2016年1月3日「苦難の中であふれる慰め」Uコリント1:1〜11

序−私たちは、人生においてしばしば、苦しみ、悩み、悲しむ時があります。時には絶望的な状況になる時もあります。そのような時、誰でも慰めを必要としています。しかし、慰めが中々受けられません。どうしたら慰めを受けられるのか分からないのです。

T−苦難にある人に与えられる主の慰め−3〜6
 今日から学ぶ書は、使徒パウロが問題のあるコリントの教会に書いた手紙の第二弾です。コリント教会には、混乱と争いがありました。そのような様子を聞いて、パウロは、心痛め、苦しみました。そのような状態では、コリント教会の聖徒たちも、苦しみ、悩みます。苦難を受けても、信仰によって対処できません。コリントの聖徒たちには、何が必要だったのでしょうか。型どおりの挨拶に続いて、こう書いています。3〜7節。
 苦難の中にいる者に必要なのは、「慰め」です。この3〜7節に、10回も使われています。人は、誰かを慰めようとします。苦難にある人も、慰めを受けようとします。しかし、中々人を慰めることは難しいし、受ける人も素直に慰めを受けられないのです。慰めようとする時、何か慰めてやろうという思いが起きたり、慰めを必要としながら、どうせ私の苦しみなんて分からない、と慰めを受け入れられなかったりします。苦難の中にいる時、自分のことしか考えられなくて、ますます苦しくなることもあります。
 イエス・キリストの父なる神様、慈愛の神様が、慰めを与えてくださいます。3節。イエス様が罪人の代表、身代わりとして十字架にかかられて、死なれる時、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。マタイ27:46。苦しみもだえて、祈られました。ルカ22:44。これは、人々の罪の身代わり、罪人の代表として受けた苦しみです。イエス様は、何のために苦しまれたのでしょうか。罪と滅びからの救いを与え、信じる者に慰めを与えるためです。4〜5節。
 このような救い主を与えてくださった神様は、慈愛の父であり、私たちを慰めることができるお方です。神様は、慈愛の父ですから、私たちの痛みに決して無関心な方ではありません。どんな苦難の中にいる聖徒をもよく慰めることのできるお方です。人は自分が一人だと考えると絶望します。苦難の中で、一人で放って置かれるなら、どれほど心痛むことでしょう。しかし、絶望的な状態だとしても、イエス様が来てくださり、私の代わりに十字架を担ってくださったので、神様は、私の痛みを誰よりも知っておられるので、苦難の私たちを一人で放っておかれないと信じています。
 慰めの中心には、イエス様がおられます。4節。イエス様は、あらゆる苦難をその身に負ってくださいました。ですから、今も私たちのあらゆる苦難に慰めをくださいます。イエス様は、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしのくびきを負って」と言われました。マタイ11:28〜29。イエス様とくびきで一つにされれば、一人で負うことのできなかった重荷を担い、立ち上がることができます。さらには、同じように苦しんでいる人々の苦難を一緒に負って、慰め、共に立ち上がることができます。
 ですから、使徒パウロは、私たちの苦難が他の人の慰めとなると言っています。6〜7節。苦難を自分で克服したから慰めを与えることができるというのではなく、自分の苦難を神様が慰めてくださったので、苦難にあっている人を慰めることができるということです。イエス様といっしょに生きて行きます。苦難に会っている時、誰も私のことを分かっていないと嘆くのですが、くび木で繋がっているイエス様が一緒です。イエス様は、私たちの重荷、苦難を負ってくださり、どんな時でも共にいてくださると約束しておられます。そのことから、私たちは本当の慰めを受けることができます。

