つけてしまう恐れがあるからです。しかし、聖霊の導きの中で交わりするなら、むしろもっと自由にすることができます。ガラテヤ5:13。肉の思いで交わりすることがなく、自分の思い通りにならないとだめということもなくなります。楽に受け止め、愛する交わりをすることができるようになるのです。そして、すべての聖徒が同じ主にある人となるからです。自分にできないことは主がしてくださると考えるなら、負担が少ない交わりとなります。
しかし、憎しみがあるなら、つまずきがない交わりをすることはできません。好き嫌いが生じることになります。私たちが、主にあって新しくされるなら、世のことについても、つまずかないようになります。クリスチャンは、神様の御心を知るので、はじめは何も思い通りにはできません。しかし、この世は私たちの信仰の実践するところです。私たちの畑であり、職場です。結局、神様が自分に下さる領域で最善を尽くす時、誰よりも大胆に神様の御心をなすことができるのです。
クリスチャンは、まるで道路を作る人のようです。作るのは大変だけれども、いったん作られれば、スムーズに大勢通ることができます。罪のまま歩むのは、石につまずき、木の根につまずきます。しかし、神様の御言葉と信仰で歩むなら、道路を作るように、はじめは労苦があっても、後には自由に神様の恵みを受けながら人生を生きることができるようにます。イエス様に救われた私たちは、光の中を歩むことができます。エペソ5:8。世の困難も、神様の愛に勝てるものはありません。今私たちは、すべてのことを新しい目で見ることができることを願います。神様が下さる力と恵みの中ですべてのことを成し遂げる信仰の人となることを願います。Uペテロ1:10。
Tヨハネ
2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。
2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
レビ19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
Uペテロ1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。