2012年11月4日「神のみこころを行う者」Tヨハネ2:12-17
序−先週10月31日は、宗教改革記念日でしたが、当時の間違った信仰にプロテストして、教会が聖書信仰を取り戻した歴史的な出来事でした。とりわけ長老教会はカルヴァンからはじまり、宗教改革に基づいています。現代も継続して、まことの信仰を勝ち取って行かなければなりません。ヨハネの手紙の時代も、信仰の試みが吹き荒れた時代でした。
T−小さい者、父たち、若い者たちに必要なこと−12-14
「小さい者たちよ(子どもたち)、父たちよ、若い者たちよ」と呼びかけています。12-13節。それは、年齢的なことではなく、様々な霊的状態にある人々にあてて書いたということです。
まず、「子どもたち」の特徴は、イエス様の救いによって、罪から解放された喜びあります。ただ、まだ御言葉の養育、信仰の整えが少ないということです。14節a。「小さい者たちよ。〜あなたがたが御父を知ったからです。」というのは、「小さい者たち」に必要なことは、神様が罪人をイエス様にあって値なしに赦してくださり、ご自分の子どもとしてくださったという事実をしっかり握れということです。そこから信仰の成長がはじまり、そこに信仰の原動力があります。ところが、自分の力で聖い生活をしようとか、自分の努力で霊的成長できるというように考えることがあります。それは、不可能なことです。人の行為を通しては罪の赦しを得ることはできないからです。自分の力による信仰は、苦しく暗い信仰です。
当時は、1世紀末の頃で、キリストが広がって行くに連れて、間違った信仰が起こっていた時代です。ギリシャ哲学の影響を受けたグノーシス主義信仰にこの手紙を受けた聖徒たちも揺さぶられていました。今日も聖書信仰ではない間違った信仰が私たちを試みています。それは、恵み中心でない、福音中心でない、人の知性や力が中心の信仰です。御霊の原理ではなく、肉の原理になってしまいます。ローマ8:2-7。そうすると、すぐに否定、不満、批判という肉の思いに引き込みます。この間違った信仰の攻撃を一番受けるのは、この小さい者たちと言われる人々です。肉の思いで迎合するのは、注意しなければなりません。
「ただイエス様の十字架を信じることで、何の代価もなく、神様は私の罪を赦してくださった。」小さい者たちは、この信仰で自分のたましいを取り戻し、生きておられる神様と出会うことが大切です。ただ、この御父の愛を褒め称えることです。このことをしっかりしておくだけで、攻撃や試みから守られます。試みる者たちと戦うことはありません。
次に、14節b。「父たちよ。〜あなたがたが、はじめからおられる方を知ったからです。」というのは、「父たち」(大人の者たち)が、全体的な神様の計画をよく知っている人々だということです。私たちの救いは、神様が世のはじめから計画され、行われたことでした。イザヤ書でも学んだことです。彼らは、御言葉の訓練を受け、霊的に整えられている人で、聖書の原理を全体的に知っており、御霊の原理によって生きていこうとしている人々です。父たちは、人の知恵に陥ることなく、騙すサタンの策略にかかりません。パリサイ人的な試みにも、動じることはありません。間違った信仰の人々も、試みようとしなくなります。
今日のクリスチャンに問題なのは、聖書を全体的に読まない、聞いていないということです。都合のよいところだけ聞こうとするのです。罪や悔い改めを聞こうとせず、肉の思いを満足させることだけ聞く姿です。大変危うい姿です。激動の時代にあって、その中を歩んで行くようにさせるのは、ただ神様の生ける御言葉に聞きしたがうことほかありません。
霊的に造り変えられて、すべてのことを神様の救いの計画の中で見ることができる知恵が必要です。たとえ試みの中にあっても、神様の導きの過程にあると思えば、倒されることなく、神様の時を待つことができます。気分で信仰するならば、あっという間に試みに倒されてしまいます。そばに「父たち」の信仰がある人がいれば、騙されたり、試みに陥ったりすることはありません。助けてもらえます。
そして、14節c。「若い者たちよ。〜あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」と書かれているのは、彼らが、御言葉の真理をもって霊的戦いに打ち勝つことのできる人々だということです。彼らは、御言葉の真理をもって、当時のクリスチャンをゆさぶっていた偽りの教えを退けました。教会には、真理をもって偽りの教えと戦うことのできる信仰の勇士が必要です。戦うと言っても、争うのでなく、御言葉をもって対するということです。
今日も、御言葉中心、福音中心ではなく、人の考え、人の思い中心のまちがった信仰があります。御言葉は何と言っているか、イエス様が喜ばれるかということで判断するのでなく、自分はどう考えるか、自分の思いはどうかで歩む信仰の人々が多いからです。現代哲学の影響を受けて神学は曲がり、肉に属する人によって、教会はねたみや争いで揺らされています。Tコリント3:1-3。正しい聖書信仰に立つならば、試みに揺らされることはありません。
