2016年2月14日「宝を土の器の中に」Uコリント4:1〜9
序−私たちは、どんな存在なのでしょう。多少肉のプライドを持っているでしょうが、たいていの人はあまり自信はありません。勉強や仕事が思うようにできないことや評価や人との比較に悩んでいます。自分の弱さや欠けを気にしており、それが高じて心や体まで害を及ぼすこともあります。自分は、どんな存在なのか、どんな力があるのか、御言葉に聞きましょう。
T−勇気を失うことなく−1〜2
パウロたちの務めの話を通して、すべてのクリスチャン、主の聖徒たちがどういう存在なのか、どのように務めを担うことができるのか教えています。使徒パウロは、自分たちの働きと存在について、何と言っていますか。1節。ここで、「勇気を失うことなく」と言われています。「落胆するな、がっかりしないで」ということです。パウロたちの働きは、うまく行かないで、誤解され反対されることがありました。それでも、がっかりしないで、落胆しないでやって来たと言っています。
私たちに関しても、一所懸命勉強や仕事をしていても、必ずしも功を奏すということばかりでなく、かえってやってもうまく行かないということも多いです。その努力が認められず、誤解や反対もあります。惨めな思いになるし、落胆もします。そうなると、何のために頑張っているのだろう、自分って何だろうという思いになります。パウロのように反対や誤解を受け、酷い目に会うとしたら、とても続けられないだろうと思います。
パウロが勇気を失わない理由は何ですか。「あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから」と言っています。パウロという人は、以前クリスチャンを迫害した人でしたが、神様のあわれみと赦しを受け、異邦人宣教師の務めに任じられた人です。使徒9:15。私たちも、神様の愛と赦しを受けた者です。自分では分からずに罪に翻弄されながら、生きる目的も自分という存在が何かも分からずに生きていました。しかし、こうして神様のあわれみと愛のゆえに礼拝をささげる者になっています。
神様は、私たちを罪と滅びから救うために、イエス様を私の罪と滅びの身代わりに十字架に渡されました。ここに私たちへのあわれみがあります。私たちも、神のあわれみを受けて今の努めに任じられたという信仰が必要です。パウロのような宣教師でなくても、主婦として会社員として学生として、神様のあわれみと導きでもってこの努めにあると思うのです。確かに自分が望んでその働きに付いたとしても、そのように神様が導いてくださった、あわれんで与えてくださったと受け止めるのです。
そうすると、一時期うまく行かなくても、勇気を失うことなく、神様が導き、守ってくださると受け止めることができます。確信をもって、取り組み続けることができます。確信と信仰的な自信感を備えた人は、心だけでなく、実際的な能力も備えることになります。イザヤ40:31。自分はだめだと思っていた人が、用いられ、できるようになります。神様とつながっている人生は、強くなります。失望して腐ったりすることがありません。
ですから、パウロが以前の迫害の罪を悔い改めて、新しいパウロとして生きていたように、私たちもイエス様を信じて新しい命に生きて行くのです。Uコリント5:17。世の価値観に流されるのでなく、自分の肉の思いに翻弄されるのでなく、聖書の価値観で神様の導きで生きて行くのです。2節。私たちはこういう存在なのです。生き方が変わって行きます。それが、神様の前で自分を人々に推薦していることになります。
U−自分ではなく、キリストを−3〜4
しかし、神様から任じられた働きだと自信をもってしても、良い結果が出るとは限りません。必ずしもその仕事や学びが認められるわけでもありません。どう受け止めればいいのでしょうか。パウロは、神様から宣教の務めを委ねられているという確信をもって、御言葉をそのまま、福音の真理を明らかに伝えました。担ったことはやったというのです。
後は、神様に委ねるということです。受け取る側のことまでパウロがどうこうしようとしたら、悩んで、無力感に陥ってしまうほかありません。受け取る側の責任であり、神様の主権に属することです。4節。この世の神、すなわちサタンが人々の思いをくらませているのです。いくら証ししも通じないなら、自分の力がないと思ったり、分からない相手を憎む必要はありません。後は祈って、神様に委ねて、導きを待ちます。
これは、宣教に限らず、仕事や勉強でも同じことです。努力したからとすぐに結果があらわれるとは限らないし、人々の評価が真実でもありません。確かに世の中は結果なのですが、信じて努力することが大事です。神様の祝福があれば、いつか実り、何かにつながって行きます。伝道者11:1。主に導かれる仕事や学びは、一時期の左遷や勉強の行き詰まりなどに翻弄されてはなりません。私は、神の御子イエス様が身代わりに十字架にかかってくださるほどの存在なのだ、神様が高価で尊いと言ってくださる存在なのだということを忘れてなりません。イザヤ43:4。
