2016年1月31日「キリストの推薦状」Uコリント3:1〜6
序−誰でも、人の評価というものがとても気になるものです。人の評価を得ようと努め、労苦します。仕事などでは、自分をアピールしたり、推薦を必要とする場面もあります。しかし、自己アピールや推薦に問題を感じたり、悩みも起こります。聖書はどう教えているのでしょうか。
T−私たちの推薦状は−1
パウロがコリントを去って後、エルサレムから来た教師たちの影響を受けた人々が、パウロを誤解し、色々悪く言うようになったようです。誤解されることは悲しいことです。私たちも、誤解されたり、認められなかったりすることは、悲しいし、辛くなります。パウロの信仰的対応に学びたいと思います。パウロは、そのことについてこう書いています。1節。
このパウロのことばには、背景があります。当時は、自己推薦や人からの推薦状をやり取りしていました。新しい指導者たちも、自己紹介書や権威筋からの推薦状を携えて来たのでしょう。それらが、彼らにとっては重要な意味を持っていたのです。だからこそ、パウロに関しても、推薦状を問題にしたのです。今日でも、学問やビジネスの世界では、自己評価書の提出が求められたり、誰かの推薦書を必要とされたりします。
「私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか」という質問の裏には 、パウロへの非難があります。 一つは、パウロが自分の業績を過度に 宣伝しているという非難です。パウロの手紙がそう受け取られたようです。しかし、パウロは、自分の業績を誇るどころか、自分がかつて酷い者であったと証ししています。ガラテヤ1:13。もう一つは、パウロが権威者からの推薦を受けていない偽預言者だ、使徒ではないというような非難です。
推薦状を重要視し、必要だと主張している人々の心情を考えてみましょう。彼らは単にパウロの悪口を言いたいだけではありません。彼ら自身、「誰から推薦されている」というところに自分の存在意義、自己認定の元を置いていたからです。そこには、彼ら自身の人となりとか彼らの働きとかは、入っていません。推薦状というのは、その人自身よりも誰の推薦かで価値が決まるものです。ですから、彼らも、それにより頼んで、すがりついていたわけです。そのような彼らにとって、推薦書の類を持っていなかったパウロ、評価を問題にしていなかったパウロを受け入れることができませんでした。苛立ちさえ感じたのでしょう。
私たちも含めて、人はこの人々のように、誰かの評価、認定を必要として、それがあるかないかで揺れ動いているのではないでしょうか。あればあるで高慢になるかもしれません。評価されなかったり、低い評価であれば、自信喪失したり、がっかりしたりするでしょう。評価されないどころか、誤解され、悪く言われたなら、辛く、悲しい思いになります。心が痛み、病気にさえなります。人と比べて妬んだり、誤解や低評価に憤慨したりすることもあるでしょう。
これは、健康的な姿ではありません。パウロはどう反応していたのでしょう。この質問には、「いいえ、自分を推薦していません。誰かの推薦状も必要としません」と言外に続いています。では、ただそんなもの必要ないと言っているだけなのでしょうか。
U−あなたがたが推薦書、キリストの手紙−2〜3
パウロは、クリスチャン独特の推薦状があると答えています。2〜3節。何と、コリントの聖徒たちに対して、「私たちの推薦状はあなたがた」だというのです。これは、他の誰かよりも、コリントの聖徒たちこそパウロについてよく知っている、パウロの働きをあらわしているということです。それも、紙に書かれていなくても、一部の人しか読めない推薦状のようなものでなく、多くの人々が読んで知ることができるものだと言っています。
ただし、だからと言って、コリントの聖徒たちがパウロの業績をあらわすから誇っている、というわけではありません。パウロがコリントで宣教の働きをしたことは、神様の導きであり、彼らが救われたのも神様の恵みです。それでも、日ごろ自分の業績を誇る人々は、パウロが自分を誇っていると誤解するかもしれません。そこで、3節では、もっと詳しく説明しています。「あなたがたが、私たちの奉仕によるキリストの手紙だ」というのです。イエス様が使徒パウロを通してコリントの聖徒たちを救いに導かれたということです。
コリントの人たちの救いは、パウロの推薦状となっているよりも、その救いをもたらしてくださったイエス・キリストご自身を推薦していることになります。推薦状という表現でなく、キリストの手紙と言い変えています。イエス様が私たちの救いのために世に来てくださり、十字架にかかってくださいました。身代わりの死によって、罪赦されました。イエス様がよみがえられたことにより、復活の命に与りました。この新しい命をもって、御言葉に生きて、主の栄光をあらわして生きているクリスチャンこそ、イエス様をあらわしている存在ということになります。