U−世を愛するのでなく、御言葉で生きる−15
内なる試みや戦いがあれば、外なる試みや戦いがあります。世に生きる聖徒たちには、思い惑いや試みがありました。それで、「世を愛するな」と言っています。15節。こう言うのは、世を愛することが、神様に敵対することになるからです。ヤコブ4:4。世や世にあるも愛する人の中には、神様への愛がなくなるからです。世のことはだめだ、世捨て人になれということではありません。世を愛するの「愛する」とは、それが一番大切、それに心が向かう、それで心が占められるということです。神様を愛する、御言葉中心の信仰がなければ、私たちは世にあてしっかり生きて行くことができません。悲惨な状態になります。
「世」には、三つのことが考えられます。一つ目は、「世にある人」を意味します。ヨハネ3;16で「神が世を愛された」というのは、「世の人を愛された」ということです。世に生きる一人ひとりを愛されたということです。滅び行く私たちを哀れんで、ひとり子イエス様を送られたのです。私たちは、世よりも私たちを愛してくださった御父を愛するのです。
二つ目は、「私たちが生きる社会」のことです。マタイ5:14で「あなたがたは、世の光です」という時、世とは、私たちが生きる社会のことです。世を愛するなと言っても、神様は、決して私たちが社会から逃避して生きることでなく、社会で重要な美しい役割を果たすことを求められます。それは、私たちがイエス様を信じて新しい人に変えられるからです。イエス様の御霊が内住されているから、そうできるのです。
三つ目は、「世の生活方式や価値観」ということです。世を愛するなとは、世の価値観や生活方式に従うなということです。現代社会の混乱と様々な事件がそれを物語っています。イザヤ書を学んで、神の民が周りの国々の影響を受けて、ひどい状態になって行くのを知りました。肉の思いは、世の方式を好むからです。神様を愛することで、そうなることから守られます。神様を褒め称え、神様に従うなら、御言葉の原理で生きて行きます。世を愛することと神様を愛することは、調和しません。結局どこに心を向けているかが、その人の心と人生を決めて行きます。御父は、私たちに良いものを与えてくださいます。ローマ8:32。
世は、肉の心には欲しくてたまらないものに見えます。世を愛すると、どのようなことが出て来るのでしょうか。16節。三つ表現されています。一つは「肉の欲」です。「肉の原理」とか「肉に属する」とか言われたことで、罪の思いのことです。世を愛すれば、肉の原理で生きて罪を犯し、肉に属する人となってねたみや争いを生じさせながら、生きることになります。それは、空しい、証しにならない姿となります。
二つ目は、「目の欲」です。目は欲の門と言われます。誘惑や試みは、外から目を通して入って、欲と罪の行動へ誘います。人は自分の感情や考えは大して堕落していないと思います。しかし、世を愛すれば、際限なく目から入り、惑わされます。目に映るものに囚われ、罪に惹かれて行くのです。だから、神様に心を向けなければならないのです。
三つ目に「暮らし向きの自慢」です。暮らし向きと訳されていることばは、財産や所有物とも訳されることばです。「富や地位、生活ぶりの空しい誇り」という意味になります。世の価値観に囚われると、どうしても、財産や生活ぶりの誇りに心が向きます。自分が世で価値ある者だと人の前で誇示するのです。世の価値観では、人から認められたいのです。自分だけでは、自慢することができないからです。本当に私たちが誇ることができるのは、信仰によって変えられた姿です。
世と世の欲は一時的に過ぎません。17節。それらで永遠に満足することはできないからです。世の流行は変わり、人の好みは移り気が多く、飽きが来ます。世に永遠に続くものはないからです。世も御手の中にあります。神様の計画でどのようになるのでしょう。ただ、神様のなされることだけが永遠に残ります。御言葉は変わりません。Tペテロ1:25。私たちは世を愛して何かを得ようと目を血走らせ、走り回るのではなく、内なる人を健康にするようにしましょう。御霊で用いられましょう。私たちの人生が神様の美しい作品となりますように願います。ヨハネ16:33。
Tヨハネ
2:12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
2:13 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
2:14 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
Tコリント3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
ヤコブ4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」