世の中は、何か自分をりっぱな者であるかのように見せようと必死です。実態以上の評価を受けようと、人のことまで自分がやったなどと言うことがあります。私たちの自信感は、自分の能力をひけらかして、肉のプライドを持つことではありません。パウロの宣教の働きは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えることです。5節。自分は評価されなくても、自分は目立たなくても、イエス様の福音が伝わり、人が救われ、神様の栄光があらわされればいいというのです。
家や会社の仕事に関して、たとえ自分が評価されなくても、その働きによって人々の助けとなり、神様の栄光をあらわすことになればよしとするのです。歴史に名を残したクリスチャンも、そのスタイルで生きた結果、脳力と賜物が発揮され、世で用いられたに過ぎません。私たちは、神様に命を与えられて世に生まれたのですから、神様から与えられた賜物をもって世で用いられ、人に仕えて生きるのです。そうして、福音を証しし、神の栄光をあらわして生きるのです。私たちはこういう存在です。
V−宝を土の器の中に−5〜9
イエス様を信じて、聖書の価値観で生きる者は、言わば「宝を土の器の中に入れている」ようなものだと言っています。7節。そもそも人がイエス様の福音に出会って救われるのは、やみの中に光りに照らされるようなものです。神様の天地創造の最初は、「光があれ」でした。創世記1:3。暗い心をも明るく照らしてくださいます。6節。私たちの心を照らして、イエス様にある栄光を見せてくださいます。
イエス様を知らないで、神様から遠く離れて生きていた時の私たちは、心に闇がありました。罪によって暗くなっていました。神様に出会う前は、何でも自分の計画、自分の肉の思いが中心だったからです。しかし、神様に出会うと、神様の御心に従うようになります。自分の弱さを自覚するなら、徹底して神様により頼むようになります。それが、私たちの輝きとなります。信仰とは、自分が何かを成し遂げるというより、ただ神様が導いてくださり、神様に用いられることです。それには、神様に無条件で愛され、受け入れられているという自己価値観が大切です。
神様は、私たちが自分の弱さや醜さを知ることを望んでおられます。受け入れがたいことですが、弱さを見ることは祝福なのです。神様に出会って、自分自身を発見した人は、悔い改めるようになります。イエス様の弟子たちは、愚かな者、弱い者、取るに足りない者や見下されている者だと言われています。Tコリント1:27〜28。どうして、あのような素晴らしい働きができたのでしょう。イエス様にある神様の栄光という宝を、土の器の中に入れていたからです。
神は、土の器のような私たちの中に主の栄光という宝を入れてくださいました。これは、その驚異的な力は、私たちから出てくるのではなく、神から出て来るのです。その宝は膨大な力の源である神様の栄光です。私たちは、どんなに頑張っても、所詮は土の器です。弱く、壊れ易い器です。だから、人は必死になって強がって見せたり、突っ張っていたりします。でも、そんな必要はありません。私たちは、弱い、欠けだらけの土の器であっても、そこに神の栄光という宝を入れている土の器なのです。イエス様を信じた者の内には、神の御霊が宿っているのです。
自分の体を土の器とたとえたパウロの体は、どんな体だったのでしょう。パウロには、「肉体のとげ」と言われる持病があったようです。Uコリント12:7。それを取り去ってくださるように願いましたが、祈ったパウロに対して、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」といわれました。Uコリント12:9〜10。そのままでパウロは宣教の努めを担い続けました。そんな体で宣教旅行も守られ、任務を果たすことができました。この譬えは、パウロの体験から出たものです。
とりわけ自分が弱い壊れ易い土の器だと感じるのは、苦難の中にいる時でしょう。でも、その土の器に入っている宝が、宝としての効果を発するのも、苦難の中にいる時です。8〜9節。信仰生活というのは、何も苦難や問題がないというのではありません。多くあります。しかし、たとえ苦しめられても、窮しません。途方にくれることがあっても、行きづまりません。迫害されても、神様から見捨てられてはいません。倒されることがあっても、主に守られ滅びることはありません。
Uコリント4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4:4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
イザヤ40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
伝道者11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
Uコリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
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