2016年1月24日「キリストの香り」Uコリント2:12〜17

序−私たちは、様々な出来事に出会いながら、不安や心配に心が捕らわれます。不安や心配を抱きながら日々歩むのは、辛いです。使徒パウロは、不安や心配に捕らえられた時、どうしたのでしょうか。

T−トロアスで心に安らぎがなかったのは−12〜13
 パウロは、福音を伝えるためにトロアスに行きました。そこで宣教の門が開かれて、福音宣教に恵まれたようです。宣教に情熱と命をかけていたパウロにとって、何よりもうれしかったはずです。それなのに、彼の心には安らぎがなかったと記されています。1〜2節。私たちにも、自分の状況は別段何もないのに、自分のことはまあまあうまく行っているのに、心に平安がないという時があります。なぜでしょう。
 パウロという人は、どんな逆境にいたとしても、信仰をしっかり抱いてひたむきに前進して行く人でした。そんな彼にも、弱い部分がありました。テトスに会えなかったので、心配でならなかったというのです。トロアスに行った目的はもう一つ、テトスに会うことでした。パウロは、ある問題のために涙の手紙を書き、テトスに持たせてコリントへ派遣しました。4節。コリントの問題をよく知っているから、聖徒たちがどれほど傷んでいるかを思って涙ながらに書きました。自分の手紙にどう反応したか、問題がどうなったか、気になっていました。そこでコリントから戻って来るテトスに会って、コリントの消息を聞きたかったのです。
 ところが、テトスに会えなかったので、気がかりは解消されず、心に安らぎはありませんでした。気が気でありませんでした。聞けるはずだったのに、聞けなかったので、余計不安が増大したようです。私たちも経験することではないでしょうか。あの人に言ったことがどう捉えられたのだろうか、あの問題はどうなるのか、あのことで真意が伝わっていないのではないか、私たちも家庭や仕事、人間関係において心配し、悩みます。
 パウロのような信仰の人でも、心配で、不安になってしまうことがあるのです。理由を考えてみましょう。信仰によって成熟して行けば行くほど、他の人の問題をより深刻に感じるようになります。人は、自分のことで何かがあれば、心に平安はなく気が気でなりませんが、他人に何かあったとしても、言葉をかけることはあっても、不安でならないということはありません。人の喜びを聞きながら、嬉しくなくて、妬みを感じるということもあります。
 ところが、信仰によって生きて行く人は、人の状況を聞いて、自分のことのように喜び、その痛みを一緒に感じるようになるのです。人の辛い様子を聞きながら、自分自身もその辛さを共に感じるのです。それは、共感する能力が備わるからです。それは、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」という信仰共同体の姿がそこにあるからです。Tコリント12:26。パウロは、コリント教会の聖徒たちに対してそうだったということです。
 ただ、ここで私たちが気をつけなければならないことがあります。よく心理相談を受ける人が注意するのは、相談者の問題全体を自分の責任のように考えてしまうなら、自分もその人の問題に陥ってしまうことです。一緒に水に溺れてしまえば、助け出すことができません。私たちができることは、人の痛みや悲しみに共感して、執り成し祈り、主の取り扱いを受けるように助けることです。Tコリント12:27。
 パウロは、コリントの問題を神様に委ねなければなりませんでした。祈ってテトスを遣わしたならば、主に委ねて、テトスが来るのを待つことです。パウロのような信仰の人でも、神様を忘れて、不安や心配に沈むならば、サタンの策略に落ちることになります。11節。私たちならなおのことです。

