2016年2月28日「念願は主に喜ばれること」Uコリント5:1〜10
序−若い時や元気な時は、体の弱さや衰えを考えることがないでしょうが、事故に出会い、病気になり、年を取って行くなら、そういうことを実感するものです。その時、不安を感じ、心配になるかもしれません。しかし、心配はいりません。聖書を約束と保証を学びましょう。
T−地上の幕屋と天にある永遠の家−1〜3
1節において、パウロはこの世での人生と天国での人生を比較しています。この世で生きる生活は天国での生活と比べれば、幕屋、つまりテントに生活しているようなものだと言うのです。テントは、仮の住まい、一時的なものという特徴があります。ですから、世の生活はすべてが一時的だというのです。また、テントは強固なものとして建てることはできません。ですから、私たちの弱い体、世での人生は強固なものではないということです。テントは、人の手で労苦して作るものです。ですから、世での人生は、労苦多いものだということです。私たちのこの世での人生は、何とはかないことでしょうか。
テント生活でこの世に生きることは、まるで避難民のようです。そうすると、このとき最も問題になるのが、感情です。避難民となれば、喜びや平安がありません。心は不安や心配でいっぱいです。すでに救われたにもかかわらず、私たちの感情はどうでしょうか。救われた恵みの豊かさを享受しているでしょうか。肉の思いや罪に翻弄されていないでしょうか。感情が緊張し、不安定が続き、心が塞がれていたなら、心は痛み、疲弊します。ちょっとしたことで、怒りが出ていませんか。喜ぶべき時にも喜べず、悲しむべき時に悲しめないこともありますか。そうなれば、今私たちの感情は病んでいます。
しかし、天に永遠の家が用意されています。イエス様は、弟子たちと最後のお話の中で、「あなたがたのための場所を備えに行く」と言われました。ヨハネ14:1〜4。イエス様の十字架による救いによって、信じる私たちのために天での住まいが用意されているのです。ですから、イエス様に救われているならば、たとえ労苦が多く辛いことがあったとしても、一時的だし、やがては天の永遠の家に住めるという望みがあります。神様の御前では、私たちは永遠の命に生かされ、私たちの感情と意志と知性は安定し、平安になります。パウロが早く天の住まいに行きたいと言っても、早く死にたいと言っているのではありません。それだけ素晴らしい天の住まいが用意されているので、今の一時的な患難を耐えることができると、当時労苦していた聖徒たちを慰めているのです。
今世で経験していることが、私たちの信仰生活の全部ではありません。2〜3節。パウロは、この世の状態から天国の状態へ変わることを重ね着すると表現しています。以前の服を着ている状態で新しい服をその上に着るということです。今の私たちの感情や意思や考えがさっと消えてなくなって、新しい感情と意思と考えが与えられるというのではなく、この世の感情と意思と考えがそのまま残っている状態で、天のそれらが重ねられるという意味です。内なる新しい人とは、神様の御前に感情もなく、感じることもない無感覚の人となるというのではなく、今の状態から自然に天国での状態につながるというのです。
服を重ね着するということは、この世での聖徒たちと継続性があるということですが、天国へ行ったら、新しくなって分からなくなるということではありません。でも、こんな肉の感情や愚かな考えは、恥ずかしい、そんな記憶は嫌だというでしょう。この世の状態が、そのままつながるのではありません。そこには、相当の変化があるということです。この世での感情と考えと記憶に縛られない栄光の生活をすることができるということです。どんなに素晴らしいことでしょうか。
U−重荷を負って−4〜6
私たちの世での状態を幕屋、テントのようだと譬えていましたが、今度はそれをもっと説明しています。4節。重い荷を負っているなら、決して気楽になることはできないでしょう。私たちがこの世で生きるというのは、重荷を負って歩むようなものだと言われます。そもそも肉体を持っているために、食べて生きなければならないし、痛みや病、老いを経験しなければならないし、罪との戦いもあります。
こどもの時から勉強や試験というものが重荷ともなります。社会に出れば、仕事が無ければ、心の負担となり、辛い仕事であれば、それも辛い重荷となります。子育ても、問題や煩わされることがあれば、重い負担となります。パウロも、絶え間ない問題や攻撃に苦しめられました。それが、天国へ行くなら、弱い状態が飲み込まれ、重荷から解放されます。しかし、パウロは、早く重荷から抜け出したいというのではなく、天での生活が素晴らしいから、天で過ごすことを望んでいると言っています。
私たちのこの世での重荷は、ずっと続く、変わらない、どうすることもできないと思うならば、まさにそれは背中にくくりつけられた重い荷物になります。しかし、それはいつか軽くなる、いつか取り去られるとわかっていれば、担うことができるようになります。パウロは、そうして重荷を世にある間、担い続けました。神様に重荷を委ねるならば、神様が負ってくださいます。詩篇55:22, 68:19。そして、イエス様が、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と呼んでおられます。マタイ11:28。重荷はどうしても担わざるを得ないのです。ならば、神様に委ねて担ってもらい、イエス様の召しに応えて、休ませていただきましょう。
