2016年1月17日「悲しみから慰めへ」Uコリント2:1〜11

序−人は、人生において様々な人間関係の中で、傷を受け、傷を与えたりしています。私たちにも、痛みや悲しみがある人間関係があるでしょうか。何かまだ心の中で赦していないことがあるでしょうか。失敗や与えた心の傷のために心塞がっていることはないでしょうか。きょうの箇所で取り扱われていることを通して、大事なことを学びます。

T−涙の手紙−1〜5
 ある人が犯した罪のために、パウロとコリントの聖徒たちが悲しんでいました。5節。二度とコリント教会を悲しませるような訪問はしたくない、かえって喜びを与えられたいと言っています。1〜2節。その問題については、どんなことなのか記されていません。ただ、「悲しませる」という言葉は、痛み、傷つくという意味の言葉ですから、それがパウロやコリント教会の聖徒たちを悲しませ、心が酷く痛み、傷ついたということです。私たちも、人間関係に傷つき、悲しみを経験しています。
 パウロは、先にこの知らせを聞いて、「大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに手紙を書きました。」3〜4節。しかしながら、パウロがその人を正すために愛をもって書いた、その意図のようには行きませんでした。噂話で揺さぶられたように、コリント教会全体を混乱させてしまったようです。
 おそらく、問題を起こした人自身、自分の誤りを認めないで、自分を正そうとする人々に反発し、反対に責めたりしたのでしょう。肉の思いでいる人は、肉の自尊心というか肉の自信のために、自分の誤りを認めないものです。人の誤りや足りなさには気付いても、自分の罪には気付かないものです。指摘されれば、怒って、心を閉ざしてしまうのです。私たちもそうではないでしょうか。過ちを指摘されて憤慨したり、反発しないでしょうか。家族や周りの人々の足りなさや誤りを指摘しても、自分のことには無感覚ではないでしょうか。マタイ7:3〜4。
 一方、コリントの人々の問題は、その人をうかつに正そうとして、自分たちが試みに会ってしまったという姿です。結果、問題は深刻なものとなりました。互いに食い合い、戦うなら、サタンが喜ぶだけです。サタンは、人の心の隙に入り込み、罪を犯させます。ルカ22:3。その人も、そうなのです。その人をうかつに責めた人々もまた、サタンにいいようにされたということです。パウロは、「あふれるばかりの愛」をもって涙の手紙を書きました。この愛は、イエス様からあふれて来る愛です。私たちが、イエス様とつながっているなら、愛が溢れて来ます。クリスチャンが一つとなるのは、権力でも、お金でもありません。このイエス様の愛です。私たちのために十字架にかかってくださった愛です。Tヨハネ4:10〜11。イエス様の愛こそが、人の罪をおおいます。Tペテロ4:8。
 教会は罪を治療するところです。肉の思いで過ごして罪を犯したとしても、主に立ち返って来るのですが、皆が悔い改めて赦しを受けるとは限りません。悔い改めることなく、反発し、攻撃する人もいるでしょう。また、自分の肉の思いや罪を忘れて、うかつに人を責めてしまうなら、その反応に傷つき、憤慨します。どこにも起きる姿です。教会がたましいの治療する機能を奪われないためには、はじめから福音で受け止め、取り組まなければなりません。私たちは、たましいを治療するという点を覚えながら、何事にも取り組むこと大切です。

U−慰めと回復−5〜8
 人の罪と取り組む時、注意しなければならない点は、罪とその人を分けて考えることです。罪を憎んで、人を憎まずと言われている通りです。罪を犯したとしても、その人格は尊重されなければなりません。戒めの目的は、健全な交わりの回復です。罪過ちを犯した人が、悔い改めて、罪を克服して、再び健全な交わりが回復されることが、クリスチャンの戒めの目的です。しかし、間違った戒めは、その人の心を傷つけ、関係回復を遠ざけてしまいます。戒めた自分も、傷を受けます。
 戒めを受ける人は、その罪を悔い改めることが必要です。悔い改めがないところにいたずらに戒めだけあっても、逆効果です。反発や攻撃を生じさせるだけです。クリスチャンにおいて、告白は重要です。私たちは、イエス様に出会い、主の御苦しみと十字架の死が自分の罪と滅びの身代わりだと知って、罪を告白し、悔い改めて、救われました。その時から霊的造り変えは始まっていますが、完全になったのではなく、工事中です。いつも悔い改めが必要です。日ごろ、信頼している信仰の友に自分の罪や肉の思いを告白するなら、罪から抜け出すことができます。
 このことを知ったパウロは、心痛め、悲しみましたが、コリントのみんなの悲しみとなったと言っています。5節。パウロは、はじめその人のことを聞いて、憤慨しましたが、その人も同じイエス様に救われた聖徒であり、神に似せて造られた尊い存在だということを忘れていませんでした。ですから、その人を憎むというより、悔い改めて、健全な交わりが回復するようにと書いたのです。
 パウロは、心痛めて、憤慨しているコリントの人々に対して、その罪を犯した人を慰めと赦しを与えるように書いています。6〜7節。多数の人から受けたあの処罰というのが、どういうものであるか分かりませんが、何らかの罪の指摘と責めを受けたようです。もう悔い改めていることが分かっているというのです。そうならば、その処罰で十分、その人を赦し、慰めてあげなければなりません。
 なぜなら、罪を悔いたならば、深い悲しみに押しつぶされるようになるからです。Uコリント7:10。失敗した、罪を犯したと悔いているだけなら、その悲しみや挫折感で、心が悲しみに押しつぶされて、病んでしまいます。悔い改めたならば、主の前に健康を取り戻し、交わりが回復できるようにしなければなりません。酷い罪責感に陥って、憂うつになって、自分は駄目だと自分を痛めつける人がいます。イエス様の十字架と復活を信じたのですから、悔い改めて、赦しと慰めを受けられます。
 ですから、その人に対する愛を示すように勧めています。8節。罪を犯した人は、心が痛んでいて、平安がありません。交わりから遠退いていました。今悔い改めているこの人は、聖徒たちの愛と慰めを必要としています。祝福と真実な交わりの回復を必要としています。そのために、その人に対する愛をあらわし、愛されていることを確認させるのです。

