2012年12月9日「憎むことと愛すること」Tヨハネ3:10-18
              
序−憎しみは、人間の最も基本的な感情だと言えます。小さな子どもから老人まで持っている感情です。人々が対立し、紛糾するところに生じるものです。憎しみは、自分を守りたい本能的から出て来るものです。自分の何かを守ろうとして敵対し憎み、自分にないものを妬んで憎みます。人から心傷つけられ、憎みます。誰でも、憎しみは経験します。
 しかし、クリスチャンは、このような憎む感情に、愛で対さなければならない人です。なぜなら、憎む感とは、根本的には愛を受けられないので出て来るためです。たとえば、父母の愛を受けられないと、荒く攻撃的になる傾向があると言われます。私たちは、神様の愛を受けて、心潤わされ、人がなぜ憎み合うのか知るようになり、憎しみに打ち勝って、人を愛するようになります。

T−二種類の人々−10-12
 聖書は、世に二種類の人がいると言っています。10節。それは、神様から生まれた人と、サタンから生まれた人です。それは、人類の始まりからあると言います。13節。カインとアベルは、兄弟であったけれども、一人は神様の子どもとされ、一人はサタンの子どもとなりました。子どもというのは、その品性や気質を持つという意味です。神様の子どもは、神様を知って神様に似て行く者です。しかし、神様を知る前は、サタンの性質を受けていた者でした。その時に心に働いていたのは、憎しみでした。しかし、神様を知った後には、もう悪の本性に支配されなくなったのです。
 カインは自分の罪のために神様から愛されなかったことで、アベルを妬み、憎んだのです。神様の子どもでない者は、自分と違うものを見れば、嫌い、憎むのです。人の良いものを見れば、妬み、ひねくれ、憎しみが生じます。それが、サタンの子どもの本性です。エペソ2:3。
 人には、二つの食料があります。一つは、肉体を成長させ維持するための食料です。食べて生きなければなりません。もう一つ重要な食料は、愛です。愛を受けなければ、人として育ち、人としての役目を担うことができません。その愛をくださる方が、神様です。しかし、人は罪の中に陥っているために、神様の愛を受けることができません。愛が欠乏すると、心の中に憎しみと妬みが満ちて来ます。そして、他の人の愛を受けようと、動物のようになってしまいます。人は愛に飢えており、愛するすべを知りません。愛したとしても、利己的に愛するに過ぎません。
 しかし、イエス様を信じる者には、神様の愛が臨みます。11節。愛の元はイエス様です。誰かか自分のために死んでくださるほどに愛してくれる。そんな愛を聞いたことがありますか。神様は愛される資格がない私たちのために、ご自分の一人子イエス様を死に渡されるほどに愛してくださいました。私たちがこれを信じる時、神様の愛が入るようになります。そして、自分がこのように大切な存在であるという思いを持つようになります。自分を愛する人は、人を愛するようになります。マタイ22:39。
 私たちの中に罪の本性がある状態で神様の愛が臨みます。神様は、そのような状態で、「人を愛しなさい」と言うのです。これは、私たちのうちに人を憎んだり、怒ったりする心が出て来ても、そのような憎しみや怒りに翻弄されるな、愛する心が打ち勝つようにしなさい、と言われたのです。悪い思いや罪の考えがあっても、愛の心が出て来るようになるというのです。私たちが、完全に人を愛するようになれるということではありません。神様は、私たちが不完全な状態でも、人を愛することを喜ばれます。

