2012年12月16日「主は落ち込む私を」Tヨハネ3:19-24
              
序−クリスチャンは、いつも喜びと恵みがいっぱいかというと、そうでもありません。時には、落ち込み、失望落胆し、憂鬱や霊的沈滞に陥ったりすることもあります。エリヤやパウロという偉大な信仰の人もそういう時がありました。私たちも、様々なことで思い煩うことがあるでしょうし、霊的沈滞へと落ち込みます。これは、落ち込む私たちへのメッセージです。
 
T−自分の心に責められて−19-20
 クリスチャンとは、喜んで生きて行かなければならない存在です。イエス様の十字架によって救われ、罪赦された者だからです。にもかかわらず、心配や不安をさげて生きているクリスチャンもいます。私たちも、思い煩い、心配することが多いのではないでしょうか。私たちを霊的沈滞に陥らせる原因はいろいろあります。自分が持っている気質のため、現実生活で困難に出会うため、御言葉通りできないと思うため、サタンの攻撃を受けるため、世の人々からの反対や圧迫のため、肉体的な疲労があるため、といろいろあります。私たちは、どんなことで落ち込むのでしょうか。
 19節冒頭に「それによって」という接続詞がありますが、前の段落を見ると、私にはこんな愛はない、私はできていない、私はだめだという思いが自分を責めます。Tヨハネ3:16-18。自分の中にある良心が自分を責め、絶望に陥れるのです。19-20節。「自分の心が」とは、良心のことです。自分の良心が自分を断罪し、責めるのです。お前は愛がないと人から責められ、自分の良心からも責められ、落ち込みます。イエス様の救いを受けて、罪赦され、新しい人にされたとしても、まだ罪の性質が残っている私たちが十分に愛を発揮することができないためです。
 良心の指摘があることは大切ですが、すべてそのまま受け入れなければならないということではあません。私たちが知らずに罪悪に向かう時には、良心の警告は必要ですが、過剰な反応をして自分を必要以上に痛めつけることを神様は喜ばれません。居直って悪い思いのままいることは良くないですが、霊的工事中である自分を否定し、痛め付けることは主の御旨ではありません。霊的沈滞が長引くことは、マイナスになります。速やかに抜け出さなければなりません。
 不十分な愛にもかかわらす、「自分は真理に属するものである」という事実を教えています。自分は、こんなでも、変わりなく神様の真理の中にいるということで、平安へ導かれます。そこに気付かないと、不足した自分を責めます。サタンの働きは、私たちに付け入って、断罪して痛め付け、絶望に陥れることです。自分の弱さや足りないところを認めさせないで、責めるようにさせるのです。サタンの狙いは、イエス様に救われた者を落ち込ませることです。しかし、神様の御言葉は、私たちを懲らしめることはあっても、同時に治療策があります。ヘブル12:11。私たちは、自分の感情や考えを信じるのではなく、御言葉に信頼すればいいのです。
 だから、「自分の心が責めても」と言っているのです。20節。もし、私たちが自分を責めても、神様は、私たち自身が自分を責めるようには、ご覧にはならないという意味です。なぜなら、神様のお心は、「私たちの心より大きい」からです。神様は、私の弱さをすべてご存知だからです。神様が私たちを救われる時、すでに私たちの弱さを知ったからこそ、救われたのです。私たちが、神様の御前で正直であれば、神様は過ちを赦してくださいます。主は、私たちの弱さや足りなさをご存知だから、救われた後、御言葉で養い、造り変えてくださるのです。

U−信仰と現実のはざまで−21-23
 私たちは、問題やかん難に出会い、自分の失敗や足りなさに直面したり、神様の祝福や応答がなかったり時、自分を責め、落ち込んでしまいます。そこで、私たちの弱さや足りなさを知っておられる神様は、私たちを立たせてくださいます。21-22節。「自分の心に責められなければ」というのは、私たちが完全で責められないという意味ではありません。愛が不十分であっても、御言葉に従おうしていて、神様の前に純真であれば責められる必要はない、ということです。心の中に肉的な考えがあっても、結局信仰の道を選択したならば、良心の責めはありません。
 実際いろいろやってみると、うまく行かなくて、困難ばかりの場合、むしろ信仰で進んで行かない方がよかったのに、という後悔さえ覚え、神様をうらみ、自分が気付かないうちに絶望感におそわれます。そして、落ち込んでしまいます。そのような時、どのようにしなければならないでしょう。22節。神様は、どんなに絶望的な生活だとしても、私を生きる道に導いてくださいます。信仰でその道を選択したとしても、必ず成功するとは保証されません。正しいとも限りません。それは、私たちが神様の御心を間違って理解するためです。そのような時、一つのことだけ確信しなさいと言うのです。今していることが、「神様の命令を守り、神様に喜ばれることを行っている」のか、ということです。そのようにしていれば、求めるものを与えてくださり、祈りを聞いてくださいます。
 ですから、私たちが自分の欲心で出て行くことがないように、その動機を点検してみなければなりません。その神様の命令とは何ですか。23節。それは、イエス様を信じることと兄弟を愛することです。イエス様を信じるということは、すべてのことをイエス様中心にするということです。兄弟を愛するということは、兄弟姉妹を認め、良いものを分かち合うことです。水いっぱいでも助ける、ということです。マタイ10:42。そうすれば、躊躇することなく、求めるものが成し遂げられると信じなさい、というのです。このような驚くべき祈りの応答を経験することを願います。

