2016年3月6日「キリストの愛が私を駆り立てて」Uコリント5:11〜21

序−自分が救われた信仰はどんなものなのか、知っているでしょうか。その素晴らしさをよく知っていると、その福音の力が大きく働きます。パウロという一人の人生を通して、福音の素晴らしさを学ぶことにしましょう。パウロの証しには、救われた者がどうあるのかが示されています。

T−私のことが明らかになることを望む−11〜13
 パウロという人は、しばしば誤解され、批判された人でした。素晴らしい人なのにと思うのですが、それだけに妬み、躓く者もいたようです。私たちも、責められたり、誤解されることもあるでしょう。パウロは、どのように自分のことを紹介しているでしょうか。12〜13節。パウロは、「主を恐れることを知っている」人であり、謙遜な人でした。ところが、パウロが自分のことを紹介するのを、自慢していると誤解する人もいました。自薦するというのは、中々難しいものです。
 パウロは、コリント教会で権威をふりかざすこともなく、聖徒たちと親しく接していました。そのために、かえってパウロを評価せず、軽く扱う人々もいたようです。パウロを悪く言い、侮る人たちは、「うわべのことで誇る人」と形容されています。人に対して威張り、自己主張の強い人ということです。私たちも、そういう人と色々な場面で接することも多いでしょう。そこで問題も起こり、心痛めたりします。
 面白いことに、「うわべのことで誇る人たちに対してパウロのことを誇るように」と言っています。言っていることと違うのではないかと思うのですが、パウロ自身のことでパウロが伝えている福音や神様のことまで低められ、誤解されてはならないからです。パウロは、自分の弱さや過去の失敗も明らかにしています。何の自慢もしていません。ただ、欠けや弱さのある自分を通して働かれる神様のこと、素晴らしい福音が伝わることを望んでいたからです。
 私たちも、これでいいのではないですか。神様の御業やイエス様の福音が伝われば、自分のことはいいでしょう。信仰的に事が進めば、自分は評価されなくてもよいのです。信仰で歩んだのであれば、沽券に関わるとかあんなこと言っているとかはどうでもいいと思うのです。人の言動で躓き、騒ぐのも、古い肉の思いから脱却しない姿ではないでしょうか。「栄光は主に、恥辱は我に」というほうが、かっこいいでしょう。
 パウロのしていることを、「気が狂っている」と悪く言う人もいました。13節。以前の律法主義のパウロを知っている人から見れば、あのユダヤ人として最高の学問を身に付け、律法に反するとクリスチャンを熱心に取り締まっていたサウロはおかしくなったのか、と思えたのでしょう。また、信仰なんて馬鹿げたものという人からすれば、学も教養もある人が十字架とか復活とか言っているなんておかしいと思えたのでしょう。
 そういう人の方がもっと愚かに偶像を拝んでいることを忘れています。現代も、宗教なんてという人たちが、占いや迷信にとらわれています。真実な神を信じない人には、真の神様を信じて、従って行く姿は、理解できないのです。占いや迷信にとらわれている自分に気付きません。イエス様も人々から理解されず、狂っているとも言われました。ヨハネ10:20,マルコ3:21。イエス様も言われたので、私たちが言われてもよしとしましょう。
 そうかと言って、常軌を逸した行動をすることではありません。非常識な言動に及び、配慮がないことは困ります。パウロの手紙を読むと、本当に人々に配慮していた人だなと分かります。けれども、主のためには、人々の救いのためには、それはもう熱心に狂ったように働き、労苦していたということです。自分に示された神の愛を知ったならば、狂うほどに喜び、感謝をあらわし、賛美し、伝えたくなるのではないでしょうか。