U−パウロが苦難の中で受けた慰め−5〜11
 では、パウロ自身どのような慰めを受けたのでしょうか。コリント人への手紙の第一を書いた後、この第二の手紙を書く間に、大変な患難を経験したようです。「獣と戦った」エペソでの患難だったかもしれません。Tコリント15:32。恐ろしく絶望的な患難から抜け出した証しをもって、コリントの聖徒たちを慰めようとしています。5〜6節。パウロは、自分が受けた苦難と慰めをつなげています。そして、自分が受けた慰めをコリントの聖徒たちの慰めとつなげようとしています。7節。
 小アジアで福音を伝えていた時、ひどい肉体的苦痛を受け、本当に命の危険にさらされたようです。その時、あまりにも絶望的で助かる望みがまったくないようになった時、十字架に付けられたイエス様だけを考えたのです。8〜9節。驚くべきことは、神様が危機の時ごとに必ず逃れる道を開いてくださったということです。ですから、コリントの問題も主が必ず解決の糸口を与えてくださると確信するようになりました。今までは自分が苦難を受けて、自分が慰められるのでしたが、今はコリントの聖徒たちと一緒に苦難に会っているので、一緒に慰めを受けると考えたのです。
 不和や争いがあり、御言葉が正しく語られていなかったコリントの聖徒たちが、苦難の中で慰めを受けることは容易なことではなかったでしょう。そのために、パウロ自身が最も大きな危機の時の証しをしたのです。長い期間、宣教のために諸外国を旅したパウロは、死にそうになったことが何度もありました。様々な苦難を経験しました。Uコリント11:23〜29。生きることができないと絶望したこともあったようです。それにも拘らず神様は彼を守り、生かしてくださいました。
 また、肉体的苦痛も持っていました。Uコリント12:7〜10。とげという表現から、それはひどい痛みもあり、残されたままだったようです。取り去ってくださるように再三祈ったのに、治りませんでした。主が「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのを聞いて、パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています」と言いました。痛みは取り去られなかったけれども、主の言葉を通して、慰めを得たのです。

V−希望を神に置くこと−9〜11
 パウロは、このような絶望的瞬間を通して、死ぬ自分を再び生かしてくださる神様だけを見上げるようになりました。死の危険の中でも、これまで守ってくださった神様を最後までより頼んだのです。死ぬ覚悟をするような患難の瞬間、パウロは、自分がすることができることは何もないことを知りました。彼は、しばしば死にそうな苦難の経験を通して自分の体も意志も自分のものではないと分かったのです。神様が願われるなら生きるし、神様が連れて行かれるなら御国へ行くという信仰を持ったのです。
 絶望の中にある人々は、死ぬ人をも生かす神様を望みます。9節。私たちは、しばしば患難の中で死を思ったり、死にそうな危険に出会ったりします。その時、自分は神様の御手に握られていることを認めなければなりません。何もできない患難の中で、パウロが強く確信していたことは何でしょう。10節。神様が過去救い出してくださったなら、今も救い出してくださり、これからも救い出してくださり、見捨てないというのです。
 パウロは、苦しみや苦難から助け出されるのは、神様に望みを置くことだと言っています。10節。どんなに環境が良くても、人に希望がなければ苦しみに耐えることができず、生きる辛さが増します。問題や苦難の中にあっても、希望でも持つことさえできれば、生きることができます。自身が強制収容所で生き残った心理学者は、「強制収容所で生き延びることができた人は、ただ一つ、希望を持つことだった」と書いています。どんなに体力のある人でも、希望がなかったら、過酷な環境で生き延びることはできなかったというのです。どんな小さな望みでさえ持てたら、生き延びる力を与えられたというのです。
 パウロの言う望みとは、「神に置かれた望み」です。希望というと、人は自分の可能性に希望を置くものです。しかし、自分の可能性だけに希望を置いて生きようとするならば、必ず行き詰ります。本当の希望は、自分を頼りにしないところから始まります。9〜10節を見てください。もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼むのです。
 最後に、コリントの聖徒たちに、とりなしの祈りを要請しています。11節。パウロは、そのように苦難の中から救い出されたことが、聖徒たちの祈りのおかげだと考えていたのです。パウロのためにとりなし祈る人々がコリント教会にいました。互いのためにとりなし祈ることが大切です。祈られているから、神様に希望を置くようになり、苦難から救い出されます。
 パウロは、争い戦っている人たちに「あなたがたも、このような戦いをしなければならない時があるはずです。それなのに、自分の肉の思いに陥っているなら、どうすることができますか。人のあれこれを気にしていられますか。あれこれがないことで心配しているのですか」と言いたかったのです。死の絶望から生き返るなら、すべてのことが新しく見えるようになります。イエス様の十字架によって救われた者は、新しい命を経験しているのですから、人や環境に左右されず、希望をもって生きることができます。ガラテヤ2:20, Uコリント5:17。



Uコリント1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。



Tコリント15:32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

Uコリント12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

ローマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

Uコリント11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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