墨で書かれた紙はやがてぼろぼろになり、石に書かれた碑も風化してしまいますが、イエス様によって書かれた救いの手紙は、一人一人の心に深く刻まれており、どこに行ってもついていて、いつでも生きています。その人を通して、イエス様が推薦され、福音が紹介されています。私たちもそういう存在なのです。どんなに貴い存在でしょうか。
使徒パウロは、「私たちは、キリストの使節だ。福音のための大使の役を果たしています」と証ししています。Uコリント5:20, エペソ6:20。今日でも、大使が遣わされる時には、相手国の元首に対して、自国の元首からの信任状を奉呈します。私たちも、イエス様からの信任状をいただいて、それぞれの家庭や職場、学校や地域に遣わされているのだという自覚を持って生きて、証しの生活をしたいものです。
考えてみれば、パウロが「私たちの推薦状はあなたがたです」と言っているのですが、パウロを批判し、パウロを悩ませている人々まで、なぜ自分の推薦状だなんて言えたのでしょうか。私たちがパウロの立場だったら、とても言えない、言いたくないと思います。立派な人になっていれば、堂々と私の推薦状はあなたがただと言えるのですか。パウロの思いは、自分を誇っているのではなかったですね。ただイエス様から遣わされて、主に用いられて彼らに仕えたということだけです。
後は主が働いてくださった結果であり、一人一人の中にパウロにも分からない主の働きと恵みが必ずあるからです。彼ら自身がキリストの手紙となっているからです。テサロニケ教会の聖徒のために労苦したパウロは、彼らが自分の「望み、喜び、誇りの冠、誉れ」だと証ししています。Tテサロニケ2:19〜20。私たちが、ある人たちに対して、信仰をもって仕え、労苦したのならば、たとえその人たちがコリントの人々のような姿であったとしても、彼らが自分の推薦状と言うのです。彼らを自分の「望み、喜び、誇りの冠、誉れ」だ思い、仕え続け、労苦して行くのです。
V−御霊に仕える資格−4〜6
人の評価が気になっているでしょうか。評価を与えられない、誤解されていると心が痛んでいるでしょうか。自信がない、自分はだめだと言うのでしょうか。私たちは、どんな存在なのでしょうか。私たちには、イエス様が書いてくださった手紙があります。イエス様の救いの恵みが心に刻まれています。さらなるパウロの証しを聞きましょう。4〜5節。今や自己宣伝の時代です。会社や学校でも自己推薦書や自己アピールを出させることがあります。自分に良い点があっても、静かにしていれば誰も認めてくれないのでしょうか。私たちの悩みや戸惑いも、ここにあります。
なぜ私たちがキリストの手紙だと言えるのでしょうか。イエス様の印が付けられているからです。エペソ1:13〜14。イエス様を信じて救われた者には、この人はキリストのもの、キリストの手紙だと印が押されているのです。イエス様を信じた時から、洗礼を受けた時から、私たちのうちには聖霊が注がれ、宿っています。御言葉と聖霊の働きによって人は明らかに変化します。しかし、その変化は、内面的であるために、表からは分からないので、認めてくれないだけです。
他の人々は、自分を宣伝し、有名になろうとしますが、パウロは、聖霊によって変えられた人は、自分を宣伝する必要がないと言っています。私たちが信仰によってすることは、神様の恵みと導きの結果であり、自分のしたことだと宣伝できる資格がないというのです。人から認められなくても、くさる必要はないというのです。それじゃと心配しないでください。山の上にある町は隠れることができないと言うように、聖霊によって造り変えられた聖徒は、必ず世にあらわれるようになるというのです。私たちの光をもって世を照らすというのです。私たちの資格は、神様からです。
私たちは、家庭に仕え、会社で働きますが、神様に仕える者となっています。6節。人は自分の力で世に認められようと躍起になり、苦闘します。私たちは、イエス様を信じることで救われ、貴い存在とされました。これが恵みの契約です。私たちは、イエス様の救いの恵みが刻まれている存在です。イエス様の喜びの知らせを心に刻まれて世に遣わされています。家庭や職場に遣わされています。主の手紙として生きましょう。マタイ5:16。
Uコリント3:1 私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
Uコリント5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
エペソ6:20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
Tテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
エペソ1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
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