U−キリストの愛が私を取り囲んで−14〜15,17
 どうしてそのようにできたのでしょう。パウロの決心や能力からではありません。また、私たちが救われていながらも、人の言動で躓き、騒ぐのは、何を分かっていないからでしょうか。14〜15節。福音において最も重要なことは、イエス・キリストの十字架の死は、私たちのための身代わりの死だということです。クリスチャンの救いは、ここにあります。
 クリスチャンになった、救われたということは、神の御子が自分のために十字架に死なれたということを信じているのです。パウロが伝えたいことは、自分のためにイエス様が十字架に死なれたことを信じた人は、もう人生を自分のしたい放題にできない、人生は自分のものでないということです。イエス様を信じた時、私たちの古い人は死んだのです。もう自分のプライドとか肉の思いで生きるのではなく、新しく生まれ変わった命、価値観で生きる、主の栄光をあらわして生きて、働く者となったのです。
 パウロという人は、以前は教会を迫害していた人でした。ユダヤ人としての申し分の無い学問、出自、業績によって生きていた人でした。ところが、クリスチャンをダマスコまで捕まえに行く途中で、イエス様の声を聞き、回心しました。クリスチャンを迫害していたのに、「なぜ私を迫害するのか」と言われたイエス様は、彼を赦されたばかりか、異邦人宣教の働きに召してくださいました。イエス様に出会い、人生の価値観、生き方を一変せざるをえませんでした。17節。私たちも、イエス様を信じた時、「新しく造られた者」となりました。霊的造り変えが始まりました。
 私たちは、かつてどんな価値観、どんな肉の思いで生きていたでしょうか。空しさと生き辛さの中で生きていたのではないでしょうか。神様は、そんな私たちをあわれみ、罪と滅びの身代わりにイエス様を十字架に渡されました。私たちを罪と滅びの中から救い出してくださいました。新しい命で新たな価値観と希望に生きるようにしてくださいました。状況や時代は変わっても、そのイエス様の愛は変わっていません。同じ福音で救われた私たちも、パウロと同じ衝撃と感動を受けることができるはずです。
 この救いの愛をパウロは、何と形容していますか。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と言っています。14節。これは、「キリストの愛が私たちに迫って来る」とか「駆り立てる」とか訳されています。たとえば、Uコリント5:17、ガラテヤ2:20、Tペテロ2:24などの救いの御言葉が心に強く迫って来ます。イエス様の十字架の愛に感謝し、与えられた新しい命で生きていこうと心駆り立てられるのです。イエス様の愛が強く迫って来たならば、私たちの生き方は変わらざるを得ません。熱心に福音を証しして、主の栄光をあらわして働こうという思いに駆り立てられるのです。
 ですから、クリスチャンの生活や働きは、頑張らなければならない、などと言うものではありません。このようにしたいという自分の熱意があっても、中々そうできないのが私たちです。でも、御言葉に生きたい、イエス様に喜ばれる生活をしよう、仕事も勉強も主の栄光をあらわそう、そうせざるを得ないようにキリストの十字架の愛が迫って来るのです。そのように生きたいと心の熱心が駆り立てられるのです。

V−和解のことばを私にゆだねられた−16〜21
 そうすると、私たちの生き方に変化が起こって来ます。「人間的な標準で人を知ろうとしない」と言っています。自分が新しくなるならば、社会を見る目も変わる、人の受け止め方も変わらざるを得なくなります。16節。パウロは、それまでの価値観が変わりました。ピリピ3:7〜8。それまでのパウロは、民族、身分、学問、知識、業績等すべてについて人一倍誇りとし、より頼んで生きていました。ピリピ3:4〜6。自分の肉の思いで人をさばいていたからこそ、クリスチャンをいじめたわけです。救われた私たちは、そのような価値観で人を見るのでなく、救いの恵みで人を見るのです。
 私たちは、イエス様を信じて救われた者でしょうか。それならば、価値観が変わり、人を見る目が変わり、社会への取組みが変わるはずです。クリスチャンとして意味ある人生、社会で主に用いられる者となっていますから、勉強も仕事も働きも自ずと変わって来ます。させられるでなく、喜んで熱心にしたいに変わって来ます。イエス様の十字架の死は、私だけのためだけでなく、「すべての人のために死なれた」のです。15節。これを信じているならば、肉の思いだけで人の言動を受け止めることから変わります。イエス様を通して、一人一人が尊い存在であることをわきまえ、受け止めるようになります。沽券に関わるとかあんなこと言っていると、人の言動で躓き、騒ぐことがなくなって来るのです。
 そして、神様の和解の救いを伝える「キリストの使節」となります。イエス様の十字架による救いとは、罪を犯すことよって神様から離れて敵対する者が、神様と和解することです。18〜21節。この和解は、神様から出されたものです。違反行為の責めを人に負わせないで、私たちの代わりにイエス様を十字架につけられました。驚くべきはそれだけでなく、この和解の働き、救いを伝える働きを、何と私たち信じるすべての者に与えられたということです。キリストから世に遣わされた大使なのです。
 私たちは、どうやったら福音をうまく伝えられるだろうかなどと考えるでしょう。私たち自身が福音を信じて、救われた経験をしています。福音について知識もあります。イエス様を伝えようとしていますか。必要なのは、原動力です。どうしても伝えたい、伝えずにはおられないという思いです。Tコリント9:16。イエス様の愛があなたに迫り、キリストの使節として駆り立てられますように願います。



Uコリント5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。



ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ピリピ3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

ローマ6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

Tコリント9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。

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