U−キリストを知る知識の香り−14〜16
 パウロは、やはり信仰の人です。一時期不安や心配に陥っていたとしても、神様の御前に戻って来ます。私たちもそうではありませんか。苦しみと悲しみの中で主に立ち返って、信仰の深みを味わいました。14節。私たちは、たいていのことを自分の考えや感情で判断するために、自分の考えの及ばないところで神様がどのようにしておられるか、悟ることができません。パウロは、トロアスで行き過ぎた心配をしても、何もすることができませんでした。ある時には、何もしないで、口を閉じて、静かにしていても、神様が私たちのために働いてくださいます。
 なんと、「キリストのかおり」を通して働いてくださるというのです。キリストの香りを通してって、どういうことでしょう。実際に、クリスチャンが言葉で言わなくて、静かにしていても、クリスチャンの香りがして来ます。香りと言っても、何かの香りではなく、イエス・キリストの信仰が漂うのです。それが、キリストの香りです。
 パウロがトロアスでできたことは、ただコリントの聖徒たちのことを心配して、とりなし祈ることだけでした。しかし、その姿を通して「キリストのかおり」を人々は感じたのです。使徒パウロは、「私たち」クリスチャンを「キリストを知る香り」と表現しています。世の人々も、信仰に生きるクリスチャンについて、何か貴いものを内に持っているように感じるのです。それは、神様の形、ご性質です。創世記1:26〜27。神様を恐れる心、御言葉に聞き従おうする思いが、それを漂わせるのです。
 クリスチャンがそれを意識していれば、むやみに肉の行動をすることができません。したとしても、主に立ち返って、変わるようになります。クリスチャンの勝利は、肉の思いのまま最後まで行かないということです。心配で不安で気が気でないとしても、信仰で耐えて行くなら、仕上げは神様がしてくださいます。家庭や仕事のことで思うように行かなくても、心配しながらも、信仰で耐えて神様に委ねるのです。
 結局クリスチャンは良い意味でも悪い意味でも、香りを漂わせるようになります。コリント教会で争いがあったことは、良い香りではありません。私たちが、親しい人々の間で悪い言葉を発したり、肉の思いで行動するなら、どんな臭いになるでしょうか。私たちは、肉の臭いを発することもでき、キリストのかぐわしい香りも漂わせることもできます。15節。人々の救いのために、私たちは、キリストのかぐわしい香りを放つ者でありたいのです。イエス様を信じて救われると、どうなるのでしょう。新しい命に生きる者となります。Uコリント5:17。それまでの肉の自分ではなくなるのです。イエス様が自分の身代わりとなって十字架にかかってくださったと信じたのですから、主の愛に応えて生きようとして、香りを放ち始めます。

V−キリストの香りにふさわしい者−16〜17
 14節の比喩に注目しましょう。「キリストによる勝利の行列に加えて、…かおりを放ってくださる」ということです。ローマ帝国の時代、将軍が戦いに勝利して凱旋する時、その凱旋パレードを知らせるために香がたかれて、香りが漂い、将軍が勝利したことが民衆に知らされます。そのように、キリストの勝利の罪と滅びに勝利した凱旋行列に私たちを連ならせてくださるというのです。
 私たちは、イエス様に出会い、救われるまでは、罪に捕らわれた者です。罪のゆえに神様に敵対していた者です。ところが、イエス様の十字架によって、罪に打ち勝ったイエス様のものとなりました。罪の捕らわれ人から解放されて、イエス様の捕虜、イエス様のしもべとなりました。捕虜として凱旋の行列に加えられました。コロサイ2:15。神様は、私たちを通してイエス様を知らせ、イエス様の救いを求めるようにさせます。
 「すべての支配と権威の武装を解除して」くださいます。コロサイ2:15。それまで、心を支配していたのは、肉と欲であり、プライドや称賛、知恵や地位などを武装して生きていました。しかし、肉と欲の支配から解放され、肉のプライド、称賛や権威という武装から解除されるのです。イエス様を救い主と信じて、イエス様のしもべとして生きて行くなら、人々を救いに導く「いのちに至らせるかおり」となります。16節。
 このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。17節。コリントで問題になっていたのは、神様の御言葉に何か別なものを混ぜていたことでした。肉の思いに合うように混ぜ物したので、それが流通したのです。私たちには、混ぜ物をして御言葉を語るより、自分の心に混ぜ物をして御言葉を入れているおそれがあります。そうなると、肉の思いで考え、行動してしまいます。噂話をするようになり、争います。どちらにしても、人の心を変えることはできません。かぐわしいキリストの香りとなることは到底できません。
 私たちの努力でなることでもありません。キリストの香りとは、イエス様の犠牲の香りです。イエス様の十字架の死こそが、神様への宥めの供え物としての芳しい香りとなりました。エペソ5:2。ですから、イエス様を信じて救われた私たちを通して、キリストの香りを放つようにさせるのです。そのためには、私たちも、自分自身を神様への生きた供え物としてささげます。それこそが、礼拝の生活となります。ローマ12:1〜2。イエス様が自分の身代わりとなって十字架にかかられたのです。私たちがこのイエス様の救いと愛に応えて、御言葉に聞き従って生きて行くことが、神様の御前に「かぐわしいキリストのかおり」となるのです。



Uコリント2:12 私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、
2:13 兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。



Tコリント12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

コロサイ2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

エペソ5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

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