2016年2月7日「おおいを取りのけられて」Uコリント3:7〜18
序−私たちは、どんな姿で世に生きているのでしょうか。どのように人々から見られているのでしょうか。福音が地中海世界に広まっていた時代、救われた人々は、どれほど魅力的だったことでしょうか。しかし、受け取った福音の内容の違いで、その姿も大きく違っていたようです。
T−御霊の務めの栄光−7〜12
パウロが去った後コリントに来た教師たちは、ユダヤ人的な律法主義の人々だったようです。それで、その影響を受けた人々は、律法的なことを守ることがクリスチャンだと勘違いをしたのです。そして、パウロのことも誤解し、非難するようになったようです。コリント教会の中でも、しばしば肉の思いに揺さぶられて、争いや混乱が起こっていました。そんな姿を世の人々は、どのように見ていたでしょうか。その影響を受けていなかった人々は、どんな姿だったのでしょうか。
コリントの聖徒たちが、イエス様を信じて救われたのに、どうして喜びがなく不満ばかりなのでしょう。なぜ争いや批判が多かったのでしょうか。パウロから聞いた恵みの福音を忘れて、律法主義的な信仰になってしまいました。パウロは悲しみ、心痛めました。そこで、パウロは、出エジプトの時の出来事を引用しています。7〜11節。モーセが十戒を受けて山から降りた時、モーセの顔は光り輝いていました。 民がモーセを見ることができないほどでした。出エジプト34:29〜35
モーセが律法に仕える者であるにもかかわらず、その顔に輝きが出たというのです。 ですから、ましてイエス様の福音に仕える者の顔から出る輝きはどれほどなのだろうかと言っています。 律法で人を戒めるのに顔が輝いていたならば、人を生かす福音に仕える者の顔からキリストの輝きが出ないことがあろうかということです。 モーセの輝いた顔を通して、クリスチャンが受ける福音の素晴らしさ、卓越性を話しています。私たちの輝きはどうでしょうか。入院されたクリスチャンの顔が輝いているのを見たお医者さんが、びっくりしていたという話しを聞きました。
福音は、人を変え、人を生かすものです。この福音に生きている者の顔であるならば、さらに明るく輝くはずですというのです。 律法は永遠のものではなく、キリストが来られるまで人々を照らす一時的な輝きにすぎません。 モーセは、民をエジプトから連れ出し、神に導く働きの職を受けた人であり、キリストが全世界の救い主であられます。
かつてコリントの聖徒たちは、真の神様を知らず、偶像にとらわれて、罪と滅びの道を歩んでいた望みのない者でした。エペソ2:12〜13。光のない闇の中を歩んでいるような者でした。ところが、イエス様の福音によって救われて、罪の赦しと天国への命を与えられ、光の中を歩む者とされました。エペソ5:8。望みをもって生きる者へと変えられました。12節。どんなに光り輝く者とされたことでしょうか。Uテサロニケ2:14。
価値観が変わりました。世の見方ではなくなり、追及するものが世とは違うようになりました。自分の肉の欲を満足させることから、主の栄光をあらわす者へと変えられました。このような素晴らしい救いに与りながら、どうしてコリントの人たちは、肉の思いに揺さぶられるようになったのでしょうか。偶像礼拝に戻り、争いや噂話をするようになったのでしょうか。
U−思いは鈍くなった−13〜15
モーセの顔の覆いことで説明しています。13〜15節。出エジプト記34章では、シナイ山から十戒の板をもって降りて来た時、彼の顔が光を放つのを見た民が恐れたので、モーセは顔におおいをかけていました。 その輝く顔を隠したおおいが、最終的には神の栄光を見ることから、彼らの目を覆ってしまうことになりました。
しかし、それは、言うなれば、イスラエル人の頑なさのゆえに、おおいが掛けられているというのです。「思いは鈍くなった」というのは、頑固になったということです。彼らの心が頑なで、パウロの時代でも、そのおおいが取り外されないままだというのです。ローマ11:8。違った福音を心に入れているコリントの人々の心にも、おおいが掛かっているというのです。
彼らの関心は、救いによって心や生活が変えられるより、自分の肉の思うようになるか、自分の肉の思いを満足させてくれるかということにあります。肉の思いを神に願い、祈ります。そのようになっていたコリントの聖徒たちは、偶像礼拝をしていた時と何ら変わりありません。イエス様が来られた時も、ある人々は自分の肉の思いに合わないとイエス様を救い主と認めませんでした。使徒13:27。
顔に覆いを掛けていると、何も見えません。文字も読めません。たとえ聖書を読んでも、聞いても、心に覆いが掛かっていれば、御言葉の恵みが分かりません。御言葉が心に入って来ません。パウロ自身、心に覆いがかかっていた時、クリスチャンを捕まえて牢に入れることが偉い人々に認められ、律法に従うことだと思い込んでいたのです。心に覆いが掛かって、彼の思いは鈍くなりました。私たちも、自分の肉の思いが頑なになると、何かの条件をつけて、自分を縛るようになります。こうでなければと自分を叱咤し、人を認めないで、さばいてしまいます。
コリントの聖徒たちの中には、律法を守ることで信仰的であろうとした人々も多くいました。それは、律法を守れていると思えば高慢になり、守れないと思えば自分に失望し、自分を責めます。一生懸命クリスチャンらしく生きようと頑張るまじめなクリスチャンが、喜びのない辛い信仰生活を送るということがあります。私たちは、どうですか。何か一生懸命やれば神様に認められ、人々に認められると考えていなかったでしょうか。心におおいをかけていることになります。