V−サタンに欺かれないため−9〜11
 私たちすべてが罪人です。でも、イエス様の十字架によって罪赦され、新しくされた者です。しばしば罪を犯してしまう者ですが、悔い改めて赦しを受けている者です。それにもかかわらず、罪人を憎んでしまうのでしょうか。人を批判しながら、自分は罪を犯さない義人のように思うのでしょうか。私たちが、どうしてこの重要なことで失敗するのでしょうか。サタンにだまされるからです。11節。この現代にそんなことと言うかもしれませんが、サタンの策略の第一はサタンなんていないと思わせることだ言います。サタンの働きは、分離を引き起こすことです。その目的は、私たちを敵対させ、分裂させることです。互いに怒らせ、赦せないと憎ませ、争うようにさせるのです。憎しみや怒りは、サタンの思う壺です。
 パウロは、自分が救われた罪人だと思い出すこと、赦された者として互いに赦し合うことを勧めています。9〜10節。私たちに重要なことは、一人の人が神様の御前で尊く生きるように助けてあげることであって、その罪をあばくことではありません。神様は赦せとおっしゃっているのに、赦すことができなくて、傲慢になって裁いて、争うのでしょうか。神様に愛され、赦されたのなら、当然赦さなければなりません。コロサイ3:13。
 パウロは、クリスチャンを迫害していた自分が、イエス様に出会い、愛されて、赦された者であることを悟りました。使徒9:1〜5。そんな自分を赦し、受け入れてくれたクリスチャンの愛に触れました。使徒9:26〜28。どんなにか慰められ、新しい命に生きるのを助けられたことでしょうか。私たちも、そうではありませんか。パウロは、「キリストの御前で赦した」と言っています。イエス様の働きは、分離されたものを再び結び合わせることです。エペソ2:14〜15。イエス様の福音が、あらゆるものの分裂を結び合わせ、修復させます。イエス様の愛こそが、結びの帯です。コロサイ3:14。
 私たちは、サタンの策略を知らなければなりません。11節。サタンは、策略を知らない人を用いて、他の人を攻撃するようにさせます。サタンの策略は、最も近い人々を利用して攻撃させます。近くにいる人に不満と疑いを起こさせ、違いを大きく見させ、一つになれないように思いこませるのです。人を生かすことは大変難しく時間がかかりますが、人の人格を殺すのは、あっという間です。サタンに欺かれてはなりません。不必要な肉の自尊心同士を戦わせ、感情と力を使い果たさせます。噂を言う人を用いて、人の言ったことを脚色させ、言わないことを広めさせます。
 祈り以外にこのようなサタンの策略に打ち勝つ方法はありません。人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動することが、サタンの攻撃に備えることになります。謙遜と慈愛をもって関係を維持して行くなら、サタンの策略に落ちることはありません。Tペテロ4:8。共にイエス様に救われ、神様に愛されている者として、互いに愛し合い、赦しあい、祈り合い、信仰を建て上げて行く交わりとしたいのです。コロサイ3:12〜14。



Uコリント2:1 そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。
2:2 もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。
2:3 あのような手紙を書いたのは、私が行くときには、私に喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられたくないからでした。それは、私の喜びがあなたがたすべての喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。
2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
2:5 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度──というのは言い過ぎにならないためですが──あなたがた全部を悲しませたのです。
2:6 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
2:7 あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
2:8 そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
2:9 私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
2:11 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。



マタイ7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

Tペテロ4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

Uコリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

コロサイ3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

エペソ2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

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