2016年2月21日「私たちの望み」Uコリント4:10〜18

序−私たちが失望落胆するのはなぜでしょう。患難に耐えられないと思うのは、どうしてでしょう。どうしたら、患難を乗り越えることができるのでしょうか。私たちの大きな不安や恐れは何でしょう。それをどうして克服できるのでしょうか。今日の箇所から学びます。

T−勇気を失う患難多き世−10〜11
 16節の「勇気を失いません」という言葉は、「落胆しない」と訳される言葉です。この「落胆」とは、ちょっと気持ちが落ち込むという位ではなく、深い絶望や悲しみに囚われる姿です。パウロは、コリント教会のことでは、しばしば落胆し、失望しました。エペソでは、ひどい目にあって、死ぬ覚悟すらしました。Uコリント1:8〜9。私たちは、どんなことで意気消沈し、落胆するのでしょうか。もう自分の力ではどうしようもない、もう何の望みもないという状況でしょうか。仕事のこと、生活のこと、病気、人間関係などにおいて、落胆することしばしばではないでしょうか。
 パウロは、最も意気消沈し、落胆するのは何だと言っていますか。10〜11節。パウロは、いつも自分たちの罪と滅びのためにイエス様が十字架につけられて死なれたと信じていましたが、それは、自分たちが死ぬべき者だといつも覚えているということです。人は、罪のために死んで、滅びる者だという事実です。死はもっとも大きな落胆の元であり、人から生きる勇気を失わせる最大のものです。死ぬことを考えるなら、他の落胆させることもたいしたことないと思えるようになります。
 頑張って勉強し一所懸命働いても、どうせ死んでしまうのであれば、と空しく生きる人も多いです。そのために、人はそんなことを考えないで、今だけ楽しく生きようとしています。それでも、落胆する場面や失望する状況は起こって来ます。死を意識させられる機会も、多くあります。死を考えないで生きることも、刹那的に生きることも、大切な人生を送るには、あまりにも残念な姿です。
 死と生について真剣に考えたことも、落胆することもないという人もいるかもしれません。それは、自分の人生について思い悩んだことのなく、世の中の悲しみや難しさに直面したことのない人です。人が、失望し、落胆するのは、生きることの難しさや置かれている状況の厳しさを痛感したり、孤独や深い悲しみを経験したり、死ぬべき者であることを覚える時です。家庭や仕事の問題のために、多くの人々が失望落胆し、病気になります。心を痛めながら、やっと生活します。問題多き人生を誠実に受け止めたからこそ、悲しみや空しさで心が病んでしまったと言えます。
 何も気にしないで、お気楽に生きることができるならいいのかもしれません。果たしてそれで人生を生きることができたと言えるでしょうか。人生を生きて行くなら、失望落胆に出会わずにはいられません。問題や患難を誠実に受け止めるなら、心痛め、悩みます。ですから、なぜ、パウロが「勇気を失いません。落胆しません」と言えるのか、知りたいのです。

U−イエスとともによみがえる−
 それは、もちろん信仰によるのですが、パウロの信仰を一言で言うならば、復活の信仰と言うことができます。12〜14節。パウロの考え方、思考方式が一変したのは、クリスチャンを迫害してダマスコへ行く途中、まばゆい光の中でイエス様の声を聞いた時です。すなわち、復活のイエス様に出会った時です。パウロは、それまで、死んだ人を神様として信仰しているなんて狂った信仰だとクリスチャンを迫害していました。ところが、復活されたイエス様に出会ったのです。
 私たちも、私のために神の御子が身代わりに十字架にかかってくださったと信じる時、霊的にイエス様と会うことになります。御霊なる神が心に宿ってくださいます。エペソ1:13〜14。イエス様と共に歩む人生が始まります。イエス様が十字架に掛かられたというのは、イエス様が私たちの罪と滅びの代わりに死んでくださったということです。Tペテロ3:18。人は神様に造られて、命を与えられた大切な存在であることを忘れて、神様から離れて、肉の思いで生きるようになりました。罪に翻弄されて、滅びに向かうしかありませんでした。それをイエス様の十字架に負わせたのが、神様の救いの御業であり、私たちに対する神様の愛です。ヨハネ3:16。
 私たちは、なぜ生きるのか、どうして生きるのか。天地万物を造られた神様が、私たちを造り、命を与え、人生を導いて、用いてくださるからです。15節。パウロは、人々に福音を伝え、人々がイエス様に出会い、自分の人生の意味を悟り、神様に与えられた新しい命で生きること願って生きていました。私たちも、世に生まれ出て来たのも、神様の目的があり、神様に生かされて、用いられるためです。人々を助け、神様の栄光をあらわして生きるためです。勉強することも、会社で仕事をすることも、子どもを育てることも、みな神様の導きの中にあります。一人一人が神様から愛されており、人のために用いられて行く尊い存在なのです。
 イエス様に出会ったパウロは、自分は間違っていた、自分の人生は失敗だったと終わるのではありませんでした。こんな私を赦して、愛してくださったばかりか、こんな自分を用いてくださるのだと知って、喜んで人々の救いのために仕え、神様の栄光をあらわして生きたのです。私たちも、それぞれ置かれた立場で、そのように生きるのです。Tコリント10:31。
 イエス様の十字架による救いは、永遠の命を与えるものです。救いとは、イエス様を信じる者が、滅びることなく、永遠のいのちを持つということです。イエス様を信じて救われたというのは、天国へ続く永遠の命を与えられたということです。イエス様に救われた者は、人間の最大の失望と落胆の元である死を乗り越えて、天国への命を持っているのです。ピリピ3:20。これがパウロの証ししている「私たちは勇気を失いません」ということです。イエス様を信じて救われた私たちの望みは、復活の命であり、天国へ続く命です。救われた者は、すでに永遠の命に生きているのです。