もう既にキリストを通して始まっています。キリストを通して既に「神様の永遠」が私達の中で始まっています。4節で「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」と言われています。望みのない人々にとって、死は人生が終わることを意味していることになります。しかし、クリスチャンにとって、死は命を失うのではなく、命に飲み込まれるというのです。驚くべきことです。人の死とは、神様の厳粛な召しです。イエス様は、私たちが御使いと同じようになると言っておられます。ルカ20:36。まったく足りないところがなく、復活時まで過ごすというのです。御使いは、私たちのような体は持っていませんが、霊の体を持っています。私たちは、そのような状態で過ごすというのです。5〜6節。聖霊は、私たちの救いの保証です。保証とは、保証という意味に加え、前払いという意味があります。私たちの弱さのために、取り消されたり、放棄されたりしません。主は聖霊として私たちと一緒にいてくださいます。私たちには、聖霊が私たちの中におられるということよりもっと、安全な状態があります。
V−どこに神経を使うのか−7〜10
私たちの関心は、今この幕屋にあるのでしょうか。それとも、天の完全な住まいにあるでしょうか。当然天にある完全な住まいですが、簡単なことではありません。パウロはどのように言っていますか。8節。論理的に考えるならば、一時的に不安定に住むところよりは、永遠に平安に住む家のことを考えるのは、当然です。それで、パウロは、大胆にも主の前にいることの方をもっと願う、天国へ行きたいというのですが、現実逃避でも、早く死にたいというのでもありません。
天での住まいが約束されているなら、今の一時的な生活もしっかりできるということです。9節。パウロは、死ぬことも生きることも、どちらも良いと言っています。死んだ先の素晴らしさが約束されているので、死はもはや恐ろしい不安なものではなくなりました。私たちは、天国では、現在の状態とは違うけれども、主は同じ方です。私たちが世に生きていた時も死んで天に行く時も、主は同じ、変わりません。
ですから、どちらでも、主の前に生きており、最善を尽すということになります。パウロは、世にあっても、天国でも、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」と言っています。パウロにとっての関心事は、主に喜ばれることです。この願いは、私たちの願いでもあります。この願いを持ってこの世を生きるなら、私たちの世での生活は、不安定な世にあっても、しっかり確実なものとなり、天国へ続く歩みとなります。
私の救いのために十字架にかかってくださったイエス様、感謝します。確かにこの世は不安定であり、私たちの体は弱く、私たちの人生は一時的なものです。しかし、イエス様が天国に私の場所を備えてくださったので、その救いの恵みに応えて、主に喜ばれるように生きたいのです。
そうすると、私たちの生き方の結果は、報いを受けることになります。10節。私たちクリスチャンは、世でどのように生きたのかによって、裁きを受けるようになるというのです。結局、私たちの救いは、この世に生きる間与えられたことに最善を尽しながら、神様の御心に従うことです。「各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」という厳粛な言葉に心を留めましょう。
最も重要なことは、弱い一時的なこの体をささげるのです。欠けだらけの弱い体をもって人々に仕え、自分の人生をもって主の栄光をあらわして行くことよりもっと重要なことはありません。十字架にかかられよみがえられたイエス様が、すでに天に私の住まいを用意してくださいました。もう不安なことも空しいこともありません。ただ私の念願とすることは、主に喜ばれることです。詩篇73:25,28。
Uコリント5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
ローマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
詩篇55:22 あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
68:19 ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。
マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
詩篇73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
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