頑なな心は、こうでなければだめだと自分のことも人のことも考えてしまいます。自分も人のことも、こうでなければという思いでしばり、さばいてしまいます。頑なな心は、受け入れることを拒み、人を批判し、否定します。なぜ、頑なになるのでしょうか。罪のゆえです。そして、この覆いは、自分では取り除くことはできません。
V−主なる神様との栄光の交わり−14,16〜18
頑なな心は罪のゆえなのですから、「キリストによって取り除かれる」ものです。14節。私たちの頑なさを生じさせる心の覆いという罪は、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様によって取り除かれます。そのためには、どうしたらいいのでしょうか。16節。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」というように、他に向いていた心が神様に向き直ることです。今心はどこに向いていますか。心に掛かったおおいが取り除けられる方法は、ただ神様によるほかありません。慈愛の神様と会うことです。
クリスチャンを捕まえることがいいことだと頑なに思いこんでいたパウロも、まばゆい光りの中でイエス様に出会った時、彼の心の向きがイエス様に向き直り、悔い改めて、イエス様を信じる者となりました。その時、彼の目からうろこのような覆いが落ちて、見えるようになりました。ここから、パウロの輝きが始まりました。
私たちも、悔い改めて主に向き直り、真実な喜びのある信仰生活をしたいのです。肉の思い中心の人生ではなく、自分のために十字架にまでかかってくださったイエス様に向いて悔い改め、イエス様を信じる信仰の人生を始めたいのです。そもそも、モーセの顔はなぜ光り輝いたのでしょうか。出エジプト34:29。シナイ山でモーセが、「主と話したので」彼の顔が光を放ったのではありませんか。主に向いて、主と交わり、主の御声を聞きて、御言葉に導かれる歩みをしようではありませんか。
福音の原点に戻ることが大切です。福音は私たちの側に何ひとつ功績や条件を付けていません。ただ、神様が一方的に救いに選んでくださり、ただ愛してあわれんでくださって、私たちの代わりに御子イエス様を十字架に渡されました。「ああ、イエス様ありがとうございます」と、信じるだけで救われるのです。ただ救いは、恵みによります。「イエス様の救いの恵みに応えて生きて行きたい」と、我と我が身を差し出し、御言葉に聞き従っていく時、美しく造り変えられ、力と祝福が注がれ、あれこれを成し遂げるようになるだけです。信仰に輝くことでしょう。
現実の生活において、私たちはどうでしょうか。 私たちは主の栄光を見て、私たち自身も福音の栄光を放ちながら、キリストの手紙の役割をしながら生きているでしょうか。福音が私たちに与えてくれたのは、神様との栄光の交わりです。 17〜18節。イエス様を信じた者には主の御霊が内住しています。ヨハネ14:16〜17,エペソ1:14。それは、神様と共に歩み、神様と交わる信仰生活です。そこには、本当の自由があります。
この世で、私たちがどれほど栄光を光り輝かせることができるのか、私たちは想像もできないほどです。御霊の働きによって、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿が変えられて行くのです。何と言う素晴らしい救いの恵みでしょうか。救われても少しも変わっていないのではないかと思うかもしれません。しかし、主との交わりがあるなら、主に似た者に変えられるという約束です。Tヨハネ3:2。私たちは、こうして礼拝によって、主に向き直り、主との交わりを持っています。一層しっかり礼拝の生活をして、輝いて生きて行きたいのです。
Uコリント3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
出エジプト34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。
34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。
34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
エペソ2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
Uテサロニケ2:14 ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。
ローマ11:8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
ヘブル3:13 「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
Tヨハネ3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
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