U−クリスチャンという自尊心−13-14
 しかし、人を愛する場合、多くの困難があります。クリスチャンだと言っても、心の中には罪の本性が残っています。サタンの子どもであった頃の気質が残っています。私たちは、愛の気質で憎しみの気質に打ち勝つのです。自分だけ人を受け入れて愛するなんて損だ、という思いが生じて来ます。人を憎まないで世を生きて行くのは無理だ、という考えが起こります。でも、私は主に愛されている者だ、という思いが勝るのです。
 世は、理由もなく私たちを憎むことがあります。クリスチャンだということで憎まれることもあります。それは、世の人と違うところがあるためです。13-14節。「憎まれても、驚くな」というのは、人から憎まれる時、私たちは、自分の欠けや不足のためではないかと考え、神の子どもとしての自信感、自尊心を失い易いからです。それは、自分に対する人の態度で、自分自身の価値を判断するからです。人が自分を重要だとしてくれるなら、自分は重要だと思うからです。私たちが覚えなければならないことは、自分は神様の子どもだ、神様に愛され祝福を受けている者だという満ち足りた思いです。人は、制限され足りないから、競争し憎み合うのであって、豊かで満足していれば、憎むに必要はありません。
 世の人が神の子どもを憎む理由の一つは、霊的劣等感のためです。世の人は地位や財産のために多くを犠牲にし、その価値を認めることを求めます。しかし、神の子どもは、それがすべてでないことを知っています。それより、一人の存在を大切に思い、一つのたましいの救いのために努力します。そして、神の民が神様の祝福を受けます。それを、人々は見て、憎むのです。もちろん、世の人の憎しみは、神の民に現実を悟らせる助けともなります。世の困難に出会ってみれば、思いを整えて、現実に適応した信仰を持つようになります。
 ですから、憎まれたからと驚き、敵対するのではなく、受け入れて、励まして、大切に思って対することが重要です。人の憎しみを受けながら、愛で受け止めてあげれば、人の自尊心も回復し、良い影響を与えるようになります。私たちは、互いをどんな目で見なければならないのでしょう。それは、互いの中に美しい部分を探すことです。どんなに不足した人でも、必ず美しい点があるはずです。それでもって、互いを受け止めなさいと言うのです。そのようにして交わりを持つことができます、それは、私たち互いのためでもあります。

V−愛されている者は憎まないで、愛します−15-16 
 もし私たちが人を憎むなら、それがどんなに危険なことか教えています。15節。人が誰かを一度憎むなら、一度で終わりません。その人のすべてを嫌うようになります。さらには、存在さえまでも憎むようになります。人を憎む心を持つならば、互いの心が死ぬようになります。憎しみを爆発させれば、相手の心が傷つき、爆発させなければ、自分の心に憎しみが満ちて患うようになります。
 クリスチャンとは、どんな人ですか。すべての人が神様のかたちに造られた存在であって、人の憎むことは神様に仇なすことだと知っています。人が、自分に良くないことを言ったり、行動したりすることについては、その人がよく分かっていないと思えばいいのです。自分によくない態度を見せるのは、その人の状態が悪いためだと理解するのです。人が気分を悪くして敵対して来ても、自分まで気分を悪くする必要はありません。自分の受け止め方で気分は違います。憎む者に善を返すのです。ルカ6:27。
 世の人が怒りの感情を我慢すれば病気になりますが、神の民の場合は、怒りを我慢しても病気になりません。イエス様を信じて受けた聖霊が、私たちの怒りの感情を治療してくれるからです。神様の子どもとして愛されている、という自尊心があるためです。人を憎む者は、神様によく造られたのに、神様から離れ、神様の愛が分からないために、自分をひどい状態にしているのです。黙示録3:17。イエス様を信じてからは、聖霊が注がれ、神様の愛が臨むなら、人は素晴しく造り変えられるのです。
 人がイエス様を信じて神の子どもとなる時、悟ることは何でしょうか。自分の存在が大切だけでなく、人の人生も大切だということです。人の最も恐ろしい罪は、人の幸いを壊しながら、自分の幸いを追及することです。人の幸福を奪う資格は、誰にもありません。人を愛するとは、誰もが幸いになる権利を持っていると認めることです。もう一歩踏み出すと、人の幸いのためにどんな犠牲を払い、何を放棄すればいいのか、ということを考えるようになります。16-18節。人を愛するようになれば、自分の幸福を追求することも大切ですが、人を幸いにすることは、もっと大きな喜びとなると知るようになります。自分の救いも喜びますが、人の救いの助けとなれるなら、もっと大きな喜びとなります。
 私たちは、お金を稼いで美味しいものを食べて喜びますが、自分の持てるもので人を助けることも喜びになります。イエス様は、私たちが救われて幸いと祝福を受けるのを見るために、ご自分の命を捨てられました。ですから、私たちもその心を受け継ぐことを願われます。これは、どこの誰にでも要求できるものではありません。神様の愛を悟るようになれば、人のために自分の人生や計画を用いるようになります。
 神様は、私たちが人に対してどうかということではなく、ご自分の真実さのゆえに、最後まで私たちを愛されます。なぜ、神様は私たちを救われたのですか。私たちを救われることが、喜びだったからです。ただ何も無いような私たちを救いに選ばれました。私たちは、この主の愛によって、人を愛するのです。「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪を覆います。」箴言10:12。イエス様の愛を受けた私たちは、人を憎まないで、愛して行くのです。




Tヨハネ
3:10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。
3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
3:18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。


マタイ22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

ルカ 6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

箴言10:12 憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。

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