V−内なる人は日々新たに−
 人が落胆し、勇気を失うことの一つは、肉体の衰えなのではないでしょうか。16節。どんなに鍛錬しても、どんなにサプリメントを飲んでも、「外なる人は衰えて」行きます。多少遅らせることはできます。鍛錬や栄養もいいでしょう。大切なのは、信仰の望みによって「内なる人は日々新たにされて」行くことです。仮に若さの維持や肉体の保持にだけ望みを置くならば、肉体の衰えという事実によって、落胆するほかありません。
 肉体のちょっとした痛みや変化さえ、落胆のもとになり、ちょっとした問題や困難によってでも、失望してしまうのが、人の姿です。仕事や家庭のちょっとした変化でさえ、私たちの落胆のきっかけとなります。体だけでなく、そういうものを含めて「外なる人」と言っています。私たちを取り巻く環境は、私たちの心を失望させ、落胆させるものでいっぱいです。あなたを落胆させるものは何ですか。何のせいで失望するのですか。
 そんな中で、失望しないと言うのは、強がってではありません。パウロも自分は弱い者だと言っています。Uコリント12:7〜10。色々なことで悩まされ、苦しめられていました。Uコリント11:28〜29。肉体の弱さを痛感し、勇気を失い、落胆することもしばしばでした。しかし、そうした外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされたというのです。これは、パウロというイエス様を信じて、新しい命に生き始めた人の体験の証しです。
 パウロは、若い時に自分の肉の熱心でクリスチャンを迫害するという大きな失敗をしましたが、弱い体でも世界宣教の使徒として、多くの働きをすることができました。若い時のモーセは、自分の知恵と権力で何でもできると思って挫折しましたが、出エジプトという偉大な指導者として用いられました。その働きは、もう人生の終わりと思える年になってからです。外なる人は衰えても、内なる人は新たにされたからです。
 では、パウロの言う「内なる人」とは何でしょうか。いわゆる精神力ではありません。イエス様を信じて救われた人が、肉体の衰えや精神の疲れを持ちながらも、与えられた天国へ続く命で生きて働く姿こそ、内なる人です。信仰で死を乗り越えている人が、内なる人です。私たちがイエス様を信じて、復活の希望と天国へ続く命を確信して生きているなら、私たちにも内なる人が生きています。
 年を取って自分が分からなくなったら、内なる人はどうなるのと不安に思うかもしれません。私たちが信じて救われたなら、その救いは変わりありません。ローマ11:29。神様の愛も変わりません。私たちが患難の中で苦しむ時も、たとえ自分が分からなくなったとしても、共にいてくださり、天国まで一緒です。信仰とは目に見えないことに目を留めることです。17〜18節。私たちの意識の衰えも、外なる人にすぎません。自分のことが分からなくなったとしても、神様はその人をまるごと愛して、引き受けてくださいます。神様の御手で守ってくださいます。何と言う栄光でしょう。
 私たちが落胆する時、神様は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」と言ってくださいます。イザヤ43:1。「年をとっても、わたしは背負って、運ぼう」と約束されました。イザヤ46:4。なんと素晴らしいことでしょうか。こうして、信仰の恵みと素晴らしさを知ることが、まさに日々新たにされることになります。エペソ3:13,16。



Uコリント4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
4:13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。



Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

イザヤ43:1 恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

Tヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

エペソ3:13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

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