V−聖霊の確認−24
 私たちは、聖霊の直接的慰めのよって、霊的沈滞を打ち破ることができます。24節。クリスチャンの最も重要な特徴は、聖霊の御心を知ることです。Tコリント2:14-16。主が私と一緒にいてくださり、イエス様が自分の中におられるということを、御霊様が確信させてくれます。御霊様は、私たちの中でどんなことをされるのでしょうか。それは、恵みの回復です。落ち込んでいる私たちは、その時恵みや祝福がないように思っています。
 そうです。霊的沈滞とは、神様の恵みが一時的に断絶している状態です。神様の恵みが覆われているように感じるのです。私たちは、どんなことで落ち込みますか。気質や疲れ、問題や圧迫、自分を責めることで落ち込みます。けれども、礼拝や分かち合いで御霊の治療を受けるならば、再び恵みが回復します。神様の恵みが回復されると、心が自由になり、肯定的になり、聖霊の働きが驚くように働いてくれていることに気付きます。
 人々は、困難なことで出会うと、どのようになるか予想して心配し、思い煩うのです。偉大な信仰の人も、思い惑いや悩みに沈んで、死にそうになることがあります。パウロは、主に徹底的に献身して、死を恐れない人でしたが、コリント伝道の時、言葉に表せないほどの恐れにとらわれました。主が特別に現れて、慰めて、希望をくださらなければ、絶望感から抜け出すことができないほどでした。使徒18:9-10。
 偉大な預言者エリヤも、自分一人でバアルの預言者450人と戦い、勝利しましたが、その後ひどい霊的沈滞を経験し、恐れと絶望感のあまり、自分を死なせてくれと神様に言うほどでした。T列王19:2-4。その時敵を倒す者や助けを教える前に、彼に休息を与えられました。クリスチャンにとって、最も恐ろしい敵は、困難や敵そのものではなくて、それ以前の不安や恐れ、疲労から来る霊的沈滞なのです。
 ある人は、心から神様を褒め称えた時、恵みが回復されました。その人の信仰は長い間沈滞して、心は死んだようでしたが、賛美の中で信仰の感激がよみがえって来て、涙を流しながら喜びました。イエス様の救いと神様の愛を思い出しました。心に御霊の恵みと喜びが回復し、神様の民として生きるようになりました。私たちは、礼拝を通して、神様の臨在の中で神様を賛美し、生ける御言葉を聞き、神様の癒しと励まし、慰めを受け、信仰と恵みが回復します。
 イエス様の十字架を信じて救われ、神の民として生きることがどれほど尊いことか、よく分かっていないかもしれません。そうすると、肉の思いが心に満ち、高慢になり、簡単に怒りを出し、心が神様から離れます。そうして、霊的沈滞や挫折感を感じます。しかし、自分の中にイエス様の御霊がおられることを知るようになると、その恵みが回復されます。
 今日の御言葉を通して知らされたことは、私たちが真理の中にいるにもかかわらず、恐ろしい霊的沈滞を経験するということです。私たちがしばしば霊的沈滞に陥るのは、神様の愛されていることを忘れて、自分を愛のない者と責めるからです。これほど愚かなことはありません。神様の愛を知るなら、私たちから愛は少しずつ出て来るのです。ヨハネ13:34。
 このような霊的沈滞から救い出される決定的なことは、イエス様の赦し、神様の愛です。イエス様の十字架が小さい人は、沈滞に長く陥ります。神様の愛や赦しを知らないサウル王やイスカリオテのユダは、恐れから抜け出すことができませんでした。十字架の赦しから出て来る神様の愛は、すべての恐れを締め出します。きょう、私たちの上に神様の恵みと愛があふれますように、霊的沈滞から抜け出し、愛する者となることを願います。ルカ21:34,1ペテロ5:7。


Tヨハネ
3:19 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
3:20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
3:24 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。



ヘブル12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

Tコリント2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

使徒18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ルカ21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

Tペテロ5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

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