2016年1月10日「行かないのは思いやりのため」Uコリント1:12〜24
序−人間関係でよく問題になるのが、どうして相手は分かってくれないのか、自分は正しいことしているのになぜ、というような場合です。それで心痛めたり、憤慨したりします。こじれることもあります。使徒パウロと一部のコリント教会の聖徒たちもそのような関係になっていたようです。どのような導きが教えられているのでしょうか。
T−人間的な知恵によらず、神の恵みよって−12
まず、パウロがクリスチャンとして、考え、行動して来たことは、「人間的な知恵によらず、神の恵みによって」だと証ししています。12節。どうやらコリント教会の中にパウロの態度を誤解している人々がいたようです。「人間的な知恵」というのは、悪い意味で使っています。パウロは狡猾だ、裏表があると批判されたのです。パウロの行動は、いい加減で、不誠実だと責められました。誤解されて、そのような批判を受けて、どんなに心が痛み、悲しんだことでしょうか。私たちも、誤解され、批判され、悪く言われたなら、心傷つき、暗澹たる思いになるでしょう。また、私たちが何気なく言った言葉が人の心を傷つけるということだってあるわけです。どちらの側にもなり得ます。
その批判に対して、「神の恵みによって行動している」と弁明しています。神の導きによって、誠実に行動しているというのです。クリスチャンが考え、行動する時、神様の御心を求め、その導きに従って行くところに、神様の祝福と御力があらわれるということです。
コリント教会のことでして来たことについても、パウロ自身最善を尽くしたでしょうが、神様が計画して、導いてくださり、神様がさせてくださったことだと言うのです。Tコリント3:10。計画を立てたり、行動したりすることにおいて、クリスチャンの基盤は、「人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動する」ところにあります。ピリピ2:13。そのような価値観で生きて行くなら、「キリストが自分のうちに生きておられる」ということができるでしょう。ガラテヤ2:20。
私たちは、どうでしょうか。「人間的な知恵によらず、神の恵みによって考え、行動している」でしょうか。私たちは、聖霊に導かれて計画を立てたり、行動したりしているでしょうか。問題や出来事について、肉の思いで反応するのではなく、御言葉の価値観によって反応しているでしょうか。ここに、私たちが様々な出来事について、憤慨したり、心痛めたりすることの原因と対処の秘訣があります。この大切な基盤がなければ、どうして相手は分かってくれないのか、自分は正しいことしているのになぜこうなのだ、ということになります。
U−パウロの計画の背景−13〜20
パウロと一部のコリントの人たちとのもつれた関係にも、そのような背景があるようです。13〜14節。先にコリント教会を訪問したいということを知らせたのですが、それが問題を引き起こしたようです。もとより、パウロはコリント教会を愛して、訪問したかったのです。ところが、その思いが理解されず、コリント教会の一部の人たちは、パウロが何のために来るのか、自分たちを叱りに来るのではと考えて騒ぎ立て、パウロを悪く言い出したようです。
互いを信仰でもって受け止め合い、神の恵みによって理解し合うならば、やがて主の前に立たされる時、互いの誇りとなると言うのです。14節。その時に失望したり、後悔したりしないように、足りない者、間違い多き者としてましょうとパウロは言っています。人の救いを受ける前の気質や考え方は、重要ではありません。信じた後、御言葉によって造り変えられた姿が重要です。信じたならば、変化が起きて来ます。主の御心によって生きる者となるのです。
ところが、肉の人は噂話が好きです。パウロ訪問の知らせについてある人が悪く言いふらすと、それに影響される人々も出て来たようです。人間的な知恵を使わないというので、ある人々にとっては、パウロは冷たい、俺たちの感情に応えていないと不満を持ったかもしれません。そこにサタンが働くと、ますますひびが入ります。噂話は、するな、聞くな、反応するなと言われますが、サタンの付け入る隙を与えないことです。
ある人たちが、パウロの訪問について憤慨し、騒いだのは、訪問計画の変更でした。15〜17節。以前は、ユダヤの聖徒たちのために、マケドニヤを回って献金を集めて、コリントに来ることにしていましたが、コリントを二度訪問したい計画に変更しています。Tコリント16:1〜6。それについて、肉の思いになって、いい加減で、不誠実だ、何か裏がある、狡猾だと言い出したのでしょう。「しかり」と同時に「否」というのは、いい加減だということの表現です。自分たちを叱りに来るのかと思った人たちは、二度も来るのは嫌がったでしょう。
このような聖書の箇所は、人がどのように反応し、どのようにサタンにほんろうされるか、私たちに教えています。これは、教会でも起こることですし、私たちが置かれている社会の現場でもよく起こることです。ですから、私たちが社会で生きて行く中で出会うすべてのことへの適用の元が聖書に記されています。私たちは、主の御言葉を信じているのですから、御言葉を私たちの生活や仕事に適用して生きて行くのです。
コリントの聖徒たちとパウロのもつれは、そこで止まりません。そのようなコリントの様子を聞いたパウロは、コリント行きをしばし中断することにしました。今度は中断について不満が生じて来るでしょう。なぜパウロは来ないのか、どうして軽率に計画変えるのか、と反応するのです。それに対して、いい加減に考えたのでもなく、軽率に変更したわけでもない、神様の導きを求めて決めたことですというのです。18〜20節。人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動しています、と証ししました。
V−計画変更の理由−21〜24
この計画変更について説明するために、クリスチャンとはどういう者かということを紹介しています。21〜22節。イエス様を信じた者には、聖霊が内住しておられます。ヨハネ14:16〜17。それを、ここでは、「油をそそがれた」と表現されています。「油をそそがれた」とは、区別されたという意味です。今からは、神様の所有とされたということです。私たちも、コリントの聖徒たちもそうだというのです。「確認の印が押されている」ことも、まさに神様の所有とされたことの確認です。エペソ1:13〜14。
パウロは、自分に文句を言っている人々、誤解している人たちを、まぎれもなく救われた、聖霊が内住しているクリスチャンだ、と言っています。自分を批判している、分からず屋であっても、彼らのためにイエス様が十字架にかかってくださった、と言っているのです。パウロは、心痛めながら、悔しい思いをしながらも、神の御心を求めて祈って、思い巡らしていたら、この思いが心に入って来たのです。
私は、良いと思って決めた計画なのに、どうして誤解したり、批判したりするのだ、ひどい人たちだと責めることも出来たでしょう。しかし、神の恵みによって考えたパウロの心は、それ以上そちらには向かいませんでした。パウロは、彼らの姿を神の恵みによって思い巡らしているうちに、彼ら自身「人間的な知恵によって」そのような態度になっていることに思い当たりました。人間的な知恵によるならば、誤解もしよう、不満や文句も言いたくなるだろうと受け止めたのです。
かつての自分の姿も思い出したでしょう。これが正しいことだ思い熱心にクリスチャンを捕まえては、牢屋にぶち込んでいました。幻の中でイエス様の声に接し、それが間違いであることを悟り、回心して、クリスチャンになりました。使徒9:1〜6。教会を迫害していた自分を、神様は愛してくださり、赦してくださった恵みを思い出したでしょう。Tテモテ1:15〜16。そんな自分をはじめは疑いながらも、受け入れてくれたクリスチャンを思い出したことでしょう。使徒9:26〜28。そうしている内に、傷ついて、憤慨していたパウロの心が静まって来ました。コリントの人々の心と態度を受け止め、自分がそれに寄り添う思いになって来ました。
人間関係で痛み、憤慨する私たちも、「人間的な知恵によらず、神の恵みによって」黙想してみましょう。きっと神様の恵みに癒され、整えられるでしょう。パウロの心は、計画変更へ導かれました。23〜24節。訪問をしばし中断するという計画変更は、彼らに対する「思いやり」でした。「私は、あなたがたの信仰の喜びのために働く協力者」だとまで言っています。パウロを悩ました彼らも、「信仰に立って」いると認めています。ここには、パウロの彼らに対する愛と赦しがあふれています。
パウロの計画は、人間的な知恵によらず、神の恵みによって立てられたことでした。でも、相手がそれを理解できないなら、彼らの心情を「思いやり」、計画を変更することも「神の恵みによる行動」でした。自分の思いに固執しない姿がここにあります。主にあってすることは、気まぐれでも、迎合するのでもありません。信仰的「思いやり」です。彼らには、時間が必要でした。すぐに行かないことで、その間に彼らの心は聖霊によって整えられて行ったことでしょう。パウロは、彼らの信仰的益のために、自分の体面とか権威を放棄して、計画を変えたのです。この信仰の姿、生き方に学びます。ヘブル13:3,コロサイ3:12。
Uコリント1:12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
1:13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
1:14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。
1:15 この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。
1:16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。
1:17 そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、「しかり、しかり」は同時に、「否、否」なのでしょうか。
1:18 しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。
1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。
1:20 神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。
1:23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。
1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
ピリピ2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
エペソ1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
コロサイ3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
ヘブル13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
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